「教会を開拓したい。」
いつからかそう思うようになった。
これ、なぜなんだろうか?
きっと教会への希望と危機感との両面が関係している気がする。
ちょっと言葉にしてみたい。
ただ自分の思いや勢いや雰囲気ではなく、自分自身への召しとしてこのことを受け止めていくために。
「教会を開拓したい。」
いつからかそう思うようになった。
これ、なぜなんだろうか?
きっと教会への希望と危機感との両面が関係している気がする。
ちょっと言葉にしてみたい。
ただ自分の思いや勢いや雰囲気ではなく、自分自身への召しとしてこのことを受け止めていくために。
"クリスチャンとして生きるっていうのは、ただ単に日曜日に教会に行くことじゃない。"
そんなこと耳にタコができるほど聞いてきたし、それじゃダメだってことくらいわかっている。
でも、どれだけの人がそこから抜け出すことができているんだろうか?
こんなふうに思っている人はいないだろうか?
もしかしたら、その人はクリスチャンとして生きることを"to doリスト"に変換してしまっているのかもしれない。
福音への応答というものを、to doリストに変換することによって、本来の目的がなおざりになることがある。
奉仕をするというのが、ただ奉仕分担表を埋めることと同じ意味になってはいけないんだと思う。
奉仕分担表には献金の感謝の祈りは誰々、ワーシップチームのこの楽器は誰々と割り当てられる。
それは、奉仕を円滑に秩序正しくしっかりと準備をして行うために大事なことだ。
その上で、私たちの目的は奉仕の"当番"をやることではなく、福音への応答として神と人とに仕えることなのだということを忘れてはいけない。
当番だから奉仕をするのか?
奉仕をするためにその当番を引き受けたのか?
そもそもその奉仕は何のためにするものなのか?
今自分はこの奉仕は何のためにしているのか?
もう一度考えたい。
自分のするべきことに忠実になることにto doリストを作ることは悪いことではないけれども、to doリストを行うことが信仰生活を生きることだと勘違いはしないようにしたい。
詩篇81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。
あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
主は、私たちのことを導き、助け、救い出してくださっったお方。
もうすでに、私たちに対する約束を果たされている。
その主が、口をあけて期待せよと私たちに求めておられる。
小鳥が親鳥がら餌を必死に口をあけて求めるように、主に対して大きく口をあけて求めるのならば、主は応えてくださる。
主に期待する。
中途半端に、期待して応えられても応えられなくても構わないことだけを求めるのではなく、これが欲しいと大きく期待する。
・都営住宅に当選するように
・子育てや親子関係で世の人に喜ばれる仕事ができるように
・達成していくことが当然の歩みへと変わるように
・速読の仕事が増えるように(月3件)
・自分のつながりを通して、品川の教会に人が導かれるように
・家族が最高に幸せになるように(それぞれが自分を受け入れ、お互いに良い関係を築けるように)
・品川の教会での洗礼者が季節ごとに起こされるように
詩篇73:25 天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上ではあなたのほかに私はだれをも望みません。
天にある財産とは、主ご自身である。
主が私たちのすべてを満たし、私たちのすべてを喜ばせてくださる。
だからこそ、この地上においても、永遠に向かって、ただ主のみを希望とすると歌われた詩篇
主がすべてを満たしてくださる方。
そして主は良いお方。
そのことを信じて、歩んで行くときに、他のものは加えて全て与えられるというのが聖書の約束。
「あれもください。これもください。あなたも求めます。」
ではなく、
「あなたを求めます。あなたにすべてがあります。あなたの導きに従うときに、すべての必要が満たされることを信じます。」
と、祈って歩む。
私たちのすべてを満たしてくださる父なる神様。
あなたは私たちに良いものを与えてくださる方であることを信じます。
あなたが良いお方であるからです。
自分勝手に、また愚かにも自分の目の前に置いてあるものをただ追いかけることがありませんように。
あなたが与えてくださるものを求めるものとさせてください。
それは成し遂げたいなにかや、手に入れたいなにか以上に、あなたご自身であることを今告白します。
目先のものに惑わされて、あなたを忘れることがないようにこの者を助け、あわれんでください。
イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。
詩篇70:5 私は、悩む者、貧しい者です。神よ。私のところに急いでください。
あなたは私の助け、私を救う方。主よ。遅れないでください。
自分の悩み、貧しさといったものを自分では解決できないと諦め、神様のもとに助けを求めているものの詩篇。
「自分でできる、なんとかする、神様がいなくても。」
といった信仰を持っていないだろうか?
