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ほんとうのわたし?

ブログを書けてないブログ

今日はそれほど予定の詰まってない1日で。
昼ごはんを買いに行ったついでに本屋さんに立ち寄ってみた。
心理学のコーナーで、気になっていた1冊を手にとってみる。

「ダメなあいつを、なんとかしたい!」

ダメかどうか分からないけど、うまくいかなかったことが
山のように重なってることは確かです。

もういいです。
本当にもう疲れた。

宿題3つ、わたしも明日からやってみなきゃね。
でも、お母さんを捨ててもいい、は言えるんだよね。




ブログを読んでると、他の人がみんな
スムーズに前に進んでるように見える。

心屋流の方法で、1回1回どんどん前に進んでるように見える。
わたしは、どうして同じところをぐるぐる回ってるんだろう。

回ってることに、自分的なメリットがあるからなのか。。。
昨日の個人カウンセリング。

最初は何だこれ、、、みたいな相談というか日本語を繰り返していたわたし。

日曜日に参加したお話し会でも、
話せない核心があるとそれを避けようとまわりだけを話してしまうことがあると…
まさしく昨日のしょっぱなの状態でした。

実は、なんだか異常に緊張していて。
行くのが怖かった。怖いって友達にも言ってたほど。

それは、戻してしまった私の現実を誰かに伝えるのは初めてで、
とても勇気のいることだったから。
否定される!こわい!って思いながら話すことの怖さといったら…
これにまさる怖さは無いと思う。

でも、日曜日にも言われた。
まだそこにいたい。もっと味わってたいんだろう。って。
それで、ちょっと諦めもついてた。

だから、もうやっちゃったもんはやっちゃったし、
それでもしんどいからカウンセリング申し込んだんだし、
もう言わないとだめ!って思って言ってみた。

うん。もちろん、他の人の悩みみたいに。
そんなこと悩まなくていいよ~って悩みじゃないから、
反応は、あはは~ってものは得られなくて。

やっぱり、そうだよね。。。
(あー、言って損したかも。言わなきゃよかった。)
って、心の中で思いながら、変な日本語を繰り返して。
自己弁護しはじめる、わたしって、かなり痛いな。

弱い部分を見せた後は雄弁に語る。
それがわたし。というか、それが人間なのか。
弱いと思われたくなくて、言葉でねじ伏せようとする。
納得させようとする、賛同させようとする。

あー、変な癖あるなー。


そしてふと思う。
なんでこんなに何回も同じことを繰り返してるの??
なんでダメなわたしに、わたしが許してないわたしに戻って行こうとするの?

「本当に見たいものはなんなんでしょうか?」

これも自分の悪い癖。
変な収集癖があって、素直になれない。
本当の構造を知ってるよ、知ってるわたしすごいでしょ?
って思われたい。
知ってるから、悪いことしてても許してもらえるでしょ?
って言い訳したい。

うー。ほんとに問題だらけやなぁ。


そしてたどりついたのは。
「お母さんに『いいよ』って言われないことも選びたい」

いいよって、絶対に絶対に言われない、究極のものを目の前に作ってしまった。


どはー。
どんだけ子供。。。
拗ねすぎ。。。

甘えんぼなのは自覚してる。
お母さんがいないと何にもできない。
決めて欲しい。背中を押して欲しい。


言えなかった言葉。
「私は私」
「お母さんはお母さん」
まだちょっとザワっとする。

つるっと言えた言葉。
「お母さんを捨ててもいい」
全然言える。

もしかしたら、私もそうなのかなって想いでTVを観たこともあった。
でも、全然心に引っかからなかった。
この言葉が言えない芸能人を見て、「なんだ私は違うんだ」って思った。
お母さんと私には問題が無い。そう思っていた。


だから分からなかった。
言えなかった言葉が何を意味しているのか。


「言ってみてどう?」って聞かれる。
「全然言える。気にならない。」


その時、私じゃない誰かが話し始めたの!!


捨てるって言うのは、持ってるものをポイってするような感じだと思う。
わたしはお母さんを持ってたり、面倒を見てるわけじゃないから、
捨てるって表現には、何にも感じない。
実際に捨てるものが手の中に無い。
だけど、「私は私」「お母さんはお母さん」って言うのは
2人が別々のものだってことだから言えない。
2人は一つだから、分離させられるのが怖い。

手のひらをくっつけて、片方の手の甲をこちらに向ける。
手前の手は私。奥の手はお母さん。
人から見えてるのはお母さん。いつでもお母さん。

だから、私は私の人生が送れてない。
どんなに頑張って目立つことしても、お母さんが前に立ってて。

「私、お母さんの人生を生きてる」


と、そこまで誰かが私の口と声をのっとって話しました。


そして、そんなんだったんだ私の30年ちょっと…と思うと、
恐ろしくて悲しくて、
声上げてしゃくりあげて泣いた。


今でもまだ思い出すとざわざわする。


お母さん大好き。
いつでも私のことを守ってくれる。
強くて、優しくて、なんでもできる人。
この人がOKって言うことはいつも正しい。
だから、間違いない、この人がOKしてくれることを選んで生きよう。

きっと、小さいときにそう思った。

そして、その証拠集めのように、
お母さんは強かった。たくましかった。優しかった。美しかった。
わたしはいつもお母さんの前でだけ弱かった。

そして、お母さんにご褒美をあげるために、わたしは外面は良かった。
わたしが褒められるんじゃなくて、わたしを通してお母さんが褒められるように生きてた。
というか、わたしがお母さんを生きてたから。
わたしを褒める言葉は直接わたしではなく、お母さんの耳に入るようになってた。


だから、お母さんにわたしのことを聞いても
いつも、かわいがられる存在、友達がたくさんいる子、という評価だった。
全然違うのになーっていつも思ってた。
親だから、子供の評価が高いんだろうくらいに思ってた。

でも、違ったんだねー。
わたしもよく頑張ったな。えらいな。


いなくなったら死んでしまうと、つい最近も思っていた。
お母さんが歳を取っていつか死んでしまったら。
そうなったときの自分が全く想像つかなかった。というか、
たぶんその時はわたしも命を絶つだろうとすら思った。
生きられないと思った。

そりゃそうだ。
わたしはお母さんで、お母さんはわたしだったんだ。


でも、気がついたから。
わたしはお母さんから離れて、わたしが選びたいものを選ぶよ。
間違ってるって言われても、認められないって思われても。
わたしが笑える毎日を選ぶよ。


きっと、お母さんは、わたしが選ぶならそれでいいって言ってくれると思う。
わたしが犯罪者になっても愛してくれると思う。


だから、もういいや。
今の自分でいられるだけい続ける。

いままで、やりたいと思ったら、力技で、何にでも挑戦してきた。
計画を立てれば、やりたいと思えば、できないことなんてないと、
そう思って生きてきた。

だけど、気付けば、「それを企てて実行する」ことに重点を置いていて、
中身を味わったり、感じたり、本来の目的を忘れていた。

予定を作れる自分。
それを実行できる自分。
何でもできるえらい自分。

そんなことにしがみついていた。気がする。

周りのものが無いと、
本当は自分には何の価値も無いような気がして。
ただ自分で居るっていうことがとてつもなく恐ろしく感じる。

○○してる自分。
○○へ行った自分。
○○にあった自分。
○○さんに好かれている自分。

ラベルをつけてないと怖い。

なんでだろう。

とにかく、ラベル禁止期間です。
ラベルをつけない自分に慣れたい。

でも、気を緩めると新しいラベルを探してる。
やめたいのにやめられない。

やめたいよー。