元はこれです:
Thy will be done!
―いろいろな宗教の「根本原理」についての洞察―
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/youkoso.html
Thy will be done (要約:ヤフー掲示板に載せたもの)
「Thy will be done!」と禅、浄土教、ヴィパッサナ
はじめに
浄土教、禅、の共通点や相違点などを調べるなどしていたら、教理というよりも、宗教者としての妙好人のおそのやキリスト教などの行者(あんじゃ)ローレンスなどの生々しい言葉がきっかけになってある「ひらめき」があった。
それはThy will be done(主の御心のままに、あるいは法の働きのままに)という一句で浄土教、禅、ヴィパッサナ、キリスト教などの根本原理があらわされる、ということだ。
なんだか大げさなようであるが、私個人としてはいろいろある宗派、言葉の違いなどを乗り越えて宗教体験の根本が、この一句で「身にしみて」感じられたのでその内容をできるかぎりここにまとめておくこととする。
言葉というものは、ともすると風に舞う塵のようなものではあるが、それなりに役にたつこともあるかもしれない。ここに書かれたものが何かの参考になれば幸いです。
2010年11月7日 洲崎 清記
本文
Thy will be done (要約:ヤフー掲示板に載せたもの)
ここしばらく臨済録を読んだり、妙好人関係のものを読んだり、他力と自力のつなぎなどを考えたりし、そしてそれなりに面白い見所があった。
要は、Thy will be done! これがぴったりということ。禅も浄土教も、、、。(キリスト教も、、、)
どういうことかというと、たとえば浄土教なら、すでに衆生はすくわれているとくる。なぜかというとそうなっているから。(←法蔵菩薩:阿弥陀の本願)
では、なぜ我々がそれがそうとわからないかというと、それは自力のため。だから阿弥陀の本願を信じなさい、自力を捨てなさい→Thy will be done。(神の御心のままに:法の働きのままに)となる。
禅でもこれは同じ。(←諸行無常、諸法無我、涅槃寂静とつながる)
つまり結論はでている。で、迷い、煩悩は「そこ」から「自力」、間違った言葉・意識の使い方によって外れるから起こる。
だからThy will be done はナムアミダブツ、(→機法一体)というのと同義となる。もちろん、おそのの「はい」(別途ファイルがHPにあります:http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/myokonin-nimanabu9-12-2003.html
)もそれにつながっている。
宗教はいわば(本来はないものの、あると思ってバタバタ忙しい)自我との戦い。したがって、すべて自力ではどうにもならないというのが私の見方です。(禅が自力と呼ばれても、究極にはそうではありえないのです)
無常、無我、禅と浄土教
(以下のものは、上の見所にいたる前にちょっとかんがえていたものです。)
きのうある会合がキャンセルされることになって、ちょっとがっかりした。
(→心が動いた→~煩悩)そこで今日の朝、散歩がてらに思い起こしてみたが、いくつかのポイントが見出されるようだ。
1)そもそも「がっかり」というのは無常が身について「わかってない」ところから来る。それはいわば(固定観念のような)、ある考えにとらわれる、ということであり、その間違いに、即、気づかないから、つまり煩悩を断ぜずして涅槃を得る、でないから、「がっかり」となる。道元のいう柔軟心でない、というわけだ。あるいは私の言う「鏡の心」が常に働いていない、ということ。
2)そこで、無常:ヴィパッサナではサンパジャーナ(無常観)、般若経では五蘊皆空。これを「身をもって」知るということ。これが道元のいう前後裁断→柔軟心につながる。
3)ただし無常を無常(あるいは空を空)と単にわかるというのでは、問題がある。つまり、一般に、「わかった」というのは、頭でそうわかったということで、これは「わかった」という観念にとらわれるという問題がある。だから本当に大事なのは、体(身心)で「わかる」ということだ。(つまり、これは無意識の意識という領域の話)
4)そもそも体(の細胞など)は無常と常に面しているわけで、いつ何がどうなるかへの対応、これを(無意識の)智慧といってもいい、がいつでも「そこ」で働いている、といってよいだろう。(→悉有仏性)
5)だから智慧は体から来る、(→無意識の意識)といったことになる。ここはあたりまえのことだが、その智慧がどう働くか、これがポイントである。
6)そもそも体そのものが無常なのである。で、そのこと自身が法の働き、と気づかないといけない。そしてそこがわかると、「われわれ(意識)」はそういう智慧が働くという場をいつもちゃんと準備しているのか、ということになる。
(むろん意識して準備はできないというのが微妙なところではある)
7)ところが智慧の働きは自力でないから、(意識ではコントロールできない)いわば、むこう(無意識)にお任せ、ということになる。ところがこれが修行の進んでない(かりにそういっておく:つまり身についていないの意)ものにはできない。なぜかというと、頭の中が観念でいっぱい、自力ばかり、の回路が働いているというようなものだからだ。
8)それで、、身心一如という言葉があるが、これが体で「わかってないと」上のことが(身心で)わからない、ということになる。
9)それで身心脱落を体験するとこの辺が身に親しい、ということになるのだが(←私の体験)、それがそう「わかっても」常に「わかっている」というかどうか、という問題が残る。(→今回の事件、、実際はレベルの大小があっていろいろある)
