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ヒマがあればワリと書く。ヒマワリのごとくあかるい方向に顔を向けて生きていきたいです(`_´)ゞ

『ルサンチマン』・・・鬱屈、恨み、憎悪


久しぶりに更新。


社会人生活一週間が経ち、なにからどんな情報を得ればいいのか、

どうやったら体を働くモードにできるのか、どういう目標スタンスで会社に通えばよいのか。


・・そんな社会人生活への適応や情報の詰め込みにグルグルと忙しく、もうしばらく文字をうつことなんてないだろうなと思ってた。けれど、気分が変わった。変えられた。

NHK「地球特派員 2006 」。

さっきそのテレビ番組を見て、僕のこころは揺さぶられたのだった。なにかを書きたいと思って、ついつい久しぶりにブログなんぞ。。


番組の内容は、フランスが今抱える社会問題を若者という切り口から表したものだった。ひとつは移民系の若者の問題。もうひとつは雇用促進としての若者を自由に解雇できる法律の問題。


その二つの問題が、現在フランス各地で起きているデモ行動にまとまっているというのが番組の表したい趣旨だった。そのことをひとりの学者が、フランス各地に出向きいろいろな人物に話を聞くことによって現状のフランス社会問題を見つめようとしていた。





もう一ヶ月近くも前になるが、僕は生まれてはじめてフランスへ行った。といっても、トルコ旅行の帰りに航空機を乗り継ぐタイミングを少しずらし(俗に言うストップオーバー)、パリ市内を四日間うろついただけなのだが。それでも、今日のこのテレビ番組を見て、フンフンフンと心を動かされる。そのくらいの体験はしてきた。


それは貴重なことだったのだと思う。



そこでは華やかで歴史的な建造物に圧倒され、感動した一方、、

たくさんの社会問題があることを感じた。それもとてもタチの悪い感じで、腹立たしいものだった。(たった一時期そこにいただけで不満を言うのは間違ってるのはわかる。「通り過ぎた」だけの僕ですら感じたものがあるということが問題なのではないか。)



簡単にまとめてしまうと、フランス国の国是である『自由・平等・博愛』なんてどこにも感じられなかった。あるのはそれの裏返しの部分だけだった。それはなによりも汚く、ずるいものに感じられた。



自由がない。平等がない。

一部の人たちを除いて(その一部が大部分だったとしても)、公正均等なチャンスがないのがすぐにわかる。


皮膚の色で、職種が分かれている。白人は金持ちそうなカッコでいいレストランに入り飯を食べる。移民系の有色人種は朝早く、ブランド屋の窓掃除をする。基本的に移民系は低所得・低学歴。そして大きなマンションに大量に住まわされる。彼らは雇用の機会が与えられないので、日々同じマンションに住む仲間と群れ、簡単に酔えるものに手を出しゲットー化していく。出歩くときはフードをかぶり目をぎらつかせ、壁に落書きを書く。観光地以外のどこへ行ってもちょっとしたスペースには落書きだらけ。それは、郊外の鬱憤を象徴している。



博愛がない。

そんな差別を平気で行う。それが支配系フランス人の性格だ。自分たちの文化に誇りを持つのは結構なのだが、行き過ぎは他文化への無理解につながる。僕が聞き見して感じたのは、外国人から見れば行き過ぎている。彼らの冷たい視線の中でサンドイッチひとつ買うのにも緊張したし、細い小銭で支払いを出そうとしたら拒否されたし、買ったクレープは作り置きで温めなおしてくれなかった。いったいなぜなのだろう?

