滑車結び(吊下げ式)
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寝太郎落ち武者伝説
戦国時代、信濃国佐久地方を治めていた豪族、清和源氏の末裔、平賀成頼入道源心が甲斐国、武田晴信(のち信玄)に討たれてしまいました。父を亡くした嫡子の清恒は一旦、佐渡ヶ島へ逃れていきましたが、お家の再興も薄れて姉の住んでいた周防国祖生に下ってきました。姉の夫は当時、周防と長門を治める大内義隆の重臣、冷泉隆豊で清恒も家臣にしてもらいました。その後、お家騒動で大内義隆も長門大寧寺に追われて自決しました。清恒は裏山から長門国厚狭に落ち延び、名を捨てて農家の手伝いをしていましたが、農民が干ばつで苦しんでいることを知り広大な荒れ地の開拓を志します。
その思案は3年3か月も続きました。やがて佐渡ヶ島へ大量のわらじを運んでいき、代わりに鉱夫の履き古したわらじと交換しました。そして持ち帰ったわらじを、この地の広場で桶に入れて濯ぐと砂金が溜まり清恒は莫大な富を得ました。これをすべて開拓資金に使ったのです。そのお陰で厚狭川に大井手が完成し堰き止めた水は石組みの上を越して樋門から用水路にそって荒れ地に流れ込みます。こうして千町ケ原という立派な水田が完成したのです。人々は感謝して子や孫にまで語り継ぎましたが、後の権力者の圧力などで、清恒の名は忘れられてしまいました。そしていつしか寝太郎さまと崇めて神社に祀るようになったのです。
(寝太郎伝説研究会 田尾 進)
物入を片づけていたらカセットテープと譜面がでてきました。(笑)
紙芝居のテーマソングに使っていたものです。
寝太郎神社の由来
同境内、 荒神社 但横壹間壹尺壹寸入、壹間四尺壹寸貳歩惣藁萱 祭 月廿七日、 一日祭り 但社人神勤神楽を奏し氏子中参詣、夜中角力杯興行仕候事 寺傅曰、此荒神社 厚狭千町ヶ原鬼門ニ當候故、祈願之権現住吉三賽荒神一所ニ安置ニ句、 権現之儀は千町ヶ原開基寝太郎と申者之由ニ御座候、古例を以て千今正五九月為 五穀成就祈祷日待月待等仕候事右當寺初發之開基開山潮海大徳和尚と申、 天台宗ニ句殊之 宗風繁昌之由ニ候處、 天和二年壬戌ノ三月廿四日出火、 二句寺院位牌世牌棟札什書ニ至 迄不歿焼失ニ付還化之、年月相知不申、 其後星霜押移大内之時代、冷泉判官隆豊、公之領内ニ相成、臨濟宗之和尚 當寺取立之由申傅候 本尊之儀は聖武天皇南都大佛殿御建立ニ付、豊州宇佐、 為勅使行基下向之折節、潮海大徳鑑穂風、右之佛像寄附 相成由申候事
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