「自分ではできない、なんともならない、神様がいなければ」
と、自らを神様の前に不十分で罪ある者と認めつつ、その私たちを助けてくださる愛のお方に自らを委ねていきたい。
神様の前に自分の弱さや貧しさ、足りなさを隠す必要はない。
徹底的に自分は弱いということを知り、神様に叫びつつ、助けを祈る者でありたい。
神様はそんな私たちを助けてくださる方であり、そんな私たちを用いて、教会の宣教の働きを前進させてくださるお方。
感謝しつつ、「用いてください!」と祈り、歩んでいきたい。
神様。
弱く貧しい私が、イエス・キリストのゆえにあなたのみ前に今日も出ていくことができ、祈ることができる恵みを感謝します。
私にはどうにもできない、と嘆くことしかできないはずの者に、「私をどうにかしてください。助けてください!」との声を聞いてくださる方がいるという恵みはどれほどの大きさでしょうか。
私は罪人です。だからこそあなたが必要です。
今日も、私のことを助け、導き、貧しさをあなたの愛と豊かさで覆ってくださいますように。
イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。
詩篇58:1 力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。
2 いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。
力を持った者、その場所で権力のある者、声の大きいものが物事を動かしている。(現実は力のあるものが決定する。)
しかし、そのところには絶対的な正しさはない。
自分がその立場にある時もそう。
結局は、自己中心に物事を動かすことをしている。
仕事であれ、教会であれ、家庭であれ、夫婦であれ、自分が正しいと思ったとしても、権力で物事を動かしているのであれば、なにかはずれている。
何かを説明したり、質問したり、感じてもらうことによって進む自己評価は大切。
義なる神様。
あなただけです。正しく、私たちのことを真実を持って導いてくださる方はあなただけです。
部分的な正しさを、さも、当然のように掲げ、人をさばこうとするこの者を赦してください。
そして、あなたの正しさをいつも慕い求め、それを喜びながら歩む者とさせてください。
自分勝手な正しさで、人に強制をすることがありませんように。
人に任されたリーダーシップの使い方、秩序の保ち方を教えてください。
知恵と力、栄光はすべてあなたの者です。
あなたの前に、恵みを喜び生きるものとさせてください。
それは裁く者ではなく、建て上げる者であり、切り捨てる者ではなく、愛する者だということ。
イエス・キリストのように、私を作り変えてください。
主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
詩篇41:4 私は言った「主よ、あわれんでください。私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」
犯した数々の罪があるのにも関わらず、神様に対して、あわれんでください。いやしてください。としか言えないし、言ってしまうのが人間。
しかし、その祈りと叫びの声を聞いて、イエス・キリストによる癒しと救いと愛と導きを与えてくださるお方が主なる神様がおられる。
神様は私たちを本当に愛しておられる。
だからこそ、人となり血を流し犠牲を持って十字架による救いの道を備えてくださった。
神様に対して罪を犯した私が、
「神様にあわれんでください」
「いやしてください」
なんて言うことは、
「都合のいい態度だな。おとといきやがれ!」
って言われても仕方のないこと。
でも、恵み深い主なる神は、そんな私たちのことを受け入れてくださる。
だからこそ、この愛をはねつけたり、利用したりしててはいけない。
私たちを完全に愛してくださった神さまに、信頼して、その愛に応答したい。
その愛と一緒に生きる喜びをいつも大切にして歩んでいきたい。
愛する神様。
私をあわれんでください。
私をいやしてください。
あなたを傷つけたこの私が、このような祈りを捧げることはおこがましいとはわかっています。
しかし、そこにしか助けがないのです。
そこにしか、希望がないのです。
こんな愚かで、どうしようもない私を受け入れてくださり、大きな犠牲を持って救い出してくださったあなたに心から感謝します。
あなたとともに今日の一日を歩みます。
家族を祝福するものとなれますように。
あなたの愛によって、この地を祝福し、生きるものとなれますように。
イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!