たしかにそれは楽な道ではある。他者を受けつけず自分達に都合のいいように過ごしていく。支配し、屈服させたものを自分達の思い通りに扱うことを美徳とし、それしか知らない西洋の文化が根付いているのだろう。和を大事にすることを教わった日本人の自分から見てそう感じた。



はっきり言って僕から見れば根底に、「一見きれいに見えて、でも本当はドロドロ汚いもの」がうずまいていた。それは「一見してもきれいに見えないし、もちろん本当に汚いもの」よりも圧倒的に気持ちが悪く、耐え難い。自分の安全を揺るがしてでも変えてやりたい。フランス各地でデモを行なう(一部は暴徒と化している)若者のうち、全員が純粋にとは言わないけれどそういう志をもっているはずだ。実際パリで若者が行うデモに出くわしたとき、そう思った。よくもわるくも暴力はひとつの答だとも思った。




、、、と、単なるパリへのグチを書きたかったのではなくて。

フランスから差別的な仕組みをなくすのはどうすればいいのか?

これについて少し考えてみた。


差別や偏見を生むのはなにか?

その一要素として、『ビジュアル』は外せないと思う。

正直に言えば、僕は黒人とふっと会うとき嫌悪感を感じてしまうときがある。電車の中で後ろから押されるのが黒人だと、そのひとがひどく乱暴に思えてしまうことすらある。こう思うのは自分だけだろうか?人間的な、本能的なところで『肌の色と感情』という心理的部分は必ずあると思う。大きな社会問題になることを恐れずにそのタブーを受け止め打開策を考えるべきではないか。世界は白人のためにある!その歴史をひっくり返すだけの鬱屈はとっくに整ってるはずだ。



また、知識の差も差別と偏見をうむ。

知識量は考え方を変える。大方のことに真実はないが、知識量で所得の差と立場の差は生まれる。どんな社会でも立場の差は確実にうまれる。問題は知識を手に入れる手段が均等にあって、誰でも頑張れば(考えが立場への執着と合致すれば)自己実現ができることである。誰しも自分から望めば知識を得られる環境をつくることが、平等な社会だろう。そのために図書館をつくったり、学ぶ機会を与えることが必要。でもパリの場合、見た感じ、そういう勉強とか図書館とかには向いてなさそうな目つきの悪い人たちをいっぱい見かけた。そういうひとたちが壁を感じないように、図書館の中に落書きさせるスペースを作ったりしてもいいと思う。落書きならきっとみんな大好きなのだし。


また、学ぶことを発表する場があることも平等感を感じてやる気を出す上で大切なことだと思う。そういうときに近頃流行の「ブログ」や「SNS」が活かされる。インターネットの世界はその概念論や可能性を語るひとがまだ目立てていないせいか、あまり社会全体としての動きは見えないけれど、社会問題に解決を促す方法はものすごくあると思う。


例えばサイバーエージェントがフランスの広告代理店と組んで、amebloのトラックバック機能をからめた問題の解決場所の提供&提案みたいなものをやればとても盛り上がるだろう。そういうことに手を出すのが企業自体のCSRになるのかどうかは経営者の判断如何だろうけれど。自分ならそうする。言葉の壁を乗り越えたくてウズウズするのがこんなときだ。




ともあれ、入社と同時に揺らぎ始めた志がまた固まった。

あらゆるルサンチマン=鬱屈、不満、うっぷん、不平等を晴らすために新しいネットの力を使って環境を作っていきたい。かつ、できればボランティアじゃなくプロデューサーとして・・。

