私は、薄情なのでしょうか。


もう二度とこの目で見ることが適わない、声を聴くことすら今となっては過去に遡るしかない、そんな彼女のことを想うのに、胸が締め付けられるような痛みも、思わずこぼれてしまう涙も、既にもう無いのです。


あるのは、晴れ晴れとした寂しさだけ。


……そう、それぞれの道を歩き出すべく、前への一歩を踏み出していった、幾人もの子ども達を見送ったときのように。



思えば、彼女との…彼女達との出会いは、あるテレビの歌番組でした。


ほかの歌手の歌を聴くために見たとある歌番組で、歌い踊る彼女達が何となく印象に残り、心の隅に引っかかっていたのが全ての始まりで切っ掛けだった。…そう言い切ってしまっても良いのでしょう。


それほどまでに、私と“アイドル”とは縁が無いものでした。


そして、そのときは、彼女に惹かれることも、まだ、ありませんでした。だから、そのときは、まだ、彼女たちの歌を真剣に聴くこともなく、CDの曲をウォークマンに入れて時折気が向いたときに聴く、そんな程度でした。





彼女が心に入ってきたのは、とあるイベントでのことでした。


さだまさしさんが好きで、「CDは歌のカタログ」とトークで聞いていましたから、いつかは生で歌い踊る姿を見たいと思ってはいたものの、慣れ親しんだコンサートとは勝手が違う場所に行くのも気が引けて、いつかいつかと思いながらついつい先延ばしにしていました。


何とはなしに情報を追ううちに、ミニライブのイベントがある、という話が目に飛び込んできました。


ミニライブならば、短時間で済むだろう。

ほんのさわりだけでも聴きたいのならば、丁度良い時間とボリュームなのではないか。


そう思い、ようやく重い腰を上げて、そのミニライブに参加してみたのです。



行ったその場で、私は、明らかに異質でした。

それはそうでしょう。

性別も、年齢も、かなり幅がある中でしたが、そこに居る人達は圧倒的な熱量でステージを見つめ、声援を送っていたのですから。

仮初の興味で、彼女達をぼんやりと眺めているのは私だけだったのですから。


その所為か、はたまた陣取った位置が所謂“人気メン”と呼ばれる人達がよく目の前に来る位置だった為なのか、私には、ステージはほとんど見えませんでした。

それはそうでしょう。

私の目の前の人達は、必死に、と言わんばかりに、背伸びをし、肩ごしに覗き込みあい、時には延々と飛び跳ねていたのですから、私に許された視界などほとんど無かったのです。


が。


そんな中、ふと、数瞬だけ視界が開けました。そして、ようやく見えたステージの上のひとを見て、年齢も、性別も、全てを超えて、心臓が跳ねていました。


こんなに綺麗なひと、ここに居たっけ??


女性を見てドキッとしたのは、そのときが最初で最後でした。

それが「鈴木香音」というひとを初めて認識したときでした。

……何せ私は、未だメンバー全員の名前と顔すら一致していなかったのですから。



それからは、無我夢中でした。

気が付けば、チケットを取ってコンサートに行くようになりました。

半ば呆れ顔で見ていたのに、彼女の近くに居たくてチェキ会やらサイン会やら握手会などというものにも足を運ぶようにもなりました。

彼女のイベントに参加したい一心で、ファンクラブにまで加入していました。

私の生活の中に、彼女はしっかりと根を張っていました。





鈴木香音がモーニング娘。を卒業する。

見ず知らずの私が傍から見ていられる芸能界を引退し、別の人生を歩む。


それを聞いたとき、私は驚き、そして、落胆しました。

しかし、その決断自体に、私は驚くことはありませんでした。

予定調和の言葉のとおり、それはまるで最初から決められていたかと思うほど、心にすとんと落ちてきていたのです。



思えば、彼女は“笑顔”“穏やかさ”“優しさ”を体全体で現していたようなひとです。

そして、私が知る彼女は、生き馬の目を抜く芸能界で生きるにはあまりにも普通すぎる、ひとりの可愛い女の子でした。


彼女は、その場に求められることを即座にしっかり表現出来るひとですし、歌声にしても自身の存在を埋もれず示せるほどのものがありましたので、この先タレントの道を選んでも、歌手の道を選んでも、そこそこ名を残すことは出来たでしょう。