10)ここまで言ったことを別の角度からいうとこうなる:それは「おそのの「はい」」。これを他力、といっていいのだが、なにごともあるがままに受け入れ、後のことは阿弥陀さまにまかすということ。
11)上で言ってきた「体の感覚」、これが他力(妙好人など)の場合、(その準備がしっかりしているのなら)即働くという気がする。*(ところでヴィパッサナあるいは道元の場合は自力と見られるかもしれないが、身心脱落は他力、、法の働きであり、究極には同じような感じがあるが、体験の「味わい」は微妙に違うようだ。)
12)つまり法の働き=阿弥陀の本願とすると、理屈ではそれでよさそうなのだが、どうも一味違う。何かというと、それは慈悲。つまりすべてをひっくるめて、救うという「とてつもないもの」。自力のこつこつの修行をすっ飛ばして、絶対他力に身をゆだねるということ。すると自分では何もしないのであるから、そこにえもゆえぬありがたさがあらわれるようである。
13)ただし才市とかおそのの例をみると、11)*で即働くようだ、といったが、実際はやはりいろいろあるようだ。それで才市は自分の絵を描いてもらったときに頭に角を生やしてくれ、と頼んだという逸話が残っている。実直というか、まさに素直なのである。
ちなみに、このことは、6)で「準備」は意識的にはできないといったが、他力では信がどこまで徹底しているかにつながるだろう。
14)そもそも1)~9)で救われると、苦集滅道→八正道、六波羅蜜、正理と法の道を歩む、などの意味合いがわかるのだが、10)~13)は、そういうものをすっ飛ばして、(とはいえ信をとうして)結論、、、智慧・救い、そして感謝、にむすびつくようである。
15)ではどっちがどうか、というと、、、無意識の意識は法の働き、阿弥陀の本願=信も、機法一体であるから、まあおなじようなもの、としておこう。
他力と自力の関係(まとめ)
上のことにからんで別のファイルに↓まとめをしておいたので参考までにここに転記する。
ところでこういう言い方が他力と自力の関係を示しているようだ。
まず、自力作善ということばがある。
「自力作善の人」の哀しいところは
「自力を見る鏡」を持たないことにある、というのもある。
それで、そのままでこいよ(本願)→はい(素直)、、、というわけだが、、、
そのことは、私なりに上になぞっていうと、、、
「他力は自力の鏡」ということだ。
(鏡の意味あいは別途HPにある「鏡の心」のファイルを参照)
禅ではその鏡に照らされるというのは般若の智慧の光に相当するわけだが、(般若経)
それがそのまま浄土教において、大船に乗る、という救いに相当している、(教行信証)というのがなんともふしぎありがたい、と感じいるのです。
ただしプカプカ舟に乗っている(つまりとことんの受動)だけでなく、それこそ釈迦のいう中道の意味あい(受動の能動)をそこに見出していくというのが正理と法の道を歩むという釈迦の遺言にそったものではないか、と思います。
http://www.geocities.jp/suzakicojp/michio-7.html より
ーー
ただし、やはり意識を使う限り、おっとっと(→煩悩)は、そこいらじゅうに起こるから、普段からの「しつけ」がだいじであり、そのためには素直・謙虚をもとに、修行すべきは修行し、信を確認すべきは確認すべし、ということになるように思う。
*ところで他力は、、禅やヴィパッサナのように「あるがままをみる」、からはじまらないとすると、そしてあみださんへの信がことによると自己催眠と結びつくとすると、方便は方便で、救われるということでも、両者の間になにかギャップが残るのではないか、という可能性があるかもしれない。法の働きは人知で知り得ないとはいえ、その辺のところは覚えておくべきことではないだろうか。いろいろな人がいろいろな見方・体験をことばで表すというのはやむをえないが、それらを洞察する智慧が各人必要、ということだろう。
「Thy will be done!」
大拙の引用していた行者ローレンス、とパスカル、とおそのの「はい」、さらには鏡の心、自力、他力、がある見所で筋がとおったようなので、ここにその内容を書き記しておく。一部は英語だがあしからず。(注:ローレンスについては付録に資料を付け加えてあります。)
まず、こういうパスカルの言葉がある。おおまかに訳すと、それは知の限界についてのパスカルの見所で、「神との対面は「ハート」によってのみなされる」というもの。:
"The heart has its reasons, which reason does not know. We feel it in a thousand things. It is the heart which experiences God, and not the reason. This, then, is faith: God felt by the heart, not by the reason."
おそのの「はい」はこういうところにもつながっているようだ、というのが私の直観。禅の「無分別の分別」の意味あいも上の文から感じられる。
次は行者ローレンスの言葉。「神がいつでもどこでも感じられ、われわれのすべての行為は神の僕としてなすべき」、というような意味合い:
everything we do, including in the kitchen, we must do it for God, so that the presence of God is as real in the kitchen as it is in prayer and in the chapel.
また「彼と神以外は誰もいない」、、というような生活をした、という:
"I began to live as if there were no one save God and me in the world."
