2週間前、出雲へお参りに行き、その後
嫌なことがどかーーーんといっぺんにやってきた。
「毒出し」といわれるものなのかしら。
そうだといいけれど。
ふと、首を吊ることを考えることが多くなった。
ため息をつくように、それを考える。
5年ほど前に始まったこの願望は、
3年ほど前、三浦春馬演じるローラが静めてくれた。
彼はもういない。
わたしの苦しみと衝動を止めてくれた恩人は、自らの手で人生を終わらせたのだ。
わたしは多分、実行することはないと思う。
しかし、
この無の状態から、逃げ出したい。
今は、首を吊ることがイメージされる前に、涙が出てくる。もう1週間。
楽しいこともない。
美味しいものは好きだけど、ここんとこおいしいと感じるものは食べていない。
部屋の掃除もできない。
仕事は、某商業施策のインフォメーションと、事務のアルバイト。
私でなくてもよい仕事だ。
私が選んだのだけれど。
バージョンアップしたい。
「私の仕事」をしたい。
クリエイティブに生きていきたい。
事務の仕事は、やりたくて始めた内容だ。
いまや、私は何のために雇われたのかわからない。
年下の上司も嫌いだ。
誰も信頼できない。
相談できる人もいない。
こんな時に話を聞いてくれる友人も、いない。
それもそのはずだ。
私が話を聞かなかったから。
「それはそれは、さぞ悲しかったでしょうね」「辛かったでしょうね」
そんな慰め無駄だと思っていた。
何の解決にならない。
それなら、相手に役に立ちそうな私自身の解決法や、本で読んだ偉人の言葉など、すぐ実行すると役に立つものを提案していた。
それでも友人はまだまだ愚痴る。
上司がこうだー、後輩がこうだー云々。
愚痴っても解決はしない。
意味がなく、自分を下げる行為だ。
友人は、解決など求めていなかったのかもしれない。きっとそうだ。
「うん、うん」「そうだったの」「そんなことがあったの」
なんて、一緒に悲しんで、怒って、笑って。
そういうことを求めていたんだろう。
求めるものと違ったから、何度も何度も同じことを私に言い続けたのだろう。
私はといえば、
「いま、その話する?」「愚痴は後にしようよ」「目の前のゴージャスな料理に集中しようよ」
「そんな空気を汚すような愚痴言って、嫌いな人のこと話しながらなんて、せっかくの美味しい料理の味がわからなくなるよ」
と、こんな具合だ。
それはそれで正しいのかもしれない。
"正しい"
それは、時に私の首を絞めてくる。
情緒不安定だ。
体が冷たいからだろうか。
温めてみよう。
自分で自分の人生を終わらせないために。
少しずつ、1歩ずつ、
進んでいくしかないのだろう。
だって、自分では死ねないから。
死ねないんだから。仕方ないんだ。
生きていくしか。
こんなこと書いていたが、リビングに降りて家族と他愛もない話を1、2言話しただけで心が晴れる。
「さっきまで、なにをあんなに?」と。
人は偉大だ。相手がいること。ありがとう。
人と関わろう。