「五年後同じ事を言ってなかったらおまえは偽者だ」

この言葉を刻みつつ、社会人初の週末を終える。。


昨日、大学の卒業式だった。


武道館で大学全体の卒業式をして、

水道橋の校舎で学部の卒業式をした。

学校でいろんなひとと写真をとったりビールを飲んだりし、

そのあと夕方から上野で仲間内で飲んだ。

学校行って一番くらい、とても楽しい一日だった。

達成感があって、懐かしさがあって、もったいなさがあった。


大学生という身分になってから僕はもう四年間も過ごしたことになる。

振り返ればこの四年間で自分は変わってきたと思う。


大学生活をひとなみに楽しめたのかと問われればノーと言うだろう。

付属高校を卒業し、そのまま大学に入学した者にはよくある理由で、だ。

よく考えないまま大学に入ってしまえることで目標を見失いやすい。

そのかわり大学に入ってからものすごく悩んでしまった。


それでも後悔はしていない。

悩まなければ得られなかったであろう考え方が身についた。

好奇心多く、常に自分の体をとどめることなく動かし続けてたら

たいがいのことは自分なりの答をもつことができるようになった。

哲学的な自信のようなものをもつと、

生活の中に楽しみを発見することがうまくなってゆくものだと思う。

そういう自信が「後悔」という感情を永久に消してくれるはずだ。


ひとなみを嫌い、ただ群れていることを嫌っていたことから、

他人には「おまえには行動力がある」と言われるようになった。

「・・ただし、協調性は少ない」とも言われるようになった。。

そのころの自分にくらべれば今はだいぶ成長したように思う。

もちろんそのまま一匹狼の道をいっててもそれはそれでおもしろかったのだろうが。



さまざまな分岐点を思い出し、懐かしがり、うなずいて、ときに後悔する。

そうしてときおり後ろを振り返ることで、現在の自分に気づき先が見える。

この先、3年後5年後10年後と、、これからも度々繰り返すだろうその行為のたびに、自分はなにを思うのだろうか。



いまの気分としては、なにかを始めたいな、と。

ひとつのことに集中してみたいから。

体もそこそこ疲れて、なにか素朴に表現できるようなもので。

土日でも朝から起きれるようにするためにも。



今日からまたこっち。

こっちで文章を書くことにする。


いちどブログを書くのをやめてから月日はだいたい四ヶ月進み、

会社の研修時に心からフレッシュかつオープンな気分になって、

mixiにちょこちょこアップしてみたりしたけれど・・・

やはりちょっと発酵させた感じのほうが好きかな、と。

そっちのが何かを書くやる気があがるのだからしょうがない。


あっちこっちとフラフラしてばかりだけれど、たぶんこっちにする。

右に左に目をキョロキョロさせ、速度を緩めず真ん中を歩くために。



会社でアルバイトという研修期間を三ヶ月過ごした僕は、

新しいことを学ぶ興奮と、退屈だと思っていた時間の貴重さを覚えた。


「大学生は時間があっていいよな~」なんて大卒のひとに言われる度に

「そんなこっちが答えようのないどうしようもなく甘えたことを平気で言ってくるあんたでさえ働いてお金儲けられてるんだからサラリーマン身分の方がよっぽどうらやましいよ」

