先祖の軍歴「知りたい」…インパール作戦で戦死した先祖調査の旅

先祖の軍歴「知りたい」…インパール作戦で戦死した先祖調査の旅

大学生が、太平洋戦争の『インパール作戦』にて戦死した自らの先祖を追い、あらゆる調査を踏まえての経験をまとめたブログ。その先祖について遺された資料は、戦死通知書のみでした。私のように戦没者調査している方の力になれたらな、と思います。

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初めに、私は大学生である。
自らの所属するゼミでの活動を通して私個人で行った調査や班でのプレゼンテーションも、ある程度落ち着いた今、私が行ったアジア太平洋戦争における戦没者調査について記事にしたい。それと共に、戦没者調査に関する今の日本の杜撰な姿勢についても記していこうと思う。

私は今回の調査やプレゼンテーションを通して、
『遺骨収集、すなわち弔うことに重要性』
『戦争を記憶することの重要性』
ということを実感した。この2点を頭に入れて、記事をみていただけたら幸いである。


また、誤解しないでいただきたいのは、これからの記事はあくまでも自らの経験談であり、思想などを含めるつもりは全くない。太平洋戦争で戦死した先祖がいる方には、なおさら役に立つ記事であろう。
調査に力を貸してくれただけでなく、自らの記事を取り上げてくれた栃木県下野新聞社の方々、そして直接会ってくださった太平洋戦争における『インパール作戦(後で述べる)』の生存者である高雄市郎さんには本当に感謝でいっぱいである。興味がある方は、下野新聞社2015年9月4日朝刊の14ページを見ていただきたい。又、戦死した出居正次さんを知っている方、インパール作戦の生存者で今もご存命の方が他にも見つかることを今でも望んでいる。

「太平洋戦争で戦死した先祖・出居正次さんについて知りたい。」


私の父の実家は栃木県佐野市にある。父の実家、すなわち祖母の家に訪れる度、私はある一枚の写真が気になっていた。「なぜ軍服を着た男の人の写真が飾ってあるのだろう・・・」
出居正次(いでいしょうじ)、彼の名前である。私と同じ「出居」という苗字であった。これは遺影だったのである。関係は、大学生の私から見て曾祖父の弟・・・第三者からは遠い関係かもしれないが、私としては同じ苗字であると同時に、この栃木県の父の実家に戦死以前平凡な日常生活を過ごしていた、そして、私と同じように小さい頃から野球をしていた、ということから親近感を抱いた。元々、戦争について興味があったからだろうか、なんとしても出居正次さんがどこで戦死したのか、どのように戦死したのか、知りたくなってきたのだ。
出居正次氏(享年25)
(出居正次氏の軍服姿の写真、遺影)

私が所属する大学のゼミの、自らの班が分担するプレゼンテーションで『戦没者遺骨問題』を取り上げることになり、果たして出居正次さんの遺骨はどうなったのか、ということも気になり始める。戦後70年となる今、太平洋戦争の生存者たちは歴然と減ってきている。私の祖母も70代後半であり、祖母が亡くなってしまってからではもはや情報の出どころが絶たれてしまうのではないか。「行動をするなら、今しかない。アクションを起こさなかったら後悔するに違いない。」そう思った私は、全力でこの出居正次氏の調査に取り組むことにした。

祖母に正次さんのことを聞いてみると、重い口を開いてこう言った。
「あれは・・・今から70年も前なんだねえ。家には『戦死者通知』の紙っぺらと勲章しかないよ。」


戦死通知書と勲章

「戦死したというのに、これだけ?」私はまず思った。というよりも、私が祖母にこのことを尋ねなかったらこの戦死通知書と勲章の存在にすら気づかなかった。70年前に戦死した正次氏のことは、忘れ去られていたかもしれなかったのだ。ここで諦めずに必死に調査を続けた自分を評価してあげたい・・・調査を終えた今、そう思う。
戦死通知書をみて、
『階級が伍長であったこと』
『1944年5月28日に戦死したこと』
『インドアッサム州ライマトンにて戦死したこと』
ということが分かった。
部隊名、どのように亡くなったのか、この時は全くわからなかった。そして、ライマトンという場所もいくら検索しても出てこないため、戦死した場所がはっきりしなかった。
しかし、戦死した場所がインドであることから一つ確かなことがあった。
正次さんは太平洋戦争にて無謀な作戦で有名である『インパール作戦』で戦死した。