(注:このURL↓は行者ローレンスの生い立ち、宗教体験などをまとめたもの。彼は僧院の台所の業務をあずかっていたらしい。慧能に似ている。ちなみにローレンスとパスカルはほぼ同時代をパリで過ごしたらしいがお互い面識はなかったようだ。:http://en.wikipedia.org/wiki/Brother_Lawrence )
これは素朴・素直な人にみられる特有の性向(信)をしめすパスカルの言葉。つまり「それらの人は理屈をこえて信に生きる」、と彼はいう:
“Do not be surprised at the sight of simple people, who believe without argument”
これもまた、おそののはい、とつながる。自らの知の限界を人生体験からよく身にしみて知っている、ということかもしれない。(ところで、、、願わくは、こういう素朴な人たちを知性がないとか馬鹿といってかたずけないでほしい。いうならば、彼らこそ、神の子ではないか!庄松は、仏間にねっころがっているのをとがめられて、「親のうちじゃ、遠慮には及ばぬ、そういうお前は養子(ままこ)であろう。」というが、なんともありがたいではないか!)
そして、ここが私の「気づき」のポイントだが、おそのの「はい」が、あるいは行者ローレンスの生涯を神にゆだねた生き方が、聖書などにあるThy will be done! につながる!ということ!(これを日本語訳すると神(主)の御心のままに、とか神の思し召しのままに、、、であろう。)
私にとってこの言葉は、森羅万象すべてのあるがままの「絶対の肯定」を意味する大変ありがたいものなのです。
要は神のなすこと、あるいは法の働き、、、それは我々の世界のあり方から宇宙の運行までのすべてをそうあるようになす働きであるが、、、、それは有無を言わせないもの。つまり絶対である。それで、こっちは素直にうけとる。それがおそのの「はい」、、、でありローレンスの生涯を神にゆだねた生き方である。疑問をさしはさむ余地などまったくないのだ。
パンセ(瞑想録)への回答
ここで40年以上前を振り返ってみると、どうやらこれが私が高校時代に出会ったパスカルのパンセ(パスカルが、ある書物を構想しつつ書きつづった断片的なノートを、彼の死後に編纂して刊行した遺著)から得た衝撃、、、絶望感へのいとも簡単な、かといって非常に意味深い「答え」なのだ。つまりパスカルは若くして死んだ(39歳)ので、パンセは結論のない思考の断片の集まったものとして出版されたわけだが、私の見る限り彼のいいたいことはThy will be done!であっただろう、ということだ。
ちなみに、こういう話が残っている:「死後、パスカルが病床で着ていた着物(肌着)の襟の中に、短い文書が縫い込められ、隠されているのが発見された。そこに書かれていたのは、彼自身が以前に体験した、回心と呼ばれる宗教的な出来事だった。。。ブレーズ・パスカルは、神との主体的な出会いを重んじた。」(ウィキペディア:「ブレーズ・パスカル」による)
ということで、すべてはここに行き着くしかない。そしてそれは、あるがままの肯定!である。(注:HPの「私と宗教」というファイルに私とパンセとの出会いを書いてあります)
ただ、このへん以前にもそう思ったところである。たとえば良寛の「災難にあうときは災難にあうがよく候 死ぬときは死ぬがよく候 これはこれ災難をまぬがれる妙法にて候」あるいは冷暖自知、ヴィパッサナの鋭敏な知覚と平静な心、大拙の「ひじは外にまがらない」の公案、など、みな同じところを指し示しているとみられる。
他力もまさにそのもの。おそのの「はい」と「Thy will be done.」がいかにも所を得てぴったりなのである。これはそのシンプリシティーの故であろうか?
あるいは知で構成された頭の中がピーンと一本筋が通って、体(あるいは存在の根本、あるいはハートとでもいおうか)とまぎれのない連絡ができた、という感じ(~直観)である。
(ついでにお経をなぞって(大げさな表現をすれば)地面が六種に振動し空から花がとめどなく降ってきた、という感じがある。。。)
*念のためにいうと、ナムアミダブツはThy will be doneと同義であり、見性・悟りだってThy will be doneの(働きが体験に、、)現われでたものだ。
*これ↓はパンセ全文(英語です)、ご参考まで:http://oregonstate.edu/instruct/phl302/texts/pascal/pensees-contents.html
ところで、パスカルのこの言葉:「神は無限の球である。その中心は到るところにあり、その円周はどこにもない。」
、、、は鈴木大拙のこの言葉(↓)を思い出す:
「自由なる禅者は、・・・無限を円周とする円の中に生きる。だから、かれはどこにあっても、つねに実在の中心にいる。かれが実在そのものである。」p475、大拙全集14巻、
*ちなみにパスカルは数学者・物理学者・哲学者ということだが、道元になじみの深い岡潔さんは数学者、中山正和さんは物理学者、(私は電気工学とMBA)と禅は工学系が多いのかもしれない。知(頭)を正しくつかいたいということであろうか。
「Thy will be done!」と絶対の肯定
上でみてきたように、パスカルのパンセという、とめどない人間のもつ苦難・問題の羅列、、、悩み・苦悩、絶望の体験を、青春期の私にもたらせた本の狙いはまさに正しい宗教的帰結を見出そうというところにあったとすると、、、そこに、宗教というと時として問題となる自己催眠・自己暗示のような可能性はあるだろうか?
私はこの問いにどう答るか?
