ここ数日、郵便局の不配、紛失について憤りにまかせていろいろ書いたが、
少し前にはヤ○ト運輸や佐○急便の配送トラブルがテレビのニュースを賑わした。
今や、金さえ払って配達依頼すれば、黙っていても何事もなく受け取り人の所へ荷物が届くという、当たり前のことが当たり前ではなくなった。
昨今のネットショッピング事情を見れば、ひと昔前の配達量とは桁違いなのは、おおよそ想像がつく。
送料も数年前と比較すれば若干上がりはしたものの、配達員の賃金は恐らく送料の値上げには比例していないだろう。
就業内容も日給、時給で働く人も多いだろうから、同じ日給、時給で仕事量だけ増えたのであれば、不満もストレスも募るのは頷けない話しではない。
かといって人様の預かりものを無闇に棄ててしまったり、隠してしまったりでは、仕事としては放棄したに他ならないのだから、訴えられても仕方がないと思う。
"仕事"には対価となる賃金(給料)が伴うが、それ以前に"責任"が先に伴うと私は思っている。
この"責任"に対する対価が"給料"であるとも思っている。
何が言いたいかと言うと、
"形式上やるべきことさえやっとけば、カネが貰える"とばかりに、表面上だけ繕うような仕事では、すぐに綻びが出てしまうと言うこと。
最近はAIの進化や、テクノロジーの進歩で、ひとつの仕事に長けた"職人"というものも軽視されるようになった。
職人と言えば"大工さん"を私は思い浮かべてしまうのだが、大工さんは"責任"どうこう以前に、納得いく仕事ができるまで時間を忘れてまで仕事に打ち込んでいたように思う。
仕上がり云々に拘る姿勢がそうさせたのだと想像するが、
そこには"課せられた責任を全うする"という気持ちがあったのではないだろうか。
そんなことしなくても、今はテクノロジーとかAIの進歩で、いくらでも見た目だけは素晴らしいモノができる世の中だから、
それに比例するように、仕事だけに限らず人々の生活全般において"責任感"というものが希薄になってしまったのではないだろうか?
"責任ある立場"に置かれた会社の役員や政治家、あらゆる面において言えることだと思う。
何か不祥事が起きれば辞めてしまえば済んでしまう、当事者を切り捨てればオシマイ的な風潮が、あちこちでまかり通っているように感じるのは果たして私だけだろうか?
ものごとには、必ず前兆があって、起こるべくして事件は起きる。
何度も起きる事件でも、必ず似たような前兆はあるはずだから、それを教訓に未然に防ぐ対応がなぜにできないのか…
天災と違って人災は、まさに人が起こす災いなのだから、人によって防ぐことは、さほど難しいことではないと思うのだが。
これが競争社会、資本主義社会の歪みであるのならば、これからの生き方も、少し真剣に考えなければ、人が人して生きる意味自体が無くなってしまうのではないか?と思う次第である。