何よりも、その笑顔と優しさで、多くの人の心を救うことが出来る未来はあったでしょう。

でも、彼女は、その手を間接的にではなく、直接彼女が救うべき人に伸ばす道を選びました。

落胆は、その手が自分に向けられることがない未来を思うエゴイズム。

納得は、彼女の優しさを知るが故の、未来に対する希望。


その笑顔は、哀しい心を癒して笑う力になるでしょう。

その穏やかさは、荒れた心を静めて周りに目を向ける切っ掛けになるでしょう。

その優しさは、冷えた心を温めて前を向く勇気をくれるに違いありません。


だから、今思い、祈ることは、これだけ。

たった一度の人生、彼女の周りが笑顔で溢れますように。

そして、彼女自身も笑顔の中で人生を過ごすことが出来ますように。


私は、これまでも、これからも、鈴木香音さん、あなたのファンです。






ただひとつだけ泣き言を。

私は、鈴木香音さんのファンになってから、幾度も足を運んだ、名古屋の【フォレストホール】という場所があります。

モーニング娘。'16は、秋のツアー中、10月にここでコンサートを行うそうです。

………しかし、私が次にここに来るのは、9月のさだまさしコンサートです。


未練は、あります。

あの子の、今よりももっともっと化けるであろう歌を聴きたい。

あの子と、趣味のひとつであるパ・リーグの話をしたい。

でも、それよりも、彼女がもう居ないステージを見ることが、辛い。

彼女が愛したモーニング娘。を、私はこれからも陰ながら応援していきます。

が……コンサートやイベントに足を運ぶことは、今後はもう無いでしょう。


9月のコンサートが終わった後、このホールでの私の記憶は上書きされるのでしょうか。

それとも、「鈴木香音」のトレードマークであった

「ありがとうございました!」

の残像をステージに見つけて、ほんの少し泣くのでしょうか。

『パレスハウステンボス』深紅の薔薇 “憧れ”を、覚えていますか?


