―今日もあの人は、帰ってこない。
午前を大幅に回った時計を見上げて、朋子は溜息をついた。
朋子達夫婦は、今年で5年目を迎える。
職場の先輩だった博章に、先に目を奪われたのは朋子のほうだった。
―付き合い始めのころ、あの人に聞いたことがあったっけ。
「私の第一印象って、どんなだったの?」
「うーん・・・そうだなあ」
「かわいい、とか、彼氏いるのかな、とか
何か思ってくれたんでしょう?」
朋子は彼を後ろから抱き締めながら、甘えた声で聞いた。
彼女はこの質問が好きだった。
友達や付き合った彼には、仲良くなってから必ず聞いていた。
そうすると、「はじめから仲良くなりたかった」とか「きれいだと思っていた」
とか、好意的な答えをくれる人ばかりだった。
朋子自身、恋人や友達は、最初から良い印象を持った人としか付き合わなかったから
博章からも、彼女を十分に幸せにする答えをもらえると信じて疑わなかった。
却ってくるであろう、幸せになれる甘い言葉を待ちながら。
「ああ、思いだした。『これが、うちの部署の今年の女子職員か。』と思った」
「・・それだけ?」
「これで、お茶くみは彼女に任せられるな、とも思った。」
「なにそれ~?女性として、見てなかったってことじゃない?」
ふくれっ面になる朋子に、智博はやさしく微笑んだ。
「最初は興味がなかったとしても、今ではこれだけ僕は君のことが
好きなんだから、第一印象なんてあてにならないんだよ」
―そう言っていたのに。
今、第一印象の「お茶くみ」状態どころか、
博章にとっての、朋子は
「家政婦」でしかないのだろう。
冷たくなった夕食を片づけながら、
何度目かわからなくなった溜息をつく。
―また夕食が無駄になった
―だけど、こんなのいつものことじゃないかー
博章が仕事で帰れないのか、他に女を作っているから帰らないのか
今の朋子にはわからなかった。
数年前までは、博章は「遅くなる」とか「今夜は帰れない」とか
必ず電話をかけてきてくれた。理由がどうであれ、帰れない事実を
きちんと朋子に伝えてくれたのだ。
いつの日からか、それがなくなった。
「帰れない」ことを詫びる気持ちが博章になくなったのだろう。
それはそのまま、朋子への愛情の深さと比例していた。
それでも離婚をする気もなければ、家事に手を抜くことさえ
できなかった。
ほとんど捨てることになる夕食ですら、きちんと作っていた。
身体が弱くて外に
働きにいけない朋子にとって、家事は唯一の仕事だった。
こうして、帰ってこない日はあるけれど、博章は家にきちんと
お金を入れてくれる。
電機メーカーに勤める博章の給料はけして悪くはなかった。
結婚して3年でマンションも買い、田舎ではあるけれど、けして
不便ではないこの町が朋子は気に入っていた。
朋子の両親は、すでに亡くなって、実家と呼べる場所もない。
離婚して、勤めに出て、一人で暮らしていくことなど、
今の朋子にとってはとてつもなく難しいことのように思えた。
そんななか、家事に手を抜いてしまったら、朋子がこの家にいる理由が
なくなってしまう。
それはそのまま、自分の存在理由を自分自身で否定することだった。
だから、どんなに食べてもらえないとわかっている夕食でも
作らずにはいられなかったのだ。
―これでいいの。
ぼうっと片づけをしていると、雨が降ってきた
片付けの手をとめて、
カーテンを開けて外を眺めてみる。
雨の雫は、ガラス戸の表面を波立たせ、
朋子の顔をぼんやりと映していた
―ガラス戸に映った自分の顔は嫌い・・・
ガラス戸に映る自分は、鏡のそれよりも何倍も
老けていく自分の顔の造形をはっきりと映し出している
―こんな顔しているのね、今のわたしは。
若い若いと思っていたけど、頬がたるんできている。
ホウレイ線も、目の下のクマや膨らみも、
20代のころには気にならなかったのに。
その時、ふいに涙があふれた。
―こんな日は。
こんな日は、いつもあの時代に逃げ込むことにしていた。
片づけを終えると、
寝室の一番左の棚から、かなりくたびれたアクセサリー入れを取り出した。
それは、ベージュ色でトランク型をしていた。
安物のベルベット生地の外側は、角の部分が台紙と生地の糊が剥がれて、めくれ上がっていた。
留め金は金色のボタンだがくすんでいる。
メッキがすっかりはげてしまったそのボタンをプチン、プチンと
はずすと、
彼女はそうっと開いてみた。
そこには、くたびれた灰色の生地の上に、5つの石が置いてあった。
彼女はひとつの石を取り上げて、ぼんやりと眺めてみた。
今まで恋が終わるたびに、その恋に石の名前をつけてきた。
結婚して、すっかり恋からは遠ざかっていたが、
石を眺めて、その恋を思い出すことが朋子の
唯一の楽しみになっていた。
浮気もする勇気のない朋子にとって、
過去の自分に戻ることが
心が踊る唯一の瞬間かもしれない。
そう今日も、過去の世界に自分をつれていくのだ。
そうだ、今日はあの日へ帰ろう。
○●●のような色の恋をしたあの日に・・・。