・・・なんて思っていたりも実はしていたりもしたが、、

今ではなんとなくその発言の気持ちはわかる。


会社でのアルバイトは楽しくて途中で切り上げ辛くてしょうがなかったが

やっぱり時間を有効活用させたくて、途中でやめた。

そして時間を使い海外旅行に行くことにした。

迷っていたメキシコ、キューバ、トルコの選択肢の中からトルコを選んだ。

トルコに対しては簡単なイメージがあっただけだった。


2週間前くらいにギリギリにチケット手配をして、

エールフランス航空の少し高めの航空券を使い出かけていった。

往復飛行機と初日の行動だけ一緒というお互い独立志向?の友と共に。



トルコでは

イスタンブール→アンカラ→カッパドキア→トラブゾン→イスタンブール

という5都市を14日かけて動いた。



トルコの印象は・・・


「中東イスラム文化とヨーロッパ文化の融合点」

ヨーロッパのどこにも行ったことなかったからわからなかった。

けれど宿で同じになった多くのひとからトルコは他の中東国に比べれば

『圧倒的にヨーロッパ』なんだとか。



「料理が旨い。」

なに食べてもおいしいし、量も満足。

それに食事料金も物価水準と比べてお手軽。

素朴なものから手の混んだものまでメニューも豊富で

ゴハン時が楽しみだってことはこんなにも幸せなのかって思う。

肉からパンから野菜まで、ひとりでも本当に楽しい食事だった。



「ひとが優しい」

とにかくひとが優しくて、挨拶と笑顔が多かった。

控えめながらも旅人を助けたいがための行動力がある。

きっと優しいのは日本人に限らないとは思う。というのも、

ためしにトルコで人気が高いと本で読んだ先代の将軍、

トーゴーやノギの名を出してみても知ってる人には会えなかったから。

でも、外交の舞台では昔からトルコと日本はがっちり仲良しだった。

そのへんはなんかの本を参照されたし。。


子供は相当愉快だった。

どの子も好奇心にあふれた目をしており、笑顔に屈託がない。

笑顔がとても素敵だった。あまり泣かないし。

僕はトルコの子って世界で一番かわいいんじゃないかと思った。

親子の仲もとてもよさげだった。抱き合ったり頬をさわったり。

もし僕が学者なら、親子スキンシップについてはトルコで考えるだろう。



「宗教的」

イスラム教のモスクの建築設計の美しさはもちろん、

98%がイスラム教徒と言われるトルコでは、

ひとびとの心の根本的なところにイスラムの教えを感じることができた。

困った旅行者がいれば誰かが助けてくれる。

言葉が通じなくてもどうにかしてくれようとする。


一度モスクへ見学に行ったとき、イスラム教に勧誘された。

森羅万象の様々な不思議を、すべてアッラーのおかげだとする考え方。

人間主体で考えるのがどうも好きじゃない自分には受け入れがたかった

だけど、コーランを読んでみるという約束だけは果たそうと思う。

そのひとはコーランにすべてが書いてあると言った。



・・・なんとなくどこかでだれかが切り取った切り口のようだけど、

やっぱりこれが誰かに伝えるにはわかりやすいかもとは思う。

そんな解説的な言葉では伝えられることに限界がある。

しかしながら僕が味わったひとつひとつの出会いや出来事は、

こういうトルコのイメージを最終的には構成していった。



トルコの帰りは乗り継ぎ地のパリで4日過ごした。

パリの建造物にはただただ圧巻された。

主要な観光名所を歩いて回っては何度もため息をもらした。


どーんとでっかいものに、想像を絶する細かな装飾があって、

それもその装飾が一個一個みつめて価値がある作品なのだった。

そのどーんとしたものにどーんと包まれ、ぶるぶるした感覚が走る。


おどろいた。まさに芸術。

そんな体験したことなかった。

ここで感じたものに対しては言葉で表すの、失礼な感じする。

遠巻きに触れとくべきなんだと思う。そういうものに対しては。。



パリの建造物と街並みはきれいだけれど、ひとは冷たかった。

パリには観光客だらけなので観光客ずれしているんだろう。

助けることってめんどくさいってわかられている。。

領土へ攻め入って征服して統治する。

そんな西洋史の歴史が影響しているんだろうか。

そんなわけで、パリ人の視線が僕の自意識を過剰に攻撃し、

よく聞く話ではあるけれど、やっぱり自分も一度もレストランに入ることができなかった。



そんなこんなでトルコ&パリの20日間旅行は終わった。



いつかまた旅にでたい。いろんなもの見たい。

アジアへ中東へアフリカへ南米へヨーロッパへ。

でもそんときはフラフラするのじゃなく、なにかを抱えて行きたい。

抱えるものが重すぎることなく、軽すぎることなく。


ディスカウントショップで髪につけるワックスを買った。

いつも行くその店は大きくて、いろんなものを安く売っている。

週末ともなれば多くのひとが買い物に来る。

フラフラと歩きながらキョロキョロとしているジイさんがいた。


そのジイさんはワックスを見ている僕の隣で、

そこに一緒に並んでいる、シェービングローションとか

安い香水だかジェルだかムースの缶を興味深そうに見つめた後

つまらなそうに独り言をいった。


「こんなに男性用化粧品があるのかぁ・・。らしくねぇなあ。

 異人じゃねぇか、これじゃ。まったく。。」



(「西洋文化に啓蒙する消費社会。

  男たるもの化粧品など使わずに男らしさで勝負せい。」

  ・・と、そのジイさんは言いたかったんだろう。)