幼い頃は、目の前にあるものがすべて憧れでした。

遠くと言う程遥か彼方にある訳ではない。

近くと言う程手の届くところにある訳でもない。

だから、“憧れ”という言葉がいつも身近にあったのかもしれません。


子どもの頃は、より一層“憧れ”を多く抱いていたものでした。
外の世界に触れ、自分の世界が広がった所為もあったのでしょう。

知らなかったことを知るということは、手の届かぬものをもっとたくさん知ること。

そして、それに向かって手を伸ばす強さを、自分ではそれと知らずに身に付けていること。

それが、何も知らぬ子どもに許された特権だったのかもしれないと思うようになりました。

そして、その思いが、その強さが、他ならぬ自分を成長させることだったのかもしれません。


『パレスハウステンボス』ロイヤルプリンセス 大人になると、“憧れ”と“諦め”を同義で使うことがあります。

“憧れ”は、手に入らぬもの。

自分には、既に変わる力が無いと思い込むことが、そう、思わせてしまったのかもしれないと考えたことがありました。


何故、そう思い込むことがあるのでしょう。

可能性は何時になっても微塵も変わることが無いのに。


ふと、思ったことがあります。

大人になるということは、進むべき道を決めてしまったときなのではないか、と。

だから、自分が進まなかった道を“憧れ”という言葉にすり替えて“諦め”を覚えてしまったのではないか、と。

だからこそ、狡さを身に着けた大人達は、その狡さや諦めを認めたくなくて“憧れ”という言葉を使うのではないか、と。

・・・・・・いえ、“狡さ”では無く、“疲れ”がそれを言わせているのかもしれません。


『パレスハウステンボス』雨に濡れる薔薇 ハウステンボスの最奥に『パレスハウステンボス』という、オランダの宮殿を再現した建物があります。

そして、その前庭右手には『ローズガーデン』と呼ばれる一画があります。

ここには、多くの薔薇が初夏と秋に咲き誇ります。

・・・・・・疲れて諦めを覚えた私に笑うかのように。


薔薇の香りは、何時か感じていた“憧れ”を思い起こさせてくれます。

堂々と咲き誇る、その姿で。

優しく広がる、その香りで。

雨にも風にも負けることが無い、その強さで。


だからこそ、人は、薔薇に心を惹かれるのでしょう。

そして、その姿に優美さと強さを見て、憧れるのでしょう。


この『パレスハウステンボス』の『ローズガーデン』では、疲れた顔をついぞ見かけたことがありません。

どんなときも、優しい顔をし、花を愛で、嬉しそうに花と写真に納まる方ばかりを見るのです。

花には、優しさを思い起こさせてくれるものがあります。

それは、昨今流行の“癒し”などという薄っぺらい言葉では説明することなど出来そうにありません。

花の優しさに触れるから。

花を通して、花を愛する人の優しさに触れるから。

だからこそ、人は、何時の時代にも花を愛でる心を育んできたのでしょう。


『ローズガーデン』の中にいると、何とも言えぬ温かさを感じます。

そして、その温かさが、もう一度“憧れ”に手を伸ばさせる強さ・・・・・・勇気を思い起こさせてくれるのです。

“憧れ”は、決してガラスケースの中に後生大事に仕舞っておくものじゃない。

“憧れ”は、決して手が届かないと諦めるものじゃないよ、と、花に教えられるような気さえするのです。


もう一度だけ、言葉にします。

“憧れ”を、覚えていますか?と。


桜 花は、どうして咲くんだろう?

ずっと前から、それは私にとっての謎でした。


花は、私たちの心を和ませてくれる存在です。

けれど、生き物には自分たちの為に存在する為の理由がある。

それも、また、事実です。

そして、その理由は、単に人の心を和ませるというだけのものではないことは明白です。なぜなら、花を人が愛でたところで、花にとっては何の得も無いのですから。


あるとき、授業で花の存在価値を知ったのは何時のことでしょう・・・・・・。

花は、自己を犠牲にして、次代への命をつむぐ為に美しさを競うのです。

自分の身を削って蜜を出し、少しでも目立つように美しさを競い、虫を誘って受粉を促し、次代の命を種という形で生み出す為、ただそれだけの為に。



薄墨の桜 振り返って、「テーマパーク」というものが何故存在するのだろう?ということをふと考えたことがあります。

これこそ、私たちに楽しみを与えること、「サービス」という、ただそれだけの為に存在しているものだと言えるのではないでしょうか?


人間は、感情の生き物です。

ただ生命を繋ぐ為だけで行動することはほとんどありません。

(無論中にはその為に行動する方々が、国内のみならず海外にもいらっしゃることは承知しています。が、それでも、次代への命を繋ぐ為、好まぬ方に身を任せることなど無いのではないでしょうか?)

その為、人は、自分にとって心地良い空間を求めています。

その基準は、無論人によって違うのは承知していますが。体力に任せて楽しみを求める方あり、眼福を求める方あり、食をはじめとした快楽を求める方あり・・・・・・。

私の場合、安らぎを求めることが多いです。



桜とチューリップ けれど、人へ奉仕するだけでは、“「テーマパーク」の人々”が壊れてしまうのではないか?

そう、危惧したことがありました。


他人を想うことは、人にとって最大の美点だったはずです。

なのに、昨今、他人のことよりも自分のことを優先し、自分の意見が容れられない為に他人の尊厳を踏みにじる程に怒り出したり、自分の思うようにいかない為に他人との付き合いを絶ったり、自分の行動を優先する為に他人の都合や状況を無視して我勝ちに行動したりすることが、多いような気がします。

「テーマパーク」でもまた然り。

イベントを待つ列を乱す程の我先という状態の行動や、危険が判っていながらの大きなものの放置など、今までのハウステンボスでは考えられない状態を幾度も目にしました。そして、その度に、ハウステンボスの方々の必死の叫びを哀しい程に耳にしました。


地元のディズニーは、既に安らげる場所ではありません。ですから、私は、思い立ったらすぐにでも足を運ぶことが出来る状況にありますが、自分の意思で足を運ぶことは年に一度くらいしかありません。・・・・・・それも、ディズニーを楽しむためではなく、夜間の割引チケットを使って然るバーへ飲みに行く、要は高いバーへ行くのと同じ状態です。