答えは、、、「Thy will be done!」、、神のおぼし召すままに、が、そのままで答えである。
私は神の前において、神が私をとうして何かをなす、というときに、一体なんらかのコメント、あるいは疑問をさしはさむであろうか?無論、否!である。そのまま、あるがまま!Thy will be done! である。
つまり、神(仏教なら法、浄土教なら阿弥陀仏)を目前にして、私、知性、は透き通って、神(自然、法といってもいい)の働きの媒体となり(無我)そこにある働きにすべてを任す、ということだ。それはエデンの園を追い出された前の私がそこにあるということだ。
するとこれは、そのままで「行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」(般若心経)と同じということだ。我、業などという荷物をかつぐ必要はまったくないのである。かついでもかつがないのだ。
またこれは、「思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は。わたることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。」教行信証(現代語版)ということだ。
というのも、絶対の肯定は「自ずから然り」であり、法の働き、ないし無為を前にして、自我、ないし人為(知性)は全面的降伏あるのみなのだ。そしてそれが現れでたのが身心脱落の体験であり、悟りの構造であり、大智大悲のマカ不思議なる働きということだ。
知性はこの世(娑婆)で生きていくのに役には立つかもしれないが、最後のぎりぎりの一線はそれでは越えられないのだ。別の言い方をするなら、人生における最難問の答えは、知性の限界を超えたところにあるということ。そしてそれは人としての果てしない業のその大元にかかわる問題だから(知の限界=無明)、それは知で知をいじくるというのでなく、(=頭上に頭をかさねるのでなく)ひとっとびに知をつきやぶるものでなければならない。
そこに気づけば「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」は、そのままで是!ということになる。
要はこの私という存在は何なのか、あるいはまた宇宙の主人公は一体誰か?といったことであるが、上のところに徹底があれば、回答は問いのでる前にすでにあたえられているのである。
「Thy will be done!」と禅、浄土教、ヴィパッサナ
ところで上に書いたことは何年か前に「鏡の心」としてあらわしたもの(HPに「鏡の心」のファイルがあります)にそっているのだが、つまり鏡の存在とその鏡に照らされるというそのことは無意識の意識、無分別の分別の意、つまり智慧という、それでいいのだが、それを浄土教でいえばそのまま阿弥陀の慈悲であり、大船であり、、、そして、、その鏡の心の働き(般若の智慧の光)が、Thy will be done.(「主の御心のままに」、、)で絶対の働きということだ。
だから鏡のあるなし、鏡を磨く、などと思うのはそこに至る前の話で、知でいじっているということ。したがってそこはひとっとび、、(禅なら「頓悟」、あるいは他力教なら「横跳」)しろというわけだ。
念のためにいうと、ひとっとびは自力ではできない、自力が他力(Thy will be done)になって、あにはからんや、受動でぷかぷか、なのである。また自力は自力で自分を受け渡すことは出来ない。自力が切腹する(そのすべてをあけわたす)というと、ちょっと物騒だが、真宗的にいえば、阿弥陀の光に照らされる(=Thy will be done の信心)ということだ。
ただし、ここが微妙かつ大事なのなのかもしれないが、いままで私が感じていた「鏡」はそこに智という働き(←無意識の意識は第三の目を見出すと同義)があり、いわば静的な感じがあるのに対し、「はい」と「Thy will be done.」つまり絶対の肯定、は宇宙の意、といった(絶対の)エネルギーを身心で感じるのである。(←地面が六種に振動、、、)
そして社会、娑婆における自分、業に振り回され、周りにも影響を多大に与えた自分を振り返ると、とめどなく大悲が現れ出る、(あたかも泉が湧き出るかのように)といった感じなのである。
このへんを大拙のはどう見ているかと調べたら、こういう記述がみつかった:
『方便は菩薩の大悲心が作り出すものだ。菩薩は、一切衆生が無明に陥り、また個別の愛着に依り、生死の大海のなかに沈没せる有様をみて、無限の憐れみを起こし、あらゆる手段を考案して、衆生を救出し、開化し、その心を成熟して、究極なる真理を受け入れしめようとするのである。
「方便」は空の真理に対する菩薩の明確な知覚からでてくるものであって、空そのものの中から出てくるものではない。空の真理そのものは無力なのものである。菩薩の意識を通さないと、空は力あるものとならない、というのは二乗すなわち、声聞、縁覚は一切衆生の安寧に対してなんらの関心を持たないからだ。二乗の人々は、空の真理の知的理解をもって満足し、絶対孤独の真理に安住し、自己充足の狭き部屋からあゆみでようとはしない』p。68、大拙全集、5巻
そう、これをみると、「エネルギーを身心で感じるのである」、、といったことが菩薩の大悲心と直接につながっている、というように受け取れる。
さらにこのことに関して「禅の問題点」、として以前に大拙の言葉を書きしるしてあったものがあるのでそれをここに再掲載しておく:
…禅は知的特色は著しいが、情性面において限られたものをもっている。たとえば永遠の彼岸、無盡の祈り、存在そのものと離れられぬ業についての懺悔道などというものについて、禅は満足した回答を与えていないーすなわちこのような問題に対して悩みぬいているものに対して十分の清算をしてやらぬ。
禅そのものは限定性ではないにしても、禅者には独善的性格が顕著である。これは禅の知的傾向から出るものである。独善性は、社会的、集団的生活の真っ只中に没入することを能くせぬ。垂手入テンということはあっても、それは集団的組織をもたぬ、尚ほ独立孤行的である。この点において、禅または禅者は近代性を欠いている。これも十分に詮索しなければならぬ。
