バーニーが逝ってしまった。
言うまでもなく P-FUNK創設時からの主要メンバー
正真正銘の天才だった。
初めてバーニーを観たのは、1989年のBootsyの初来日ステージだった。
個人的に親しくなったのは1949年の大阪

その後も来日するたびに言葉を交わす間柄であった。
時代はインターネットの時代とかわっていった。
他のアーティストとのやり取りはメールが主体となったが
バーニーはPCを使わなかった。
世間の評価は年を追うごとにどんどん高まり
バーニーは「鍵盤の魔術師」[P-FUNKの頭脳」といわれるようになった。
数年前 バーニーのソロ作の企画が持ち上がった時
私はお手伝いをさせて頂くことになった。

この作品で私はエクゼクティブプロデューサーとしてクレジットされた。
これを期にバーニーとの仲はいっそう近くなった


この作品をレコーディングしているバーニー


結果的にこれがバーニーの最後のソロ作となってしまった。
最後の来日は2014年になった。

このときバーニーと寿司を食べたのは一生の思い出だ。
その後悲報がはいった。
なんとバーニーが肺がんを患っているというのである
しかもステージ4
絶望的なステージである。
結果 治療もむなしくバーニーは逝ってしまった。
しかし私には後悔が残っている。
日本に末期癌を治す特殊な医療機関があるのを知っていたのである
しかし治療費は高額
もし私に資力とそれを伝える語学力があったら
バーニーはもっと長生きしたかもしれないのである。
本当に辛い。
バーニーは本物の天才だった。
最後の来日時に吉岡先生にインタビューをお願いしたのであるが
伝説として語られていたことが本人の口から多数語られた
9歳で交響曲を作曲した。等である。
ホテルの側を一緒に歩いていた時
小鳥の囀りが聞こえてきた。
するとそれに反応してバーニーの右手はうごいているのである。
聞くと、すべての音が音譜になって聞こえてくるというのである。
絶対音感の持ち主ならではのことだろう。
P-FUNKの繁栄はバーニーの存在なしにはあり得なかった。
バーニーよ安らかに眠ってくれ。
言うまでもなく P-FUNK創設時からの主要メンバー
正真正銘の天才だった。
初めてバーニーを観たのは、1989年のBootsyの初来日ステージだった。
個人的に親しくなったのは1949年の大阪

その後も来日するたびに言葉を交わす間柄であった。
時代はインターネットの時代とかわっていった。
他のアーティストとのやり取りはメールが主体となったが
バーニーはPCを使わなかった。
世間の評価は年を追うごとにどんどん高まり
バーニーは「鍵盤の魔術師」[P-FUNKの頭脳」といわれるようになった。
数年前 バーニーのソロ作の企画が持ち上がった時
私はお手伝いをさせて頂くことになった。

この作品で私はエクゼクティブプロデューサーとしてクレジットされた。
これを期にバーニーとの仲はいっそう近くなった


この作品をレコーディングしているバーニー


結果的にこれがバーニーの最後のソロ作となってしまった。
最後の来日は2014年になった。

このときバーニーと寿司を食べたのは一生の思い出だ。
その後悲報がはいった。
なんとバーニーが肺がんを患っているというのである
しかもステージ4
絶望的なステージである。
結果 治療もむなしくバーニーは逝ってしまった。
しかし私には後悔が残っている。
日本に末期癌を治す特殊な医療機関があるのを知っていたのである
しかし治療費は高額
もし私に資力とそれを伝える語学力があったら
バーニーはもっと長生きしたかもしれないのである。
本当に辛い。
バーニーは本物の天才だった。
最後の来日時に吉岡先生にインタビューをお願いしたのであるが
伝説として語られていたことが本人の口から多数語られた
9歳で交響曲を作曲した。等である。
ホテルの側を一緒に歩いていた時
小鳥の囀りが聞こえてきた。
するとそれに反応してバーニーの右手はうごいているのである。
聞くと、すべての音が音譜になって聞こえてくるというのである。
絶対音感の持ち主ならではのことだろう。
P-FUNKの繁栄はバーニーの存在なしにはあり得なかった。
バーニーよ安らかに眠ってくれ。




