それなのに、ハウステンボスへは、飛行機を使い、宿泊をし、通常では考えられない程の手間をかけてまで通っています。無論このような状況ですから頻繁に通うなど思いも寄りませんが、それでも、周囲の方々に比べれば考えられない程の頻度でハウステンボスを訪れているのでしょう。


だから、この場所を壊すことはしたくない。

本当に、そう思います。

せめて自分だけでも他人を想い、ハウステンボスの方々を想う行動をしたいと思ったものです。

・・・・・・『カフェ・デ・ハーフェン』のスタッフと大喧嘩した私が何を言うか、という自嘲も無くははないのですが。


運河沿いオレンジチューリップ  ハウステンボス様


15回目の誕生日を迎えるにあたり、心よりお祝いを申し上げます。


この15年間、あなたにとっては決して楽しいことばかりではなかったのは、私も承知しております。何せあなたは一度言葉に尽くせぬほどの辛い思いを経験しているのですから・・・・・・。


それでもあなたは逃げ出そうとしなかった。むしろ、その辛さに立ち向かう道を選んだ。

そのことについて、私は賞賛を捧げます。

そして、あの日からステレオタイプのテーマパークとは一線を画す様々な企画やアイディアを盛り込んでくださった。その為に、楽しみの選択肢がより広がったのは時間(とき)の皮肉とも言えましょうか?

昔のあなたも嫌いではありませんが、少なくとも、私は今のあなたのほうが好きです。



『パレスハウステンボス』前庭植え込み あなたを好きだという方は決して少なくは無い。

そう、この想いだけがあなたを支える糧になっているのでしょう。


及ばずながら、私もその一人と言ってしまっても良いでしょうか?


確かに、私は“遅れてきた”ファンのひとりです。

私が本格的にあなたの元に通うようになってから、まだ10年も経ってはいません。ですから、あなたが「この世の春」を謳歌していた時期も知りません。


それでも、昔好きだった、そして今は無くなってしまったものはひとつやふたつではありません。それも、確かな事実です。

けれど、前を見て進みだしたあなたは、昔々の青息吐息のあなたよりもずっと輝いて見えます。そして、それでも根底にある穏やかさや優しさは決して変わらないことが、私に心地良い空間を与えてくれるのではないか?と、そんな想いが浮かびます。



『ホテルデンハーグ』ちゅーりー支配人 実は、私の近くにも、あなたと同様のものが存在しています。

が、あなたと触れることで感じる「優しさ」「安らぎ」「穏やかさ」とは、それは無縁です。むしろ「忙しなさ」「殺気立つ感情」が先に立ち、彼の場所が本当にお好きな方はともかく、地元の私達はむしろ

「別にそこに行かなくても・・・・・・」

という諦念に近い想いを抱くことも多いのです。また、近くにあるが故に、却って

「何時でもそこに行くことが出来る」

と思うことも、そこから足が遠のく一因でもあるのでしょう。


何も知らない頃の子どもの私ならば、それでも「楽しさ」を求め、彼の場所へと足を運んだものでした。

ですが、1分1秒を削りながら生きる今の私は、彼の場所へなど行ったら体も心もへとへとに疲れてしまいます。それなのに、彼の場所の近くにいる私ですから、場合によっては彼の場所へと足を運ばざるを得ない状況もありますので、疲れるために自ら彼の場所へ赴くときもあるのです。


疲れたとき、見る夢は、あなたの風景と穏やかな風です。

あなたのそこここで感じる、頬をやさしく撫でるような穏やかな風・・・・・・。

そして、お会いする方々の温かい微笑み・・・・・・。

それらに出会うたびに、泣きたくなるような幸福感に包まれます。


変わっていくあなたを、私は陰ながら応援し続けていきたい。

でも、あの穏やかな、緩やかな、温かなひとときを守り続けて欲しい。

勝手ながら、これが私の願いです。



P.S.

私は、いつまでも、あなたのことが大好きです。

イチゴ風味のチーズケーキ イチゴというと、みなさんはどんなことを思い浮かべますか?
恐らく、心がうきうきしたり、華やかな気分になることも多いのではありませんか?

