”人生は登山だ” という言葉をしばしば聴く・・

この世界の人々はそれぞれ ”自分の登るべき山” があるのだと・・

子供の頃、俺は ”現実” をしらなかった。

誰しもがそうだが、年齢を重ねるにつれて・・現実を少しずつ知っていく。

だけど、子供には ”現実の部分” に置き変わって ”夢” がある。

”その夢”は ”現実を知らないから持てるものである” のだと俺は思う・・

だから、子供時代は現実を知らない分 ”果てしのない無限の道が自分の前に広がっている” ように思えた・・

それがあったから、この世のあらゆるものが ”大人の現在” よりも美しく感じられたのだろう・・

そして、”現実の部分” は大人が補ってくれていたので、それを知らずにいれたのだろう・・

現実を知れば知るほど・・夢の部分は徐々に喰われていき、現実に置き換わってしまう・・

そして、”子供の頃は美しいと知覚できた物事” について、大人になるとほぼ ”無知覚” になってしまったことに気づかされる。

現在の俺は、夢はあまり持っていない・・ほとんどが現実に喰われてしまったんだろう。

そして、現実を知るにつれて、”自分の登るべき山がすでに限定されてしまった” ことに気づかされる・・

子供の頃登りたかった山は、"高く・素晴らしく・美しい山” だったけれど、

現在登ることのできそうな山は ”低く・みすぼらしく・とても美しいとは言えない山” になってしまった。

それでも、その限定された山の中の1つを目指して登ったほうがいいのだろうとは間違いなく思う・・

けれども、最近よく思うんだ・・たしかに ”俺みたいな生まれもって特にアドバンテージの持ってない人間” でも、

常に正しい道を歩んでいれば ”内田真登” は ”もっと幸福な山” に登れたんじゃないかな?ってね・・

 

”今の自分の仕事” はとても ”天職” だとは思えない・・

”大学” も、中高時代にもっと熱心に勉強していれば、”もう少し良い大学” には入れたかもしれない・・

平均よりもだいぶ低い ”俺の身長” だって、子供の頃にもっと ”栄養摂取” に気を使っていれば、もう少しあったかもしれない・・

そんな ”もしもあの時~をしていれば” を回想したところで、

何にもならないだろうし、”こうなることが俺の宿命だった” のかもしれないのだけれど・・

やはり、社会のコマとしての”劣化歩”になるのが、”内田真登の宿命” だったのかなぁ?

だから、”その限定された山の中からできるだけ幸福な山” を選べるように努力するしかないんだよね・・

それでも、俺は夢の部分すべてを ”現実に置き換えてはいけない” と強く思っている。

そんなこんなで最近 ”人生は登山だ~人々はそれぞれ登るべき山を持っている” 

というようなフレーズが何度も頭の中を駆け巡るのです。

 

”拙い文章” にお付き合いいただいた方・・ありがとうございました。