(『ルサンチマン』・・・鬱屈、恨み、憎悪)
久しぶりに更新。
社会人生活一週間が経ち、なにからどんな情報を得ればいいのか、
どうやったら体を働くモードにできるのか、どういう目標スタンスで会社に通えばよいのか。
・・そんな社会人生活への適応や情報の詰め込みにグルグルと忙しく、もうしばらく文字をうつことなんてないだろうなと思ってた。けれど、気分が変わった。変えられた。
さっきそのテレビ番組を見て、僕のこころは揺さぶられたのだった。なにかを書きたいと思って、ついつい久しぶりにブログなんぞ。。
番組の内容は、フランスが今抱える社会問題を若者という切り口から表したものだった。ひとつは移民系の若者の問題。もうひとつは雇用促進としての若者を自由に解雇できる法律の問題。
その二つの問題が、現在フランス各地で起きているデモ行動にまとまっているというのが番組の表したい趣旨だった。そのことをひとりの学者が、フランス各地に出向きいろいろな人物に話を聞くことによって現状のフランス社会問題を見つめようとしていた。
もう一ヶ月近くも前になるが、僕は生まれてはじめてフランスへ行った。といっても、トルコ旅行の帰りに航空機を乗り継ぐタイミングを少しずらし(俗に言うストップオーバー)、パリ市内を四日間うろついただけなのだが。それでも、今日のこのテレビ番組を見て、フンフンフンと心を動かされる。そのくらいの体験はしてきた。
それは貴重なことだったのだと思う。
そこでは華やかで歴史的な建造物に圧倒され、感動した一方、、
たくさんの社会問題があることを感じた。それもとてもタチの悪い感じで、腹立たしいものだった。(たった一時期そこにいただけで不満を言うのは間違ってるのはわかる。「通り過ぎた」だけの僕ですら感じたものがあるということが問題なのではないか。)
簡単にまとめてしまうと、フランス国の国是である『自由・平等・博愛』なんてどこにも感じられなかった。あるのはそれの裏返しの部分だけだった。それはなによりも汚く、ずるいものに感じられた。
自由がない。平等がない。
一部の人たちを除いて(その一部が大部分だったとしても)、公正均等なチャンスがないのがすぐにわかる。
皮膚の色で、職種が分かれている。白人は金持ちそうなカッコでいいレストランに入り飯を食べる。移民系の有色人種は朝早く、ブランド屋の窓掃除をする。基本的に移民系は低所得・低学歴。そして大きなマンションに大量に住まわされる。彼らは雇用の機会が与えられないので、日々同じマンションに住む仲間と群れ、簡単に酔えるものに手を出しゲットー化していく。出歩くときはフードをかぶり目をぎらつかせ、壁に落書きを書く。観光地以外のどこへ行ってもちょっとしたスペースには落書きだらけ。それは、郊外の鬱憤を象徴している。
博愛がない。
そんな差別を平気で行う。それが支配系フランス人の性格だ。自分たちの文化に誇りを持つのは結構なのだが、行き過ぎは他文化への無理解につながる。僕が聞き見して感じたのは、外国人から見れば行き過ぎている。彼らの冷たい視線の中でサンドイッチひとつ買うのにも緊張したし、細い小銭で支払いを出そうとしたら拒否されたし、買ったクレープは作り置きで温めなおしてくれなかった。いったいなぜなのだろう?
たしかにそれは楽な道ではある。他者を受けつけず自分達に都合のいいように過ごしていく。支配し、屈服させたものを自分達の思い通りに扱うことを美徳とし、それしか知らない西洋の文化が根付いているのだろう。和を大事にすることを教わった日本人の自分から見てそう感じた。
はっきり言って僕から見れば根底に、「一見きれいに見えて、でも本当はドロドロ汚いもの」がうずまいていた。それは「一見してもきれいに見えないし、もちろん本当に汚いもの」よりも圧倒的に気持ちが悪く、耐え難い。自分の安全を揺るがしてでも変えてやりたい。フランス各地でデモを行なう(一部は暴徒と化している)若者のうち、全員が純粋にとは言わないけれどそういう志をもっているはずだ。実際パリで若者が行うデモに出くわしたとき、そう思った。よくもわるくも暴力はひとつの答だとも思った。
、、、と、単なるパリへのグチを書きたかったのではなくて。
フランスから差別的な仕組みをなくすのはどうすればいいのか?
これについて少し考えてみた。
差別や偏見を生むのはなにか?
その一要素として、『ビジュアル』は外せないと思う。
正直に言えば、僕は黒人とふっと会うとき嫌悪感を感じてしまうときがある。電車の中で後ろから押されるのが黒人だと、そのひとがひどく乱暴に思えてしまうことすらある。こう思うのは自分だけだろうか?人間的な、本能的なところで『肌の色と感情』という心理的部分は必ずあると思う。大きな社会問題になることを恐れずにそのタブーを受け止め打開策を考えるべきではないか。世界は白人のためにある!その歴史をひっくり返すだけの鬱屈はとっくに整ってるはずだ。
また、知識の差も差別と偏見をうむ。
知識量は考え方を変える。大方のことに真実はないが、知識量で所得の差と立場の差は生まれる。どんな社会でも立場の差は確実にうまれる。問題は知識を手に入れる手段が均等にあって、誰でも頑張れば(考えが立場への執着と合致すれば)自己実現ができることである。誰しも自分から望めば知識を得られる環境をつくることが、平等な社会だろう。そのために図書館をつくったり、学ぶ機会を与えることが必要。でもパリの場合、見た感じ、そういう勉強とか図書館とかには向いてなさそうな目つきの悪い人たちをいっぱい見かけた。そういうひとたちが壁を感じないように、図書館の中に落書きさせるスペースを作ったりしてもいいと思う。落書きならきっとみんな大好きなのだし。
また、学ぶことを発表する場があることも平等感を感じてやる気を出す上で大切なことだと思う。そういうときに近頃流行の「ブログ」や「SNS」が活かされる。インターネットの世界はその概念論や可能性を語るひとがまだ目立てていないせいか、あまり社会全体としての動きは見えないけれど、社会問題に解決を促す方法はものすごくあると思う。
例えばサイバーエージェントがフランスの広告代理店と組んで、amebloのトラックバック機能をからめた問題の解決場所の提供&提案みたいなものをやればとても盛り上がるだろう。そういうことに手を出すのが企業自体のCSRになるのかどうかは経営者の判断如何だろうけれど。自分ならそうする。言葉の壁を乗り越えたくてウズウズするのがこんなときだ。
ともあれ、入社と同時に揺らぎ始めた志がまた固まった。
あらゆるルサンチマン=鬱屈、不満、うっぷん、不平等を晴らすために新しいネットの力を使って環境を作っていきたい。かつ、できればボランティアじゃなくプロデューサーとして・・。
「五年後同じ事を言ってなかったらおまえは偽者だ」
この言葉を刻みつつ、社会人初の週末を終える。。