僕はその一言を聞いてそういう考え方もあるなと感心し、

また、堂々と(たとえ独り言でも)売り場でそのことを口に出す

そのジイさんの生き様にかっこよさも覚えた。

けどその一方で、高齢化社会の課題を考えさせられた。



歳をとると、新しいことへの好奇心みたいなものが薄れ、

自分の経験の中で出来上がった価値観のなかで生きてく。

つまり、新しいことはそこそこに、自分の範囲内のもので

生活を満足させようとする。・・らしい。


前にPCソフトのマーケティングに近いバイトをしたときに、

話をしたおじいさんからそんな話を聞いたことがある。

そのひとは、なぜPCに興味がわかないのかという僕の質問に

「歳を取ると、新しいものに対する挑戦心がうすれてしまうのだ」

というようなことを言ってた。


沢木耕太郎の『深夜特急』の中にも(DVDの中だけかもだけど)

「老いてきた私は、若い頃に読んだ本だけを読み、

 新しいことを求めなくなった。そしてそれだけでとても満足するのだ」

というシーンがあったことからも。

(ギリシャかどこかの遺跡での老人が沢木に話しかけるシーン)



こういう現象は人体の構造の中にあるのだと思う。

慣れぬことへの挑戦をして予測不能なことに遭うことは、

危険につながり、弱った体を危険に晒してしまうことにもなるから。

だから仕方ない。ジイさんばかりで日向ぼっこさせておけばいい。

「らしくねぇな」と新しいものを否定させとけばいい。



・・・というわけにはいかないのだ。

それは楽しくないだろうから。

それは経済を停滞させるから。


実は脳学者にいわせれば人間の脳はいつまでも衰えないとも言う。

使われ続ける脳は、死ぬまでずっと衰えないという。

日常を平凡化しないで、ほどよく刺激的な状態にすることは

脳にとてもいいらしいのだ。


都会の高級老人ホームに住んでるお年寄りより、

田舎の方で農家をやったり漁師をやったりお弁当を作ったりしてる

お年寄りのほうが幸せそうに感じるのは僕だけだろうか?

退屈そうなひとばかりが目に付くのかもしれないけれど。



老人に刺激を。

ほどよく、生活や築いた財産を揺るがさない程度の。

これからの僕らの課題のひとつでもある。



ここ4日間ほど風邪を引き、体調が悪い。

タマビ文化祭であったスチャダラパーのライブを観に行って、

汗かいた体に寒い夜風がたたったのだ。


会社で働いてたからたくさん寝ることもできなくて、

いつものごとく薬飲んで、スパッと治すことができなかった。

そんなわけで今日は一日ボーッとダラっと過ごしていた。


昼のTVで「10万円のステーキを同僚に奢らせた男が逮捕」

というニュースを見た。

奢らされた男は普段からイジメられていたのだという。

そんなどこにでもありそうなニュースを、何度も流していた。


個人的に10万円のステーキの存在を不思議だとは思わないが、

このニュースを流す基準って、いったいどこにあったのだろうか

と、そっちのことが気になってしまった。


ゴシップのネタになりそうなニュースだったから選ばれたのか。

世間のひとの親近感をわかせるニュースだったから選ばれたのか。

牛肉ブームを宣伝したくて選ばれたのか。

世間で評価の高い、「霜降り」を作るために家畜の牛が課せられている

アブノーマルな日課メニューまで問題を掘り下げて動物愛護観を問いたかったのか。それとも奢らされた被害者がTV局のひとと知り合いだったのか。

・・・などなど、いろんなことが考えられるけれど。


いずれにしろ、ステーキを奢らせたいじめっ子男にしても

自分の行為が世間をそんなに騒がせるとは思っていなかっただろう。

いまや田舎の片隅で働いてたいじめっ子が、

TVを見た大勢の人間の倫理観をつきつけられている。

(またひとりTVニュースの犠牲者がうまれた。)

