🍉 ごきげんよう!🍉
志村が食べるスイカは
裏が抉られていた
筋衛門



青い目から見た


昔、イタリア人神父と話す機会があった。彼は高齢で日本語はネイティブだ。彼が来日したのは敗戦色濃い終戦の翌年だったそうだ。当時を昨日の様に思い出した彼は、降り立った敗戦国の惨状を目の当たりにした。その時に心境を日本人の私に話してくれた。


「当時、日本は焼け野原で何も無かった 」


まるで自国の惨状を見ている様に項垂れて話す彼から、宣教の無力感がひしひしと伝わった。そんな彼が私にひとつの質問をした。


「目は何の為にある?鼻は? 耳は?口は?では、心は何の為にある?」


私がどう答えたのか?よくは覚えていない。


「心は人の為にある」


と、神父は答えた。しかし私にはしっくりこない。あぁそうかと腑に落ちる感覚ではなかった。人とは他者とも取れるし自分や他者、つまり人間とも取れる。ではペットとは心が通じないのだろうか?そんな筈はない。それに鼻や耳はセンサーの役目であり、その情報をそう処理するかは脳の仕事だ。故に最初の質問の「何の為」とは聞いてどうするか?或いは嗅いでどうするかという質問だから、嗅覚や聴覚、視覚が答えだ。つまり聞いて覚える、嗅いで覚える、見て覚えるという意味になる。よって心の存在の答えは「覚」が付く。



クリスチャンの禅問答


最近やっと私なりの答えが出た。心の機能としての存在理由は「知覚」である。知覚とは“刺激に対して意味づけを行う過程” 言い換えれば「認知」なのだ。認知とは“ある事柄をはっきりと認める事” である。認知とは強い自分が不可欠だ。なんせ自分1人で決断し答えを出さなければいけない。

刺激とはその人の感受性や年齢、経験にも影響する。映画の感想や評価は人によって違う。認知とは絶対的にこれだというものではない。かと言って好き勝手な解釈で良いという訳ではない。少なくとも、自の認知と公の認知とに分けた方が分かりやすい。家庭で貯金は大切だが、大きな経済の流れでは良くはない。大型ショッピングモールは合理的だが、商店街の様に皆んなが小さな金額を回している循環にはならず、合理主義とは一部の勝者を産むだけだ。



​不健康な


精神病者と関わるとよく感じる。この認知に重大な問題がある事を。極端に偏った考えや解釈、物事に境界線を敷かない、極端な被害者意識、人類に対する否定、絶対主義的な善悪。全てが個人の心の中で完結していて、あまりにも稚拙な考えだ。当然脳が成長するはずも無く、知恵遅れや境界知能とレッテルを貼られる。


認知革命よろしく、人類は虚構(宗教や貨幣概念)を信じる事で人類に革命が起きたという。間違いである。革命は起きただろうが、認知の認知が間違っている。認知を言葉で説明しようという試みが間違っているのだ。サピエンス全史の著者は典型的な“本を読むと馬鹿になる”タイプだ。


別に認知の理解が間違っていても良い。問題は決めつけてそれ以上考えない事にある。認知には理解を深める事に意味がある。人はまだ何も知らない。宗教で例えるのならば、母親の向こう側にいる聖母を感じ取る事が認知である。蟻の街に主の息吹を感じ取る事であり、西成の公園でジャズを歌う事である。

真の認知革命とは、心や魂、霊を認知する事であり、決して虚構では無い。彫刻や絵画からの歴史を感じ取る事と同じだ。よく観る映像だが、母猿がミイラ化した仔猿をいつまでも抱いている姿を観る。それは賢い生き物故に物体に執着して、魂が見えなくなってしまっている。猿とてハードマザーでは育たないのだ。







ブログランキングに参加中‼️

応援📣クリックよろしくお願いします🙇

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村