フジファブリックの四季の曲を聞いていると、

ふと、見舞いに行った祖父のことを思い出した。


まだ見舞いから数ヶ月も経っていないというのに、そのことを忘れてしまっていた。


自分の記憶の祖父とは全く違った。

病院のベッドの上で寝ているのか気を失っているのかわからない様子だった。

とても細くなっていた。


わずかに目を開けこちらを見てくれた。

声は聞こえているようで、母の呼びかけに対して

左手をとてもかすかに握り返していた。

自分はその手を握り、できるだけ自分の生命力を渡すように力を込めた。

何年も会っていない祖父は、その年月の間で変わった自分のことを見てもわからないだろう。


ただ、確かに自分の手を握り返してくれた感触は嘘じゃない。孫だとわかって見てくれているのだと信じたい。


未だに感染症の対策として面会時間は15分とされており、自分は向かう前になんでそんな短いねんと思っていたが、そんなことなかった、それでよかった、むしろ自分が耐えることができず、面会時間のたった15分を使いきれずに逃げ帰るように病室を出てしまう。


こんなに大切なことを忘れているなんて嫌だな。

忙しなく生きていく中で、このようなことを自分の中で何度も反芻して受け入れていきたいと思うが、それもできていない。


できていないからこそ

受け入れることができていないからこそ自分の身を守るために忘れていたのかもしれない。

こうやって自分にとって大切なことは忘れていくのだろうか。必死に自分のことを考えて生きているつもりだったが、そもそもの根底が覆された気分で奥底が重い。


夏はブギウギ、心ズキズキ、歌い踊ろう。