イジメはよくないけど、歪んだ力で解消されるイジメもよくない。

よくないというより、モヤモヤとする。



みのもんたが昼の番組で、

「10万円のステーキなんてメニューを作るからこういう事件がおきる。

 飛びぬけて高い価格設定に僕は腹が立つんだっ。」

的なことを言っていたのを見た。

利権に浸かっているのを隠し、一市民の代表ヅラしている。

あいかわらず気にくわないヤツだった。



高いものの価格設定やそれでもそれを買う人に対して異論を叫ぶのは

ストレス解消でしかないし、甘えでしかない。

甘えたいためにTVを見て、そこから影響を受け操られ

搾取されてくのは寂しいことだと思う。



・・と、テレビっ子になって好き勝手言ってばかりいないで

しっかり風邪を治します。

2日前からちゃんとパジャマを着て寝ることにした。

小学生のときに着てたものなのでピチピチなのだけれど

熱で出た汗をちゃんと吸い取るから、気持ちいい。


風邪の日にスウェットで寝るのはよくない。

健康はパジャマからなのかもしれない。



今日から会社で内定者アルバイトを始めた。

昨日まででお世話になったkinko'sを辞めて。

これから春が来るまでしばらくの期間、新宿のビルで働く。

働く習慣に慣れてみたいことと、今までの生活に辟易したのとで

ちょっと早い時期だけど働かせてもらうことにした。



刺激のない生活は心によくなかった。

夜遅くにねむり、毎朝遅くまで寝ていて昼前に起きて

12時から何気なく「笑っていいとも」なんて見ていると、

心にカビが生えるのがわかる。

僕は昼に放送されるTV番組すべてが嫌いだ。

くだらないけれど、なんとなく見てしまうそれらの影響力に

何も変わらない1日が始まってしまうような気にさせられるからだ。

、、とりあえず、今はそう思う。



そして今日から朝型人間に。

肌寒い朝の湿気を味わいながら黒い鞄を手に、通勤する。

そんなに気分はよくないけれど、カラダが前を向いてるだけましだと思う。

重い抜け殻を取り払うように、前に進まなければ。



朝の電車に久しぶりに乗る。

世間知らずの私立小学校生のガキが電車で騒ぐのを見る。

こっそり(周りに気づかれないように)驚かしてやりたくなる。

スーツを着てはいるものの、中身は高校生のときとは変わっちゃいない。


高校生のときはスーツ着た人全員つまらなそうだななんて思っていた。

けれどいまや自分がスーツを着て働きに出てる。

そんなふくざつな心情を抱えつつ、

小さな緊張から、締めたネクタイが何度も気になった。



仕事はいろいろ教えてくれて、とても勉強になった。

いい雰囲気で親切に教えてくれて、この会社でよかったなって思った。

とてもいい人材があつまっている会社なんだなぁとも感じた。

みんな、頭がシャープで爽やか。うらやましく思う。


早速、集中力が長く続かないという自分の弱点から

遅れをとってしまった感があった。。

理解力の乏しさを復習でおぎなう精神で、

そのマイペースさのマイナス面から改善していきたいって思った。


知識と情報と計算と分析とコミュニケーション。

普遍性も答えもないことに対する技術の一部のみでも教えてもらうと、

社会はこうやって回ってたんだなぁって思う。

時計と一緒で裏側はいつも複雑なんだろう。



完成されたものだけを見続けて退屈がっていないで、

その裏にあるものの技術の奥深さに好奇心を抱くこと。

学校でもっとそういうことを教えてくれればいいのにって思った。




ガツガツはしたくないけれど、

成長を目指して前に進んでいくのって楽しいと思う。

退屈さと戦い、妄想ばかりを働かせてるよりも。今のところ。



『Happy Tree Friends』というアニメを今日知った。

インターネットで公開 されているのだが、最初の1話だけ見て

すぐに気に入ってしまった。

(この映像を見て笑えたら、楽しめるはず→サンプル

 個人的には「Eyes Cold Lemonade」という作品に衝撃を受けた。)