実は、私がそうです。


どうしてかな・・・・・・?と考えたとき、思い浮かんだことがありました。

もしかして、みなさんも同じことを思い浮かべていらしたかもしれません。

そうです、子どもの頃、クリスマスやお誕生会のときのデコレーションケーキや、特別なお祝いのときに食べさせて貰ったショートケーキの上に乗っていた、あの真っ赤な可愛いイチゴ。

小さな可愛い実の赤い色に見入り、甘酸っぱい味にうっとりし、そのときを存分に楽しんだ、あの記憶。

ひたすらに甘えていられた、そして笑っていられた、今の自分の苦しみや悲しみとは無縁でいることが出来た、あの頃。

あの甘く切なく懐かしい想い出を、この小さな実の中に見ることが出来るのかもしれません。


2006年イチゴのカクテル「Graicy」 「イチゴって、何?」

と聞くと、大抵の方が果物だとお答えになります。

ところが、園芸上では、イチゴはスイカやメロンと同様に野菜として扱われているのだそうです。が、これはあくまでもお役所の決め事ですので、私たち食べる方にとっては果物と呼んだ方がしっくりきます。実際、市場で売買されるときには当然の如く果物扱いされているのですから。


イチゴは、ヨーロッパでは聖母マリアの象徴とされてきたそうです。また、中世のイギリスでは正義の象徴ともされ、貴族の冠にはイチゴの葉の飾りを付ける習慣があったのだそうです。

言われてみれば、その美しい姿も清々しい香りも凛と引き立って清楚に見えるから不思議なものですよね。

イチゴのシャーベット ハウステンボスが元々はオランダをモチーフにして作られたテーマパークであることは周知の事実です。現在のイチゴは、北アメリカ原産の野生種と南アメリカ原産の野生種が、オランダの農場で交配されて作られたものが元になっているそうですから、これほどイチゴに相応しいテーマパークも他に無いでしょう。


だから・・・・・・という訳でも無いのでしょうが、美味しい露地もののイチゴの旬のこの時期、ハウステンボスでは「スリーベリーフェア」という食の祭典を開催しています。これは、イチゴ(strawberry)にブルーベリー(blueberry)とラズベリー(raspberry)を加えた3種の“ベリー”をふんだんに使ったデザートや飲み物を提供する、この時期ならではのイベントです。

『パティスリー』で昨年・一昨年と大好評だったデザート「イチゴボスコ」には、今年は残念ながら出会えそうもありませんが、新作「イチゴバーガー」が代わりに私達を出迎えてくれますし、『グランキャフェ』では「ストロベリーニ」というオリジナルカクテルが2種類(スパークリングワインベースとジンベース)と「フラーゴラ」というイチゴとミルクのカクテルがお目見えしています。他にも『花畑のカフェ』という風車脇のオープンカフェや『ラフレシール』というテイクアウト専門(一部喫食可)のチーズケーキハウス、それからイタリアンレストランの『プッチーニ』もデザートやケーキを用意してこの「スリーベリーフェア」に参戦しています。


実を申し上げますと、表題はビートルズの曲です。ジョン・レノンが書いた何とも切ないメロディーで、私がビートルズに一時期傾倒したのもこの曲があってこそ、と言ってしまっても過言では無いかもしれません。

この曲の中で、ジョン・レノンはこう言っています。

「本当のことなど何も無く、時間を浪費したところで手に入れるものも何も無い」

・・・・・・今の私達の生活とダブって見えるものがありませんか?


今のこの時代、何を信じて良いのだろうか?

本当の価値など、実際にあるのだろうか?

懸命にあくせく生きて、働いて、それでこの手に何が残るのだろうか?