(p。449-450、大拙全集28巻より、(注)意訳してあります)
http://www.geocities.co.jp/suzakicojp/daijyounohatten.html#_Toc56566941 より
これをみると、禅は大乗といわれているとはいえ、小乗に近いのでは(つまり孤高、山の中でひっそり風)という感じを、大拙も受け取っていたように思える。とはいえそれは禅自身の問題でなく、禅匠・禅者自身の問題であるかもしれない。下手なやりかたをすると(つまり人為的に下手な工作をすると)知の迷路にはいるのもいるようだし(←ある意味では当たり前ではあろうが)、たとえ見性(悟り)にいたっても、そこにある問題:つまり『不立文字、教外別伝、直指人心、、に表されるように1)絶体絶命を通りぬけるという体験、を2)いかに領解し、さらに3)仏道を歩み続けながら、いかにまわりのひととその意味あいをシェアできるか』という問題が立ちはだかるだろう。
私の場合、ヴィパッサナをとうして1)があり、2)は禅との整合→領解を丁寧に進め、3)は2)での確認を丁寧に進める(道元流にいうなら、仏の足跡を計るというチェックを進める)ということだったが、今持っている感じを大雑把にいうなら、禅、ヴィパッサナ、浄土教、(キリスト教)と比較してみると、それぞれ一長一短があるようで、やはり個人の好み(業)、向き、不向き、深浅もあり、これがいいとはいちがいに言えないように思う。
宗派があるということは煩悩の数、種類、アプローチが色々ということでもあり、そのせいもあってか、お経もいろいろあるし、それはまた、色々な状況にあわせて釈迦が対機説法をした、ということともつながる、とみえるのだ。
このところを逆にみると、いわばなにを志しても落とし穴はそこいらじゅうにあるということだ。私という存在すらもたとえば昨日と今日ではことなる(無常)ということでもあり、仏道を歩むというのは、それこそ前後裁断、一歩一歩、丁寧に油断なく、ということでなければならないということだろう。
このことは、それはそれで大事なポイントであろうが、ここでのポイント、「Thy will be done!」はどんな状況でもまぎれなく基本にあるものであろう。それは絶対の肯定である。そしてそれがゆえに、我々はどんな難関に陥っても、安心があり、煩悩の嵐の真っ只中でも、『煩悩を断ぜずして涅槃を得る』ということにさえなるのだ。また、それがゆえにエデンの園から追い出された(気が付いたらでていた)というところに、絶大の意味が見出されるということと思う。
般若の智慧(禅)や阿弥陀仏の本願(浄土教)の根っこ(とりあえずそういっておく)にそういう絶対の肯定(の働き)があるということだ。
天命
ついでに、「Thy will be done」は孔子のいう(50歳にして)「天命を知る」(60にして、耳順う、70にして、心の欲するところにしたがって矩を超えず)というのとどうつながるかを調べてみたい。
「Thy will」は「天命」と同義と見られ、「天命=法の働き」、、、で、それが釈迦の「正理と法の道を歩む」(涅槃経)、とつながっているとみられるが、、、1)その道を見出していくという(能動的な)のと、2)すでに、すべてがThy will be done、あるいはそのままで「はい」(受動的)である、というように、認識のしかた、受けとりかたに違いがあるようだ。
後者(2)は:大用現前規則を存ぜず、、つまり(すべてを任せるなら)なにもかんがえないでよい!(→知は不要:受動:救われるというところに主眼がある)
前者(1)は:心の欲するところにしたがって矩を超えず、、、(→矩は知あるいは智とつながる:受動の能動)つまり(自ずから然りで)道を見出せ!ということなのであろうか?あるいはその辺の微妙なところをふくませて、おおきく中道とくくるべき(見るべき)であろうか。
この辺を俯瞰すると、ひとつには、知性の働き(人為)にどれだけの重みをおくかで、つまり娑婆での身の振り方にからんで、大智大悲の働きは微妙に異なるであろうから、状況にあわせて道を見出す、というようになるようである。釈迦の対機説法もそこにつながるようだ。そしてそれは釈迦においては、「正理と法の道(領域)を歩む」(涅槃経)、である。
大雑把にいえば、修証の道を歩むのか(聖道門)、受動で阿弥陀という船にぷかぷか浮く(=救われる)のか(浄土門)、、となるが、実際には人により、状況により智や慈悲の現れ方はことなるというのが現実的ではないかともおもえる。すでにみたように、煩悩の数は山ほどあるし、お経もいろいろある。そこでここではとりあえず、おかれた状況による、としておく。
(たとえば、死ぬ直前はもうあゆみつづけるわけには行かないから、それこそ絶対の受動→Thy will be done ということであろう)
ざっくばらんに言えば、浮いていて、前に何か現れているなら歩いて(船ならオールをこいで)いくのもよい。(受動の能動)それがうまくいかないのなら、ぷかぷかもよい、である。(受動)
Thy will be doneのWILL(意志)の働きがどうか、それは智慧ないし慈悲として外(娑婆)に沸き出る働きなのか、あるいはあるがまま(→慈悲をうけとるのみ、ないし煩悩を断ずるのみ)か、、、といったことかもしれない。(無論、絶対他力なら、ここはもう「考えない」のである、あるいは考えは「向こう」からくるのである)
これは行者ローレンスの言葉:
“O my God, since Thou art with me, and I must now, in obedience to Thy commands, apply my mind to these outward things, I beseech Thee to grant me the grace to continue in Thy presence; and to this end do Thou prosper me with Thy assistance. Receive all my works, and possess all my affections. Amen.”