そのアニメのなかにはカワイイ動物達が出てくるのだが、

彼らは必ずなにかに失敗し、

カラダを傷つけて倒れていく。


キャラクター達が血まみれになるそのオチは凄惨といえる。

紹介HPにはグロいので注意!とさえ書かれている。


でも僕にとって一気にダークになる展開と、

キャラクターにちっとも悪気がないことのギャップが面白い。



サウスパークとかビーバス&バットヘッドとか、シンプソンズとか・・

一部のアメリカアニメのセンスのよさってなんなのだろう。

マーベル系のアニメのつまらなさとのギャップもまた疑問に感じる。

(オープニングの音楽、エンドロールの音楽もまた、軽快でいい。)


アニメの血でも見てると精神的に辛くなって

見ていられない人もいるだろう。

でも、そうじゃないひとは楽しめる。

別にマネしたいとかじゃなくて、血が好きだとかじゃなくて。



想像力が「痛い」を通り越したとき、初めてコメディと感じられる。

アニメをみて自分が「痛い」という想像力の欠如は、

何かの問題を生むだろうか?


さすがに精神的に未熟な子供には見せてはいけないと思う。

禁じられている理由はなんとなくわかる。

端的に言えば脳内がおかしくなるはずだからだ。

そういうことが起こす問題って、きっとある。



でもHappy Tree Friends には、暗に教えられることもあると思う。

肉体の中身を、それを破壊する力とから守るには

祈りや願いによって守られるものなんてない。

力の前には必然性しかなくて神秘性なんてない。


隠喩的な意味を汲み取れるかどうかが問題ではあるが。





WBのロードランナーとか、ピンクパンサーとか、、

ボロボロに傷ついては何事もなかったかのように

何度も再生する元気なキャラクターに憧れることって、多々ある。


それは彼らが、とことん前向きだからだろう。



インドで同時爆発テロが起こったそうだ。

そのニュースを見て、今、心がザワザワしている。

三件の爆発があったそうだけど、

そのうちの一件がニューデリーの駅前の商店街で起きた。


去年の春休みのことだけど、

インド滞在も帰り行程にさしかかった日、

僕はそこの商店街の中の安宿に二泊した。

ちょうどよい(高すぎず、ちょうどいい空虚感のある)宿を探して

商店街をフラフラ歩き回ったことを覚えている。

表通りへ裏道へ。しつこい客引きにくっついてこられながら、

いろんな光景を見て歩いた。

駅前の商店街という土地柄、

そこはホテルや飲食店やおみやげ屋などの観光業が多い街だった。



ニューデリーの駅前ほど、混沌としたところはなかったように思う。

車は頻繁に行きかい、人もリキシャーもクロスしながら流れる。

ほこりっぽいような空気と暑さ。

日陰に横たわるひとからは匂いが漂う。

クラクションを鳴らし、クラッチを激しくつないで進むボロ車。

それとは対照的な金持ちそうな男が静かに迎えを待つ姿。


うまくいえないけれど、そこには本当にいろんなひとがいて、

けれど決して落ち着くことなくとどまることなく時間が流れていた。

人の流れをつくる交通機関のもつ力を知ることができた。

電車の影響力。。駅の前には混沌とした力がうずまいていた。

とにかく落ち着かなかったし、疲弊したことを僕は覚えている。



そしてそのニューデリー駅前にあった力を思い出して、

今日起きたという爆破テロを想像してみる。

そうすると、混乱する自分が容易に想像つく。

もし巻き込まれなくともその近くにいたら落ち着かないだろうし、

それに自分の無力感をとことん味わうことになるはずだ。



テロは、決して始めてはならないものなはずだ。

圧倒的に弱い立場の、少数の戦いたい者にとって、

その敵に最大に影響力を発揮する攻撃がテロだ。

費用もかからない。


だけど、それは相手にとっても同じことが言える。

テロ攻撃に対し、テロでの復讐をもってすれば、

ひどい社会になることは明らかだ。

だからこそ宣戦布告をして、

限られた空間で戦うことが戦いのルールとなる。


たとえ殺し合いにせよ合理的なルールを守らないと、

どっちにとっても得がないことは、

長い歴史の中で学ばれてきたはずだ。

あとのことを考えられない、そんな人間がつっ走る。

宗教の力を借りて。個人的な恨みをぶつけて。

やるならよそでやれって、みんな思う。

最後のスイッチは、いかにして入るのだろうか?