そう考えると、空しさだけが募り、無力感に苛まれることもあるでしょう。投げやりになり、気分が落ち込んでばかり・・・・・・というときもあるかもしれません。

そんなとき、「スリーベリー」の芳香と甘酸っぱい優しい味に触れて、柔らかくそよぐ春の風に吹かれて、色とりどりのチューリップや鮮やかな緑や海の青をこの目に焼き付けて、何もしないままで昇る朝日や沈む夕日を眺めて過ごして・・・・・・。恐らく、あっという間に時間は過ぎ去ることでしょう。が、疲れや苦しみや悲しみは全て海の中に溶けて沈んでしまうことでしょう。

こんな時間が過ごせるのが、ハウステンボスの魅力です。


ここは、何かをする為に来るところではない。

何もしない為に来るところだ。

私は、人にハウステンボスのことを聞かれると、いつもこう答えます。

そこに美味しいジューシィな旬のイチゴやブルーベリーやラズベリーが加わると最高の時間を過ごせますよね。

「スリーベリーフェア」は2/10~4/8迄開催しています。

本当は、この時期幾度も足を運びたいな・・・・・・と思うこともありますが。

パレスハウステンボス前庭  時々、心が疲れてどうしようもない事があります。それが自分だけでは無いことくらいは判ってはいるけれど・・・・・・。張り詰めて張り詰めて張り裂けそうになっているのが痛いくらいに判ります。

 そんなときは、何をしても心が晴れることはありません。遊びに行っても心は更に疲れを増すばかり。楽しい話をしているはずなのに、みんなで笑っているはずなのに、心の中に重苦しく澱んだ部分がある。笑っているときですら、声をあげて泣き出しそうになる自分が、そこにいます。


 心が疲れてどうしようもなくなると、私は、ハウステンボスへ行きます。

ここにはいつも、安らぎがあるから。そしていつも、笑顔があるから。

 ハウステンボスのホテルでゆったりするのも、バーで美味しいお酒と一緒に会話を楽しむのも大好きです。けど、それよりも、緑の中に、花の中に、海のそばに設えられたベンチで座って寛ぐひとときこそが最高に心休まるものなのです。木陰のベンチでお気に入りの本を取り出して読みふけったり、海辺のベンチに腰掛けて寄せては返す波を飽きることなく眺めたり・・・・・・。



ホテルヨーロッパポンツーン  作られた場所であることは、もちろん解っています。でも、だからこそ、今の私には心安らぐ場所になっているのかもしれません。


 今、世の中はスピードを求めています。数字を求めています。その中に、人が入る余地はありません。目まぐるしく変わる数字を追いかけて、状況は刻々と変化していく。そのスピードについていく為には“人”が“ヒト”らしくしていては追いつくことは出来ません。スピードについていく為の歯車・・・・・・それが、今の時代に“人”に求められていることなのかもしれません。


 もちろん、“私”が“ワタシ”でいることも出来ません。“私”でいる間の私は、感情を脱ぎ捨ててただ目の前の状況を処理することに全力を注いでいるのではないかと思うことがあります。ひとつの事が終わる前に、次の事を処理することが求められます。初めのうちでこそ、ゆっくりと物事を考えて自分の考えも取り入れながら他人の顔も思い浮かべながら・・・・・・というテンポで物事を見ることが出来ましたが、今ではそんな悠長なことは思いもよりません。歩く速さも少しずつ速くなり、それでも遅いと、また、速く速くと足を進める。立ち止まって脇見をする余裕などありません。気が付くと眉間にしわを寄せたまま険しい表情で進む自分が、そこにいる・・・・・・。



キンデルダイク運河沿い  振り返ってみると、私の周りには自然らしき自然も無いのではないかと思います。街路樹は確かにありますが、排気ガスを吸って哀しく灰色に染まった葉がついています。綺麗に整備してあるからなのでしょうが、雑草の1本すら歩く道端には生えていません。そこには、生きているという実感はありません。

 人にしても同様です。ふと足を止めて路傍を見る余裕などありません。もちろん、ベンチに腰掛けてゆっくりと寛ぐ暇などありません。そのようなことをしていたら、むしろ奇異の目で見られるだけのことでしょう。


 でも、ここでならそんな時間が許されます。花の中のベンチで憩い、海のそばのベンチで寛ぐ。閉鎖された空間では無く、花の匂いや草木の匂い、海の匂いに包まれながら。

 ひとりでいる訳じゃない。ひとりだけなんて寂しすぎる。でも、他人といたくは無い。他人の目を気にしないで、他人のペースに合わせないで自分だけでゆっくりしたい。矛盾したそんな我儘を、私が“ワタシ”として存在することを、優しく静かに包み込んでくれるのがハウステンボスという空間なのかもしれません。