園長先生が貸してくれた本の二冊目!
『椋鳩十の本第25巻心に炎を 読書論』より
『感激、感動。感動とは、心の奥底深く眠っている力はね、寝坊だから起こさなければならん。起こすためには刺激がいる。心の刺激は一つの感動ですな、感動とは眠っている人間の力の目をさまさせると同時に、心を新たにして劣等感などを取り去っていく。新鮮なものにする役をしてくれる。一つのことを成し遂げた人はどこかで感動をしている。では、われわれの周囲にそうした感動があるかどうか。なかなか現実には心の底から動かすような感動にめぐり合うことは難しい。ところが、われわれはそういう大きな感動を子どもと自分たちの間に持ってくるこのできるものがある。これはすぐれた本です。すぐれた本の中には、すべて感動の可能性がある。』
『村々に読書の灯を』より
『私という人間が、どのようにして、形成されていったかということを、一冊の本にまとめて、加えてみた。
書くときは、夢中であったが、書き終えて、読み返してみると、私の思考のあり方も、情緒も、行動も、若いときに、ふと手にして読んだ本の、感動の方向にむけてかたむいているのに気づいたのであった。
私は無意識の間に、感動の道しるべによって、私の道を歩いているのであった。若い日に別の感動の数々を受けていたら、私の人生は、もっとちがっていたかもしれない。
「心機一転」という言葉は、ある感動にふれて、心ががらりと変わるということである。この言葉は、昔からいわれているところをみると、受けた感動によって、多くの人々がその運命に、変化をおよぼしているのであろう。
大きな感動は、それにふれるものの一生を左右する力があるように、私には思われるのである。少年時代に、青年時代に、どのような感動の書に接する機会を持つかということを、学校でも家庭でも、もっと真剣に考えるべきだという気がするのである。』
『今の子どもたちは、椋鳩十が言ってるような「感動の道しるべ」によって自分の道を歩んでいるだろうか。学校や家庭のあり方が問われるところである。椋鳩十自身は、本との感動体験をもつことができのは、小・中学校で正木ひろし先生や佐々木八郎先生と出会えたからである、と述懐している。本と子どもをつなぐには、そこに人がいるのである。』
(↑私メモ
なるほど!高校生のときの国語の先生が面白い本の紹介をいっぱいしてくれて(三浦綾子の『塩狩峠』とか『氷点』とか。)読書のきっかけになったなぁ~!
中学生のときは『耳をすませば』の影響で、イケメンに出会うためによく県立図書館へ行ってた(笑)
出会えませんでしたが

『子どもに教えることはすべて本の中にある』
ゆーしが生まれる前、くまのがっこうのジャッキーの絵本にハマってた時期があったんだけど
ある日突然冷めちゃった。
大好きなお兄ちゃんたちがジャッキーのために買った誕生日プレゼントを喜んでたジャッキーだったけど、風邪をひいて寝込んだとき恋人?から誕生日プレゼントをもらったとき嬉しすぎて病気が吹き飛ぶという話だったかな
私はそれに何の感動も覚えず、冷めていきました

絵も可愛いんだけど、子どもに語り伝えていきたい本ではないなと思ったのでした

まだまだ私も知らない名作があるので、できるだけ質の高い絵本を手に取る勉強になる、園長先生からのありがたい一冊でした~
ゆーしが小学生になって児童書を一緒に読むのも楽しみです

大人になって、読書の好きな二番目の兄と私と母とで同じ本読んだり感想や批評しあったりするときがあります

楽しいです

そんなわけであんまり我が家では感じないんですが
活字離れがすすむ子どもたち(やっぱり多いんですか?でもノーゲームデー、ノーテレビデーをうたわないといけない時代ですよね


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