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SURLYのブログ。メモ的駄文。

チャリオタが言いたい放題言ってしまう、ブログ。チャリネタは少ないかも。

『広辞苑』を見ると「資源」と「宝」は次のように説明されている。
資源:生産活動のもとになる物資・水力・労働力などの総称。
宝:①貴重な品物。大切な財物。宝物。財宝。万葉集「価なき宝といふども一坏の濁れる酒にあにまさめやも」「―の山」
②かね。金銭。財貨。「お―」
資源は生産活動に必要なもの、役立つものであり、宝の価値は引用された和歌に歌われるように主観的であるという違いがあることがわかる。宝はその人が価値を認めれば、石ころでも宝であるのに対して、資源は生産活動という目的に対する有用性が問われる。宝が主観のうちにあるのに対して、資源は目的合理性によって評価される。
ここから次のことが言える。宝が主観的な価値であるとすれば、誰にとっての価値かという、価値を認める主体が存在する。それは個人であることもあれば、集団、共同体である場合もある。従って宝には、それを価値として認めている人や集団、共同体の「思い」が込められている。逆に言えば、「思い」こそが、そのものに価値を与えている(だからこそそのものは存在し続けてきた)ともいえ、この「思い」なくしては、宝は宝足りえない。
 では「思い」とは何か。それは個人、集団や共同体が有形、無形の対象物との間に積み重ねてきた関係の物語であるといえる。つまり、「記憶の井戸を掘る」とはこの関係の物語を物語ることである。そこで、「宝探し」の方法として、「思い」を聞き出すヒアリングが不可欠な要素となる。「宝探し」の出発点は「『わたしの宝』探し」である。資源にとっては、目的に対する有効性が重要であって、「思い」は場合によっては足かせになるかもしれない。