HEROジャンドと代行天使

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更新が遅れてしまい申し訳ありませんでした。さて、今回は


2.ペリーを描いた百姓

です。


現福島県伊達郡保原町の百姓、菅野八郎(1813-1888)

彼は、『あめの夜の夢ばなし』という本を著しています。この中に、ペリーの似顔絵が描かれているんですね。この本によってペリー来航のニュースは東北の農村にもすぐに伝わったということが分かりますね。アメリカの願いを拒否すれば戦争になるかもしれないと知り衝撃を受けた八郎さん。1854年の正月に不思議な初夢を見ます。内容は、

「東照神君家康公の使いがあらわれて海防の政策を授けてくれた」

というものです。八郎さんはあわててこの内容をまとめて国元の代官所に訴えたが当然無視されてしまいます。しかし八郎さんは諦めず、江戸へ向かいます。

1854年1月にペリーが再来航すると、武士たちは右往左往します。八郎さんはどんなものなのか一目見てみたいと、神奈川沖へ向かいます。ペリーは日本に脅威を与えるために、事あるごとに祝砲を撃ちます。その祝砲は『百雷のげきする如し」と表現されるくらいすさまじいものだったようです。周辺の老人や子供は家の中でひれ伏しているほどの有様です。これを見た八郎さんはより使命感を感じ江戸へ戻ります。


江戸へ戻ったあと、役人に書類を渡そうとしますが、受け付けてもらえず、困った八郎さんはなんと政治のトップの老中首座阿部正弘に駕籠訴をします。駕籠訴とは昔のお偉方は駕籠に乗って出勤するので、待ち構えてその籠に走り寄り、直談判するというものです。

なんと、一応の吟味をしてもらい、満足したのか1854年5月に国元に戻り、『あめの夜の夢ばなし』を執筆します。


ここである疑問が浮かびます。

当時幕府は駕籠訴を禁止していまして、行った場合は、とても重い制裁を加えられるという状況でした。では、

なぜ幕府が禁じていた駕籠訴を行ったにもかかわらず、おとがめを受けずに済んだのでしょうか。


そもそもなぜ駕籠訴が禁止されていたかというと、幕藩体制というものは、幕府が独占的に国策を講じるというもので、幕府のものでない者は口出しできないものでした。代わりに幕府は、藩内の政治には干渉しない事が決まっていました。


さあ、なぜ八郎さんがおとがめを受けなかったのかは、次回とします。有難うございました。


こんにちは。今日から江戸幕府が開国するまでの流れを大雑把ながら解説させていただきます。よろしくお願いします


まず、今回の題名は、


≪黒船は幕藩体制をどう揺るがしたのか≫


です。


1.予告されていたペリー来航


 1853年6月3日、アメリカのペリーを総司令官とする4席の黒船が浦賀に来航しました。この4隻の黒船のうち2隻が蒸気船でした。まあ、当時の日本はこの黒船来航で大慌てしますよね。

 では、日本はなぜ慌てふためき、そのまま開国することになってしまったのでしょうか。


 そもそも、日本は黒船の来航を全く予期していなかったのか。

実は1853年5月7日号「Illustrated London News(絵入りロンドン新聞)」で、

‘‘The United States Expedition to Japan‘‘という題名の記事が出ていました。

Expeditionは遠征というような意味を持っていますから、「アメリカの日本遠征」といったところでしょうか。この記事の内容は、一言でいえばアメリカが日本の開国を求めているということを表した内容です。

この新聞記事があったため、英語が読める教養がある人ならば、誰でも黒船来航を予期できたわけですね。


で、この新聞はどのようにしてその情報をつかんだのでしょうか。

イギリスはアヘン戦争で勝利し、中国から香港を獲得し上海を開港させました。そして、その開港させた港に立ち寄ったペリー艦隊の情報を中国から入手し、記事にして発行したのです。


しかし日本は、そのような記事が発行する前からすでにペリー来航の情報をつかんでいました。どのようにしてその情報をつかんだのか。それは、日本は鎖国していたとはいえ、限られた国との貿易は許されていました。それが、オランダです。オランダ商館が長崎にあることは有名だと思いますが、その商館のトップ、商館長が毎年長崎奉行に対し「風説書」を提出するんですね。その1852年の6月号にその問題の情報が載っていたそうです。まとめると、

「アメリカ大統領フィルモアの使節が江戸湾を目指し、蒸気船に乗ってやってくる。

使節は交易のために港を開くことを求め、カリフォルニアとの間に蒸気船航路を開くため、石炭を貯蔵させてほしいと願い出るらしい。もし拒否するならば、上陸して戦闘を交える用意もしてあるそうだ。」

という内容です。つまり、幕府はいきなり黒船が来て慌てていたのではなく、事前に情報をつかんでいたのです。

しかし、幕府はこの情報を秘密にし、十分な対策をとることをしませんでした。


1853年6月9日、ペリーらの使節が提示したアメリカ大統領から将軍あての国書を受け取り、翌年に返答すると約束しました。つまり、1年待って下さい。と頼んだのです。



今回は、ここまでとします。今回のまとめは、ペリー来航は予期されていたことであったが、幕府が対策をしなかったために、開国することになったということです。

次回は、ある一人の百姓についてです。