“神よ、あなたは私とともにいるのですから、そして私はそうするほかなにもないわけですから、私はあなたのおっしゃることに従い、しかるべく私の心を外(~世の中の事柄)にむけながら、私があなたの前にずっと居続けさせていただくということを懇願します。そしてそのことにより、あなたの助けにより、あなたが私をとうしてしかるべくその働きを働かさしめますよう。どうか、すべての私のなすことをうけとり、すべての私の愛をうけとってくださいますよう。アーメン。”
注:
自ずから然り=天命=絶対の他力=そのままの肯定=あるがまま、、、がそもそもの存在の基盤である。そことの連絡ができているなら般若の智慧、機法一体。できていないならThy will be done!ということだ。
結論:「逃げ場はない!」→なんと、そこに解がある!
ここまでをふりかえってみて感じるのは、「逃げ場はない」ということ。つまり、「Thy will be done!」から逃げよう逃げよう、とバタバタ暴れるのは孫悟空がお釈迦様の手の平から逃れる、というのに等しい、と思える。
それは子供がやんちゃをして母親を困らせ、逃げようとするのに似ている。母親はその慈愛の心で、方便を使い、子供の幸せを願い、できる限りのことをするのだ。
子供はそれを知らない。
だが、、、この私という62歳の子供は、ついに、、禅をやっても、ヴィパッサナをやっても、浄土教をやっても、キリスト教をみても、何をやっても、行き着くところはひとつ、とついに気がついた、、、。
そして不思議であり、あたりまえのであるのは、その行き着いたところはでてきたところと一緒、ということ。何のことはないのである。
禅ではどこから来て、どこ行くのか、などを聞いて見所を調べたりするが、それまた閑家具(不要なもの)といったものだ。
あれをやり、これをやり、、、逃げ場がないと、そして我が落ちると、そこに「自由」があるという不思議。
そして、、、長い息をはく。(ははははは)
体の力は抜け、いすにどっぷり坐り、かといって、まわりは以前としてそのまま、なんら不思議はない、、、、という不思議。
不思議なものである。
Thy will be done!
神の思し召しのままに、
本願のままに、
そのままで、はい、
あるがまま、
おのずからしかり、
五蘊皆空、度一切苦厄
随処に主と作れば、立処皆な真なり
流れに随い性を認得すれば、喜も無く亦た憂も無し
たんたんこつこつ、たんたんつこつ
気がつくと、日は山の陰に落ち、周囲は薄暗くなってふくろうが鳴いています。
ほーほーほー
付録
行者ローレンス
大拙の本、選集 (~p93、撰集9)、にあった、行者(あんじゃ)ローレンスをネットで調べたら、原書、The Practice Of The Presence Of God、がここに乗せてあった:
http://www.practicegodspresence.com/brotherlawrence/practicegodspresence09.html
以下のものはそこからの一文:
In his trouble of mind, Brother Lawrence had consulted no one. Knowing only by the light of faith that God was present, he contented himself with directing all his actions to Him. He did everything with a desire to please God and let what would come of it.
やはり、これなのだね。
真宗ならナムアミダブツ、、、ということになるな。
松下さんなら、素直な心で、、だろう。
―
"When I fail in my duty, I readily acknowledge it, saying, I am used to do so. I shall never do otherwise if I am left to myself. If I do not fail, then I immediately give God thanks, acknowledging that it comes from Him."
これを時々刻々、やったのだな。
天命、、を受けるアンテナ、、、
これが神との会話、、という形で(常時)進められたということだ。禅なら動中の工夫、真宗なら信心相続。
―
As for what passes in me at present, I cannot express it. I have no pain or difficulty about my state because I have no will but that of God. I endeavor to accomplish His will in all things. I am so resigned that I would not take up a straw from the ground against His order or from any motive but that of pure love for Him.
--
神のオートマトンか。(これはちょっと言い方が悪いかな。。)
つまり、Thy will be done...だから、そうなる。
あるいは一刻一刻天命に沿う、、、心の欲するままにして矩をこえず、、、
といったものだ。
大拙もいっている、「かくのごとき思い切った言葉をだしうる底の人は大悟徹底のひとでなければならぬ」p93、大拙撰集9巻
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I have ceased all forms of devotion and set prayers except those which my state requires. I make it my priority to persevere in His holy presence, wherein I maintain a simple attention and a fond regard for God, which I may call an actual presence of God. Or, to put it another way, it is an habitual, silent, and private conversation of the soul with God. This gives me much joy and contentment.
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だからもう、教義もドグマもリチュアルもない。
神の現前を常に感得していた、、ということだ。
心は万境に随って転ず、 轉處實能幽 転処実に能く幽なり、 随流認得性 流れに随って性を認得すれば、 無喜亦無憂 喜も無く亦憂も無し
、、ということだろう。
そして、そこにその性の認得、、に神にすべてをささげる、という、、、とことんの信、、とでもいうかFaith、、があるのだ
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I think it is appropriate to tell you how I perceive myself before God, whom I behold as my King. I consider myself as the most wretched of men. I am full of faults, flaws, and weaknesses, and have committed all sorts of crimes against his King. In deep regret I confess all my wickedness to Him. I ask His forgiveness. I abandon myself in His hands that He may do what He pleases with me.