いずれにせよ、テロリストは自分の押すそのスイッチが

一方向のものでないことを知らなければならない。

お互いがお互いの額に拳銃をつきつけて対峙しているときのような、

「敵に向けて撃てば、その自動的反撃により自分も確実に死ぬ。」

という相互確証破壊的な世界がくるまで、テロは止まらないのだろう。


そうやってせっかく築いた文化や文明を壊してしまうのだろうか。

現代版の「博士の異常な愛情(映画)」を描き、

テロの連鎖が生む世界をたくさんのひとに見せつけるべきだ。



でもそういうのは死ぬことで報われるという世界観をもった人間には

きかない理屈なんだろう。

僕は宗教の存在が悲しいことだとは思わないけれど、

宗教のせいで先入観が捨てられず、

思考を放棄することがたくさんあるという現実は悲しいと思う。




「問題はひとつ、コミュニケーションが足らない。」

好きな言葉だ。

簡単にすませているけど、捉えている。



今月の半ばだったか長雨が続いたおかげで、

僕はここ数日前まで、やる気がちょっとうせていた。

「ちょっと」というのが問題なのである。

生活すること自体へのやる気はうせなくて、

笑うこともある、楽しいこともある。

でも、生活に密度が「ちょっと」足らない。


文章を書くとかモノゴトを考えるとか、

そういうちょっとのやる気って一度うせると

なかなか回復しないものだ。

そんなものなくても困らないから。


それでもそんなちょっとのやる気が失われてくと、

毎日があまり楽しくない。のっぺりとしてくる。

毎日を楽しく生きるには、

ひとり荒野の先を見つめるようなひっそりとした情熱と、

ちょっとの不便さやもどかしさに対する姿勢とを、

持って生きていかねばならないのだ。

(それを取り戻したいが為に、今ちょっと力んでいる。)



雨が降ると、自殺者が増えるという。

そんな気持ちもなんとなくわかる。

雨は思考回路や感情をある一定のところでとどめさせるような、

先に進めずUターンさせていくような感覚の日にすることがある。


雨の湿気で頭の中でキノコが育って

それに大事な養分を取られていくような感覚。

そのキノコは晴れの日に笑うたびに少しずつ溶けていく。

きっとこれから先も何度も生えてきては溶けていく。

、、とか暗い気分でものごとを詩的にとらえているわけにはいかない。

「現実と戦え!」、、という自己啓発。




オオサンショウウオが川崎市の路上にいた、というニュース があった。

そのニュースに、僕はハッとしてしまった。



ちょっと前、「情熱大陸」を見てその姿に感動したオオサンショウウオ。

それが、川崎の路上にいたという。

それも住宅街の路上だということで、

発見した者はさぞかし変に思っただろう。

散歩させてるだけかと思って、素通りしたひともいるはずだ。


自分だったら、通報はしないのにと思った。

警察に通報しても面白い展開なんて期待できない。

キレイな川を探して川に帰しに行く冒険なんて考えただけで楽しい。

通報したひとはめったに出来ない経験の、

その機会を失ったことを後悔しているだろうか。




どんな理由で捨てられたのだろうか?なぜ路上に?

だれかが捕まえて持って帰ったのか?あれは家で飼えるのか?

家で飼ってたのが逃げだしたのだろうか?

だとして逃げることができる動物が国の天然記念物になるだろうか?

おとなしいから、数が減っていくのではないのだろうか?

・・・などなど、いろいろ考えてしまい不思議な気持ちにさせられる。



ともかく「情熱大陸」で特集した内田りゅうさんの影響で、

だれかの何かがどうにか動いたのではないか。

・・と、僕は勝手に思っている。



TVの影響力でなければ、単なる偶然か。

それにしろ、このニュースを見てハッとしたひとは多いと思う。

この1匹の両生類の放置が誰かのイタズラであれば、

僕らのこころはがっちり捕らえられたことになる。



ますますオオサンショウウオをいつか見てみたくなった。