宮崎駿の原点には「子供に受けなかったらどうしよう」という恐怖感がある。


その恐怖感の克服の結果として、宮崎アニメの“奇妙な表現”が生まれている。


日本映画史上最大のヒットとなった「千と千尋の神隠し」の、あるシーンを観てみよう。



湯屋に迷い込んだ千尋は風呂を管理している「釜じい」のところに行き、仕事をさせてほしいと懇願する。


しかし、釜じいは千尋を無視し仕事を続ける。

そして、木槌を手に持ち、台を強くたたく。



このシーンの注目してもらいたいところは、木槌で台をたたくところだ。

台をたたくと、台の端に置かれたどんぶり(おそらく食事後)がぐらぐらと揺れ、すぐにでも落ちそうになる。


このシーンに特別な意味はない。


しかし、宮崎駿は釜じいの何気ない動作に緊張感を与えるために、どんぶりを揺らせ、しかも落ちそうな演技までさせているのだ。


このような目に見えない演出が、この映画のあちこちにちりばめられていて、あらためて指摘しない限り誰も気づくことがない。


2~3分に一度は、“奇妙な表現”が織り込まれていて、無意識にスクリーンに釘付けになってしまう仕掛けになっている。


ある意味「映像のサブリミナル効果」によって物語の世界に集中させている、という高等技術である。


一方、息子の吾朗が手がけた「ゲド」には、このような小細工がほとんど見あたらない。

だから、すぐに映像に退屈してしまうのだ。


宮崎駿の映像には、さらに人間の基本的欲求を満たす表現も多い。



「千と千尋」では、特にこの2つのシーンに注目してもらいたい。


一つは「腐り神」の入浴シーン。

もう一つは巨大化した「顔ナシ」が怒り狂うシーン。


この2つのシーンに共通するのは“排泄”だ。


千尋が腐り神に引っかかった自転車のハンドルを引っ張ると、怒濤のごとくヘドロとゴミが出てきて、悪臭を放っていたどす黒い腐り神が「ああ~」という快楽の声を出して、清らかな透き通った神に生まれ変わる。


あらゆるものを食い尽くして巨大化した「顔ナシ」が、千尋が飲み込ませた「苦団子」によって苦しみ始め、これまで飲み込んだものを口からどんどんはき出していく。


この2つのシーンは、ある意味グロい映像なのだが、どこか無意識にスッキリする感覚を得られる。

自分が排泄したときの感覚と似ているのだ。


この感覚は子供になればなるほど顕著で、気持ちよささえ与えているのだ。



子供に「千と千尋」を見せると、その効果をすぐに確認できる。

大人が想像もしないところで笑い、何でもないシーンで受けているのだ。



どれだけ子供に飽きさせずスクリーンに顔を向けさせるか、を考えつくした宮崎駿は、映画の至る所に子供に受けるシーンを差し込んでいる。


だから、物語として難解である「千と千尋」でも、子供は何回観ても飽きずに集中して観ることができる。



この話に似た事例では、セサミストリートがある。


セサミストリートは、そもそも集中力のない子供を矯正するために作られた教育番組である。

多くの科学者が参加し、「どうしたら子供がTVの内容に集中するか」を研究した結果、様々な仕掛けを織り込んだコンテンツが作られた。


しかも、一度作った番組を実際に子供にみせ、どこで集中し、どこで集中力が途切れるかを検証して番組作りに反映している。


その結果、数分ごとにハプニングや面白いシーンが巧みにくみ上げられた作品となった。



このセサミストリートと同じコンセプトで宮崎駿の映画も作られている。


だから、表面だけ真似をしようとしても、同じような作品を作ることは困難なのだ。



さらにもう一つ、宮崎アニメで指摘しておかなくてはならないポイントがある。


それが、「性的」である、ということだ。

これは嫌らしいという意味とは別のところにある。


「千と千尋」の湯屋は、いわゆる昔の性的な場所が舞台であるのは言うまでもない。

問題はそこではなく、物語がそもそもどこから着想されたか、ということである。


プロデューサーの鈴木敏夫氏は「千と千尋」の着想が誕生したときの会話を覚えている。



あるとき、鈴木敏夫のところに友人が訪ねてきた。

そこで世間話をしていたときにキャバクラの話になった。

キャバクラのかわいいおネエちゃんが、最初は話も下手だったのがだんだん上手くなり

最後には素敵な女性に変身していく、という話だった。


その話を宮崎駿に話したところ、


「それだよ。次回作はそれでいく」


と決まった。


「千と千尋」は、そもそもキャバクラのおネエちゃんの成長物語が基本になっているのだ。



ここで宮崎駿の言葉を思い出してもらいたい。


「映画で何かのメッセージを伝えようとしたことはない」


宮崎駿は、伝えたいメッセージを考えた後に映画を作るのではない。

その顕著な例が、「千と千尋」である。


そして、できあがった映画に意味を作っているのがプロデューサーの鈴木敏夫の仕事なのである。