詩篇23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
私たちは、何をどれだけ持っているか、何がどれだけできるかで満たされるのではない。
羊のように弱い存在であったとしても、ともにいる方が私たちを愛し、赦し、ともに歩み、喜んでくださる主であるのならば、乏しいことはない。
主から言われたことをどのようにするか?という命令の先っぽを考えるのではなく、主とともにいるというとを常に求め、その方を喜ぶ時に、満たしを知ることになる。
神様ご自身に飢え渇き、その方と歩むこと、その方の召しの中に生きることを大切にしたい。
なによりも、みことばとともに歩み、祈りの中にいることで、神様とともに生きる歩みが照らされていく。
みことばを開かなければ知ることはできないし、みことばを読むだけでもわからない。みことばの中にある主の語りかけに心を開き、常にその声に聞きながら歩んでいきたい。
私たちの満たし主である聖なる神様。
今日もあなたが私の神であり、私を導いてくださることを感謝します。
私は、自分一人で歩もうとする時に、すぐに襲われ、どこにいるかがわからなくなる者です。
私には、真実の道へと導いてくださるあなたが必要です。
みことばに聞き、感謝に溢れて歩むものとさせてください。
イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。
詩篇19:7 主のみ教えは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せは清くて、人の目を明るくする。
人には真実はわからない。
だからこそ、主から語られるみことばを必要とする。
主は愚かな私たちに向けて、みことばを与えてくださった。
このみことばに聞き、従い、歩むことによって、私たちは真実を知り、赦しを知り、喜びを知ることができる。
聖書を読み、自分に適用していくということ。
これがなければ、私たちは必ずズレる。
やり方として前に方法が見えたとしても、力が足りなかったり、実際にそこには進んでいけない。
なぜなら、聖霊なる神がみことばから語る言葉を聞かなければ、私たちには力がないから。
不真実で愚かな自分を知る
↓
みことばに聞く
↓
神の愛を知る
↓
悔い改める
↓
神の創造と、託された教会の使命を知る
↓
喜びと永遠の価値のある生き方へ進む
(↓)
不真実で愚かな自分を知る
みことばを読めば、私たちは成長して神を必要としなくなるわけでも、完全になれるわけでもない。
へりくだってみことばを受け取り続けるからこそ、神と喜びをもって今の自分の人生を生きていくことができる。
真実で私たちの力の源である神様。
あなたの御名を崇めます。
私はあなたがいなければ、愚かです。
正しいと思いながら、間違った歩みをし続ける惨めな状態です。
今日、みことばによって、それに気づかないほど、視野が狭く、自分のことばかりを考えていることを教えられました。
どうか、この私をみことばによって、正しく導いてください。
私にはあなたが必要です。
あなたが語りかけてくださる言葉がなければ、間違った方向に進んでしまうし、正しい方向が見えたように感じても、そこに進んでいくことはできません。
あなたのみことばに照らせた道を、純粋に求め、純粋に歩むものとさせてくださいますように。
イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。
詩篇8:3 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
4 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
主は、私たちのことを造られ、私たちを心に留めてくださっている。壮大な被造物を見る時に、人の小ささと神の偉大さに目が留まる。
山の頂上に登って素晴らしい景色を目にする時に、人は自分自身の大きさを知るより、自分自身の小ささを知る。
多くの場合、人は、自分の強さや能力や成し遂げた結果ばかりに目をとめるが、大きな世界の中での自分のできること、してきたこととはどれほどのものだろうか。
まず神の前に出て、自分の小ささを知り神の偉大さを知る必要がある。
空を見よう。森を見よう。神の造られた自然に目をとめよう。人の心が精巧に造られていることに注目しよう。
そして、そのすべてを治めておられる神を見上げよう。
そうする時に、私たちは自らが神に造られたものというアイデンティティを取り戻し、その神に造られたものとしての喜びに目を向け、それを味わうことができるようになる。
それでこそ、私たちは存在の喜びを知ることができるようになる。