インパール作戦→”1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦”

上官が「20日の食糧だけで十分。すぐに終わる。」と補給を軽視したことで、この無謀な作戦は幕を切る。結果、作戦は撤退するまでの4ヵ月、つまりは約120日に及び、それ以降も日本兵は飢えや病気に苦しんだ。皆、ねずみなどの今では考えられない物を食べ飢えをしのごうとした。人肉を食べる者もいたという。なにより、死者の半分以上が飢えや病気で亡くなったのだ。
戦死者・戦病死者数には諸説があるが、動員された出居正次さんを含む9万人の日本兵の内、10~20%しか再び日本の地を踏むことはなかったという。正次さんは不運ながら、80~90%の戦死者・戦病死者に含まれてしまったのである。


「待てよ、遺影での階級は『曹長』なのに、なぜ戦死通知書では『伍長』になっているんだ?」
戦死して階級が上がるのはわかる、でも曹長から伍長に下がっているではないか。ますます、自らの先祖正次さんについて知りたくなってきたのだ。

「政府に直接、戦没者・正次さんについて問い合わせよう。」
「インドのインパール作戦についてもっと調べてみよう。」
「探そう、出居正次さんについて知っている人を。インパール作戦の生存者を!」

私のとった行動の順序は以下のとおりである。
①厚生労働省へ電話
②様々な戦争体験記を本、またはインターネットで読む(全てで数百通り)
③インターネットなどでインパール作戦について調べる
④図書館等にいって、新聞記事などで戦争体験記を読み漁り、生存者を探す

しかし、「戦没者遺骨問題」についての調査であるが故に、インパール作戦だけの戦争体験記を読んだわけではなかった。沖縄戦、硫黄島、ブーゲンビル、神風特攻隊、ガダルカナル島、ペリリュー島等・・・日本の小説だけでなく、アメリカやドイツ人の戦争体験記も拝見した。これらは「戦没者遺骨収集、すなわち弔うことの重要性」を述べる時に、とてもいい資料となった。
戦争体験記一部
調査を進めていくと、
①正次さんは歩兵214連隊第33師団に所属していたことが判明した。というのは、インパール作戦へ参加した栃木出身者はほぼ歩兵214連隊・通称弓師団に配属とのことが、調査していてわかったからだ。
正次さんの戦死した5月28日はインパール作戦の半ばであったこともわかった。というのは、インパール作戦は1944年3月~7月に実施されたからである。
③何よりも関心を抱いたのは、次の記事である。
『・・・第214連隊第一大隊長・斉藤満少佐は、5月24日夜、兵380名を率いて、ビシェンプールの北端しから敵陣へ突入。千余名の敵を倒し、360名が戦死。残った20名は28日に敵 陣突入し、全員戦死。第九中隊の47名が敵後方に挺身し、敵砲兵陣地を急襲、戦車4両、トラック6両を破壊、敵の宿舎を奇襲します。ビシェンプールのこのような大激戦は70日にわたり展開されます。・・・』
もしかしたら、28日に敵陣突入し全員戦死した中に正次さんが含まれるのではないか。この記事を見たとき、日にちが合っていることなどからも直感でそう思った。

調べれば調べるほど、奥が深くなっていく。正次さんは飢えに苦しんで亡くなったのか・・・それとも立派に戦死したのだろうか・・・。
しかし、③に関してはあくまでも「私の調査による予想」である。完璧な答えを得るには、正次さんを知っている生存者を探す他なかった。

そこで、ある生存者を取り上げた新聞記事を見つけた。このことが、インパール作戦で戦死した出居正次氏についての調査の大きな転機をもたらしたのだ。

又、上記のように厚生労働省へと電話したときに、日本の政府の戦没者対策に関する明らかにおかしな点に私は気づかされる。

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