Cafe de Goldberg

Cafe de Goldberg

無人島に一枚だけCDを持っていけるなら、グールド晩年の「ゴルトベルク変奏曲」。
同曲のコレクション枚数50枚以上。
バッハ大好き管理人が音楽を好きに語るブログです。

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小さい頃に見て、鮮明に記憶に残っている映画は、いずれもジュリー・アンドリュース主演の「サウンド・オブ・ミュージック」と「メリー・ポピンズ」だ。
小さい頃の記憶だから吹替版のほうが印象に残っている。どちらも家族がテーマになっていて、厳格な父親が主人公の出現によって、少しずつ子どもたちに心を開くようになっていく。
ストーリー、キャスト、音楽、それから吹替の質も含めて文句なしの名映画だと思う。小さい頃に観るのと、自分の家族を持ってから観るのとではまた感想も異なるが、やっぱり親になってから観るほうが感情移入は大きい。父親ならなおさら。
映画音楽というのは、情景とともにあるので、単に音楽の良し悪しだけでは評価できないところがあるのだけれど、この二作品に関しては、それを考慮した上でも素晴らしい音楽だ。ジュリー・アンドリュースの歌唱力の高さは言うまでもない。
「ドレミの歌」や「チム・チム・チェリー」等、日本でも広く知られている曲をはじめ、「私のお気に入り」「全ての山に登れ」「スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」「2ペンスを鳩に」他、名曲が多い。
こういう作品は時代を超えて長く引き継がれて欲しいものだ。

そもそも芸術家というものは、どこにも依るべきではなくて、探求心と信念を貫いて作品を完成させたとき、その存在意義が(自他ともに)認められるのだと思う。グールド盤にせよ、レオンハルト盤にせよ、名盤と呼ばれるものには必ずそういう性格が伺える。父親に偉大なピアニストであるルドルフ・ゼルキンを持つピーターの場合、それは「何者にも(意地でも)依らない」ところにおいて、探求心と信念が貫かれているように思われる。

3度目の録音となる「ゴルトベルク変奏曲」は、それを最終的に完成させた記念碑となっている。父親とは違うピアニスト、グールドとは異なるアプローチ、のみならず、その音楽は、他のすべての誰かの模倣に陥ることを頑なに避けて避けて避け続けている。1965年盤ではそれが意固地な印象であったけれども、1994年盤ではそこから感情的なものが極力排除されていて(もしかすると、過去の自分をも避けているのかもしれない)、音楽はさらに高みへとたどり着いている。どこかへ向かう芸術ではない。「どこでもないところへと逃げる音楽の最高峰」とでも言いたくなるような芸術だ。変な話、こういう音は確かに他の演奏では得られない。

 

 

 

はっきり言って、この弱気でマイナス思考の「冬の旅」の歌詞は好みでない。もちろんシューベルトが勝手にやったことだけど、歌詞が音楽の評価を下げているように思う。
一言で表せば「世は不幸に満ちている」ということになる。いろんな場面でぐちぐちと独り言を言い、「俺もうダメなんです」と結論づける。確かに恋人には振られるし、体調は悪くなる一方だし、可哀想だとは思うけれども、「だからお前はダメなんだよ」とも言いたくなる。よくこんな曲が世界的に有名な曲の一つになったもんだ。逆にその音楽の力に驚き呆れるばかりである。
それはさておき、この曲ではディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの演奏が何種類か出ていて、この曲の定番とされている。安定していて聴きやすいのでこれは良い。マティアス・ゲルネが歌ってアルフレッド・ブレンデルが伴奏するライブ盤もなかなか良い。こちらはピアノのほうも聴きごたえがあってそこそこ好きだ。でも一番気に入っているのはヘルマン・プライ盤だ。フィッシャー=ディースカウに比べると柔らかで艶のある声。十分な力強さや逞しさも備えながら、どこか哀れさと言うか、弱々しさ(いや、決して弱々しいわけではないのだけれど、ほかにうまく表現することができない)をもほのかに感じさせる歌い方がこの曲にあっているのかもしれない。
現在のヴァイオリニストとしては世界最高峰の一人とも言われるヒラリー・ハーン。バッハの「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番」とシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」を聴いて、その安定した技術にはどちらもため息が出るほど感心したのだけれど、結局いずれの演奏もお気に入りなるところまでは行かなかった。
率直な感想、奏者の抑えきれない感情が溢れ出してくるあの感じがないのだ。サラ・チャンのブルッフ「ヴァイオリン協奏曲」やヤッシャ・ハイフェッツのシベリウス「ヴァイオリン協奏曲」、ギドン・クレーメルのバッハ「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番」。何かが憑依した演奏者の音楽が、音楽それ自体を超えて溢れ出してくる。音楽が崩壊するラインスレスレまで攻めているという点で、これらの演奏は共通しており、その音楽の前で、技術の正確さなどは二の次の存在に成り下がる。
ヒラリー・ハーンの演奏ではこの危うさは感じられない。半端ない技術力の前に、音楽の可能性は器から溢れず、100点の演奏にとどまってしまっている。
ただ、この半端ない技術力というのが、極めるところまで極めたというか、言葉で表せないレベルに到達しているからこそ、世界最高峰と言われるのであって、音楽がその域を出ないのはそれ故の弊害なのかもしれないけれど。
バッハへの入口は「ゴルトベルク変奏曲」ではなく「マニフィカト」だった。最初はミシェル・コルボの1回目の録音を持っていて、2枚目に選んだのがこのリヒター盤。ここで覚醒が起きた。そういう意味では、思い入れの特に強い演奏の一つということになる。
バッハの「マニフィカト」も一時期かなりの種類の演奏を聴いていて、上記のコルボ盤とジョン・エリオット・ガーディナー盤、そしてこのリヒター盤が三大名演だと思っている。その中でもこのリヒター盤は格別だ。
ミュンヘン・バッハ合唱団の爆発する喜びが体の隅々までびりびりと駆け巡る。ソリストたちの厳格に満ちた声は、演奏によっては苦手な場合も少なくないのだが、この「マニフィカト」では必然性さえ感じられるくらいふさわしい。
究極に密度の高い、凝縮された濃密で崇高な音楽で、とても30〜40分の中規模な作品とは思えない。立派な大曲だ。まあ、これはバッハがそういうふうに作ったからというのも多分にあるけれど。
バッハに一度はハマる人が多いというけれど、「この曲、この演奏から入った人も多い」と言われても全然違和感はない。