風丸の駄文 -11ページ目

風丸の駄文

いろいろと駄文を重ねてます。
共感、反論あるかと思いますが、ご容赦ください。




何年か前から、

自分はどう生きるべきか、

自分はどう生きたいのか、

とか、

今の自分の人間形成に至ったのは、

過去のどんな影響があったからなのか、

と、

考えてもなかなか答えの出そうにない疑問が頭の片隅にあった。

多分、この疑問を解明したところで今後の人生が突然拓けることもないだろうし、

ましてや過去に戻ってやり直しすることなどできやしないんだけど、

どうしてもいつかはそれについて深く考えたいと思っていたから、

どうせならブログに書こうと思った。


これはボク自身の内面に蟠っていた問題なので、

これを読む人にとって何らかの参考になることなど無いかも知れないけれど、

内容の一部でも汲み取ってもらえれば幸いです。



ボクは基本的に自分以外の人を信用していない。

これは、世の中の殆どの事に「絶対」ということがない、という前提からの結論。

信用するというのと頼るというのは、なんとなく似ている語調だけど微妙に違っていて、

頼るという行為は生きるうえで独りでは生きることが難しい現世において必要不可欠なことだと解釈しているから。

信用するという行為は自分と相対する人を全て信じるということで、これを言い換えると、自分の生き方をその相手に委ね切るという行為のように解釈している。


よくある場面として、例えば
「あなたを信用してお任せします」
と何かを人に依頼したとする。

その結果、当初自分が思い描いていたことと違った結果になった時に、
「信用を裏切られた、自分は信用していたのに」となるのが殆どで、

「信用して任せたのだから仕方がない」と割り切れる人でも次は気をつけようくらいには思うだろうと思う。

加えて自分と全く同じ考え、同じ経験値、同じ思考の人などいないに等しいのだから、もともと自分の思い通りに自分以外の人が動いてくれるなどと思う事自体が間違いであると。

似た考え似た方向性似たような境遇を生きてきた人はたくさんいると思うし、そんな出会いがあって意気投合することもあるだろうし、そんな経験もしてきた。

でもそれは貴重な出会いであって決して疎かにしてはいけないものだけど、意気投合した先の人生でさらに同じ道を歩むとは言えない

それは単に生きるうえの過程での接点に過ぎない。

貴重な出会いは自分を飛躍させるための何らかの作用なのかも知れないけれど、

出会いの先がずっと同調したままではなく、互いにまた違った考えを持ったり、違った人生を歩むうえでの途中経過、たまたまグッドタイミングで交差点で出会い、信号が変わったらまた別々の方向へ進むような感じで。


「期待を裏切られた」という言葉もたまに耳にするけど、

これも自分以外の人を安易に信用したからであって、

詐欺的セールストークのような
「騙されたと思って信用してください」などと相手が口にすることなどあまりないと思うから、信じろと言われて信じたのではなく、

自分が必要以上に自分以外の人を信用した結果であるのだから、そこで他人を恨むのはお門違いだとも思う。

要は自分以外の人を信用しないというのは人間関係を円滑にするうえで極力避けたほうがいいというボクの結論からなるものです。


以心伝心という言葉があって、口にださずとも気持ちが伝わり、ある程度の先読み行動ができて互いの相乗効果を満たす関係もあるとは思うし、究極、そんな人間関係が築きたい気持ちはあるけど、

全ての人が、全て違った人生を歩むうえで、思いが合致することなどあり得ないに等しいのだから、互いのために過度に信用することは望ましくない、そんな感じ。


かと言って、頼り、頼られながら人は生きるのだから、

自分以外の人に常に猜疑心を抱いていては生きづらくなるだけ。

場面場面でニュアンスの違いも出てくると思うけど、「信じる」という行為を悪戯に使うことは避けたいと思う。

その代わりと言うのは語弊があるかもだけど、仮に誰かにものを頼んで不備なく事が片付いたときは「ありがとう」の言葉と礼意でいいと思う。

本来人というのは独りで生きられないことを知っているので、誰かを頼らざるを得ない場面があることも知っていて、

併せて、頼られて、誰かを助けたことが嬉しかったりもする。

ひとりひとりが、自分でできることは極力自分でする、そのうえでどうにもならない時は頼る。くらいでちょうどいいのではないか。

「絶対」なんて、「完璧」なんて、人間には
できないと思う。

考えも時々で変わるし、取り巻く環境も時々で変わる。

そんな時代だから、先ずは自分を信じてみて行動してみるほうが覿面で生きやすいような気がしてる。