このところは慙愧だ。
My King is full of mercy and goodness. Far from chastising me, He embraces me with love. He makes me eat at His table. He serves me with His own hands and gives me the key to His treasures. He converses and delights Himself with me incessantly, in a thousand and a thousand ways. And He treats me in all respects as His favorite. In this way I consider myself continually in His holy presence.
My most usual method is this simple attention, an affectionate regard for God to whom I find myself often attached with greater sweetness and delight than that of an infant at the mother's breast. To choose an expression, I would call this state the bosom of God for the inexpressible sweetness which I taste and experience there. If, at any time, my thoughts wander from this state from necessity or infirmity, I am presently recalled by inward emotions so charming and delicious that I cannot find words to describe them.
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悪人正機で、、、、
すべてを投げたら、、船に乗っているのに気づいた、、、
その様子は、、、法悦、、、!
ことばにならない。
この最後の引用の文(→法悦)はカビールの詩17(HPにあります)を思い出す。
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「そのままでこいよ」「はい」
ところで。浄土教の「そのままでこいよ」「はい」。。。は、まったくの他力の消息とみられるが、これは禅や阿羅漢の修行でも、そのまま使われている。
(たとえばヴィパッサナー小乗ということのみでなく止観(サマサー・ヴィッパサナ)は大乗起信論にはいっていたと記憶する。天台も止観をやるときく)
たとえば、只管打坐、只管活動、、はそのまま、、、であり、公案でもたとえばひじは外に曲がらない、は曲がらないままの自由をみている。
そのままでこいよ、はい。は絶対の肯定であり、自ずから然り、という意味合いでもある。
ヴィパッサナではそのまま、、はあるがままであり、はい、、は平静なこころ(→ そのまま―絶対―の肯定)である。
ここでみたように、他力のものは自力、他力とわける前に、自力の中にもちゃんと他力のポイントがしっかり入っているということを知ってもいいように思う。
もっともこの辺となると、本当に体からわかっているものがどれだけいるかは、、、別の問題ということかもしれない。
すでに、そこ、ここ、でみてきたように頭でわかっていても実践で使えなければなんの意味もないのだ。
単に頭でわかっているということはわかっているということではないのだ。そこには(「生きる」ということと)常に絶体絶命のギャップがあるといっていいといったものだ。(むこうからみれば、そのようなことはないのであるが。。。)
臨済と浄土教: ダンマ(法)に包まれる
臨済に「無位の真人」「無事是貴人」「無依の道人」があるが、これらは上で言った「そのままでこいよーはい」(摂取不捨)とつながるようだということを以下に調べてみた。
臨済の言葉の中にたとえばこういうのがある:
>だから一念のもとに、あらゆる相対的現象はもともと生滅なきものと悟って、三乗の方便の教えを学んでいる菩薩たちも一気に飛び越えるのが一番だ。142P
これ↑なんかは真宗の横っ飛び(横跳)、といった感じではないか。
こういうのもある:
>造作のくわえようがない、ただ平常のままでありさえすればよいのだ。
「自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である」
着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこがわかる」
>諸君、世間には、修習すべき道があり、証悟すべき法がある、などと説くものがいるが、一体どんな法を悟り、どんな道を修しようというのか。君たちの今の働きに何が欠けていて、どこを補わねばならぬというのか。p。81
>君たちが何か求めるものがあれば苦しみになるばかりだ。あるがままに何もしないでいるのが最もよい。P.85
これらは、おそのの「はい」とぴったりという感じではないか。
それと、これ:
>病因は自ら信じきれぬ点にあるのだ、もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべて外的条件に翻弄されて自由になれない、もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切れたら、そのまま仏祖とおなじである。<
言葉の解釈は微妙だが、それはともかく私なりに解釈すると、まず「信」、、、自らを信、、となっているが、この信は、浄土教の信と同義とみると面白いことになる。法への信でもいい。「仏祖とおなじ、、」は自在、、救われた、、などと同義と見ていいと思う。
そこで、浄土教と臨済のつなぎを、、とネットを調べたら、こんなのもでてきた。:
題:仏教の根底にあるもの:玉城康四郎 ききて金光寿郎
平成六年二月六日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたもの
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-286.htm
これ↓は最後の部分:
金光: 摂取不捨の利益で、無上覚をば悟る。
玉城: そうそう。
金光: そこの世界は、もう「何宗だ、何宗だ」というようなことではなくて、それこそダンマそのものに包まれて生きている世界、と。
この最後の金光さんの言葉、「ダンマそのものに包まれて生きている世界」、、、これがなんともありがたいではありませんか!!!
