昨日、

「子育てという者はとても苦しいことの方が多い。

眠れない、自分の時間が持てない、

精神的・肉体的にも疲労が蓄積する大変な日々だ。

が、そのつらい時期を通り越したら

あの時間がどれだけ幸せだったか、ということがわかる」

 

というようなことを、読んだ。

 

これは、

(同じ分野ではないと怒られそうなのだが)

苦しい試験・部活など、

「オレはいったい何のためにこんなことをしているのだろう」と

思える日々を超えた人が

数年後(直後ではない)に

「ああ、あれは幸せだったのだ」

語る事象と、同じことのように感じる。

 

渦中の人間が、苦しい事

もう早くここから抜け出してしまいたい、という感情

それは全く持って、事実なのだ、と思う。

 

また、振り返って「あの時間は幸せだったのだ」と

感じることは

その苦しさを美化している、ということだけでは

ないのだと私は思う。

(全くないとは思わない。

思い出や苦労を美化することはあることだと思う(笑))

 

 

 

何かに心血を注ぐこと、

注がなくてはならない時期というのは

自分の中に、それだけのエネルギーを費やせる何かがあると

毎日心に刻む過程と

私は考える。

 

 

 

 

自分の子供・未来・家族・部下・チーム

 

に、

 

大切な自分の時間・知恵・エネルギーを

注ぎ込むことは、

 

自分の中に、何かを大切にしている気持ちがあると

否応なしに気づかされる。

 

「どうして自分はこんな思いをしなくてはならないのか」

「どうして自分だけこんな苦しい業務をしなくてはならないのか」

そう、問いかける日々が続くことというのは

自分の心に

「こんな思いをしてまでも守りたい何かがある」

「そんな苦しい業務をしてまで守りたい何かがある」

ということに他ならない。

 

 

そうして、その日々を後で振り返ったとき

「自分は、こんなにも、何かを大切に思える存在だったのだ」と

気づくことになるのだろうと、思う。

 

 

それは

「わたしは愛にあふれる存在です」と

口でいうよりもっとずっと

心の中に確たる証拠として

存在する、大切な導となる。

 

 

だからこそ、その記憶

大切なものに全力を懸けた記憶は

 

「しあわせ」というものに

なるのだろう。

 

 

だから、

好きな道に進んだのに

幸せになるために進んだ道だったのに

どうして、自分は、こんなに苦しいのか、と

思ったときには、

 

そういうモノなのだ、と

思っていてもよいのではないかと

思っている。

 

 

(ただ、このことを話すと、

どうしても

 

「やりがい搾取」のような論理と

相性が良いのが私は好きではない。

 

子育てというのは苦労してなんぼ、とか

リーダーというのはこれくらいできなくてはならない、とか

 

わたしは全く思わない。

 

 

むしろ、

 

「なんでこんなに苦しい業務をしなくてはならないのか」と

思ったとき

 

全力で楽をする努力をするのは

大いに賛成だし、

 

助けを求める努力を怠っては

いけないとすら私は思っている。

 

(保護者やリーダーが倒れるというのは

家庭や組織における最大の損失だからだ)

 

 

 

 

たぶん、

 

「わたしはいったい何のために」と

思わざるを得ない業務をしている人が

いっぱいいるのではないか、と

思う。

 

 

そんな人たちにだけしか

見えないなにか

ギフトのようなものがある、と

私は勝手に信じている。