急遽、実家に戻ることになった。色々な予定や、父の休みなどが重なって、木曜日しか実家に戻るチャンスがなかったのだ。

 土曜日に太宰と会う約束をしていた私は、怖くなってすぐに太宰に知らせることができなかった。火曜日から何度も断りの文句を考えていたら木曜日の午後、太宰から体調不良を訴える連絡が入った。きっと神様は存在するのだと思う。どれだけ悪戯好きなのかは分からないけども、少しだけ安堵したことは否めなかった。そして私もずるいのだと思う。太宰は直接会えないなどは言ってこなかったものの、私は太宰の体調不良を理由に土曜日の予定を延期した。太宰より実家を選んでしまったのだ。


 太宰との予定がなくなってしまったことに、何の痛みも感じなかったことに気が付いた。むしろ、そのことで心が落ち着いてしまったことに驚いた。私は、太宰を好きではないのかもしれないと。

 太宰は延期しようという私の提案に優しいと返す。勿論、罪悪感は私を逃してはくれなかった。最も驚いたことはこの後の太宰の知らせだった。秋口に、舞台をやるかもしれないと、そしてそれが最後になるかもしれないと。私はそこでついに涙が止まらなくなってしまった。自分の感情が爆発したのは、太宰の世界がとうとう終わってしまうからというところだった。


 何度かこのブログで話したと思うが、太宰は私が初めて「演劇」というものに入れ込むようになった理由だった。今まで、物心ついた時から何気なく見ていた分野が、初めて人生の中で大きく膨らんだのが太宰の舞台だった。太宰・作演出の処女作ではカーテンコール中に「この舞台が終わってしまえば、私の世界までも終わってしまう」などと勝手に感じて涙が止まらなくなったことは今でもはっきりと記憶している。太宰と距離ができて、アメリカで何度も死にたいと自傷行為を繰り返す度に薄れゆく意識の中で思い出していたのは太宰の作品たちで、「死んでしまうのならもう一度だけでいいから太宰の作品を鑑賞したい」と何度も望んできた。それをきっかけに、私は自分の人生の選択肢を改めてアメリカの大学で舞台専攻へと変えたのだ。

太宰の世界は私にとって全てだった。


 確かに、今年の頭で太宰から表現の世界を抜け出すと聞いた時も辛く、何度も涙したのだが、「もしかしたら」という希望を捨てきれずにいた。それに、完全な終わりを見たわけでも感じたわけでもないのだから、活動が少なくあまり追えていなかった好きなアイドルが引退した時と同じように、彼の世界が消えてしまったという【実感】がなかった。

それなのに今度は、完璧な終わりを用意されてしまった。私はこの先、どう生きていき、どう感情を震わせて、何を目指していけば良いのだろう。太宰の世界がない星で生きるのは、とても怖くて寂しい。


 今住んでいる近くにはバー、ムーンウォークがある。アメリカではブルームーンのビールを何度も飲んでいた。KFCと呼ぶことに少しだけ抵抗が出てきたり、ファミチキを見かけるとあの冬の日が蘇る。四谷学院の看板も、家庭教師のトライの広告も。雨の日も、台風の日も、免許を取得した時も、車を運転している時も、夜空に月が浮かんでいるときはいつでも、太宰の作品に出てきたものたちは私の全身にタトゥーの如く刻まれいて消えてはくれない。この感情を、この世界を、これからは何処にぶつけろというのだろう。


 元彼と付き合っているときには消えてしまっていたこの文字を綴る癖も、太宰を通してしまえば溢れるように言葉が出てきてしまう。そしてそれは、私が向かう夢に1番大切で、元彼と出会うまで命のように大切にしてきたと言っても過言ではないものである。太宰の世界がなくなると、一体私はどうなってしまうのだろう。表現の世界に、足を踏み入れることはできるのだろうか。


 ああ、私はどこまでも太宰の世界が好きなのだ。決してそれは、太宰を好きなのではない。あくまでも、太宰が生み出すものたちが、いつの間にか私の人生の基盤になってしまっていたのだ。

 まだ少しだけ梅雨が続く。雨が上がった頃には、あなたの未来と私の心が、晴れてなくともせめて、曇りにはなると良いな。