浄土教の、「大船に乗る」、、でもあり、また、Thy will be done! といった感じでもある。
「そのままでこいよーはい」:摂取不捨
摂取不捨(観無量寿経:仏がこの世の衆生 しゅじょう 、生きているものすべてを見捨てず、仏の世界に救い上げること)に関し、ネットからこれ↓が出てきたのでご参考まで。:
「摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり。」と出てきます。
これは今まで中心というものが「私」の側にあったわけですが、
それが「仏さん」の側に移ってしまって、
絶対者の愛に包まれている状態、絶対者の一部として自分があるような
安心が感じられる状態になります。
そして根拠のない自信が湧き出してきます。
これは拡張感と深い安心感を伴った状態であって、
ここにいたっては一切皆苦や諸行無常に対する「恐れ」「不安」
は消えていきます。
煩悩やカルマがあるので、「不安」「恐れ」は出てきてます。
ただ、す〜と波のように消えていきます。
そしてただ愛のみがあるというか、
この世が浄土と同じようになるというか、
この世と浄土の区別がつかなくなるというか、
正信偈では「能発一念喜愛心、不断煩悩得涅槃」、
「能(よ)く一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
とあって、仏性が目覚めれば、煩悩はなくならないけど、
煩悩から自由になると書かれています。
これは、相対的な分別知から無分別知へ心が移行するということですね。
立脚点や価値観がこの世の相対観から、あの世の絶対観に移行するというか。
このことをもっと分かりやすく言えば、
「〜になること」に終止符が打たれて「私であること」を生きるようになっていく、
ということです。
つまり今までの人生は、
欠点を無くそう、
人から好かれよう、
強い意志のある人間になろう、
もっと努力して成功しよう、
と、何かに「なること」を目差して生きてきたわけです。
これはいつも自分と人を比べたり、
この世の物金至上主義に煩悩がつかまっていたわけです。
それが信心が起こることによって、阿弥陀さんとつながることによって、
拡張感や安心感が起こってきたときには、もはや「〜になること」が無意味に
思えてくるわけです。あほらしいというか・・・。
つまり「私であること」、今の自分で良いということに気づいて、
やっと肩の荷が下りるのです。
まさしく、この世とは不完全な自分自身を直すための修行の場、
人と比較対照しながら勝ち負けする競争の場と思い込んでいた思い込みが、
実にばかばかしくなっていきます。
するとどういうことが起きるのでしょうか?
まず嫌々する努力という感覚がなくなっていきます。
目の前に与えられたことは淡々とやるってことになっていきます。
念力的に目標達生しようとしていたことが、
阿弥陀さんの手足となって自由に使い切ってもらえばいいと思うので、
縁という自然な流れにのって念力や目標達成にこだわらなくなって、
良い悪いや正しいか正しくない、こうあるべきだ、あらねばならないが消えて、
仏性が感じる本質的な快か不快かによってのみ、
目の前に来ることだけを謙虚にフォーカスしていくようになります。
また、今までは経験が大切でしたが、
それよりも直感的に行動するようになって、
すごく軽く行動していけるようになっていきます。
人から見れば努力していると見えることも、
自分にとっては仏さんのゲームとして、
とてもワクワク楽しんでいけます。
とにかく相対的な分別知が薄らいでいきますので、
嫉妬する事も、妬むことも、怒ることもなくなり、
「それはそれでいいんじゃないの」と、
いろんなことを肯定できるようになっていきます。
じゃあ、なぜそうなれるんでしょうか?
仏教では「生死一如」といってます。
生という状態も死という状態もトータルで見れば、
変わりがないってことです。
信心が起こるということは、
この世を去ったら阿弥陀さんの霊的宇宙に還れる、
生まれ変わるって宇宙と一体となると深く頷けるってことです。
この状態を仏教では「往生」と考えるし、
「浄土」に生まれると考えるわけです。
それが救われたということです。
それが「往生をばとぐるなりと信じて」ということです。
http://www.naturalclean.co.jp/blog4/blog.cgi/permalink/20090327173337
以下はわたしの注記です:
注-1)「往生をばとぐるなりと信じて」、のもとはこれ:「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり(『歎異抄』第一章)
注-2)摂取不捨は観無量寿経の第九の瞑想(無量寿仏の身相と光明の観相; p26、漢訳はp。61-岩波)に書かれている。そこで瞑想、、、これが「観」、(したがって観無量寿経)、ということであるが、この観は、修行の意味にとれる。ちなみにこのお経には、そのほか太陽、水、大地、、(それぞれ第一、第二、第三、、)など16の瞑想などがある。ところが16の瞑想では「下品下生の者、おろかなもの」は十念を具えてナムアミダブツととなえなさい、とある。なぜかというと、おろかなものは「苦しみに迫られて仏を念ずる(~阿弥陀仏の幸あるところという世界を観ずる)暇がない。そこでナムアミダブツと唱えなさい、ということ。(→そこでこれを「下位のものの往生の観相」と名づけられた) このへんが悪人正機(歎異抄:善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや)とむすびついているのかもしれない。つまり、罪深くても、頭がぼけても、なんでも、、最後の最後まで、、、救いが残されている、というところのようだ!
そして「もし心に仏を念ずるものがあったら、この人は人間なかの蓮華である」、、とある。(p。41)ところで、妙好人が蓮華にたとえられるが、ネットにこういう説明がある:『「妙好」は元来「白蓮華」を意味する語で、泥の中に育ちながら浄い花を咲かすハスのように、浄らかな信心をもつ信徒を「妙好人」と呼ぶ。』
* HPに戻る:www.suzakijpn.has.it または
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