(御祭神)

倉稲魂大神

大宮姫大神

猿田彦大神

 

(由来)
嵯峨天皇の弘仁2年(811年)に、弘法大師(空海)が弘誓寺を創建するにあたり、京都伏見稲荷大社より分霊したことにより由来するとされ、日本三大稲荷のひとつとされる岩沼市の竹駒神社の姉神様としても崇敬されている由緒ある神社です。奥州街道沿い館の腰といわれる山の麓に近い所に鎮座することから社名が館腰神社と呼ばれるようになりました。
明治2年に弘誓寺と分離し、明治7年に県社に列せられました。
明治41、42年にわたり熊野神社、鹿島神社、八坂神社、雷神社、八幡神社、起返神社の各社を合祀して、1村1社となりました。
また明治22年に植松、飯野坂、堀内、本郷の4ヵ村が合併した際に神社の名称をとって村名を館腰村としました。
御祭神は倉稲魂大神、大宮姫大神、猿田彦大神の3柱です。
配祀は大雷神、須佐之男命、武甕槌神、御食野神、伊邪那美神、誉田別尊、羽山津見命、熊野櫛御気野命、中井新三郎命、稲田姫命、天照大御神の11柱です。

神社公式HPより

 

(関係する著名人)

弘法大師(空海)

 

(御祭神)

倉稲魂神
保食神
稚産霊神

 

(由緒)

承和9年(842年)6月に小野篁が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝える。後冷泉天皇の治世(1045年 - 1068年)に陸奥国を歴遊中の能因が、竹駒神社の神が竹馬に乗った童の姿で示現したとして、当社に隣接した寶窟山に庵を結び、これが後に別当寺の竹駒寺となり山号の由来となった。戦国時代には衰微していた当社に伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展した。文化4年(1807年)には正一位の神階を受けた。

もともと岩沼の地には武隈館(または陸奥館、後の鵜ヶ崎城)と呼ばれる館があり、藤原元良、源満仲、橘道貞、橘孝義といった歴代の陸奥守が住んでいた事が「奥儀抄」や「袖中抄」に書かれており(「竹駒神社縁起記」)[2]、小野篁がこの地に創建した関連が見てとれる。

明治政府の神仏分離により、明治2年(1869年)、竹駒寺は少し離れた現在地に移転し、真言宗智山派となった。この際、国家神道の流れの中で、明神思想に基づく、武隈明神が否定され、これ以降、稲荷神が主祭神とされた。明治7年(1874年)、竹駒神社は県社に列格した。

かつての社殿は、1710年に仙台藩の5代藩主伊達吉村によって造営されたもの[3]で、市の文化財に指定された[4]が、平成2年(1990年)11月21日未明、革労協の放火により焼失し[5][6]、平成6年(1994年)に再建された。

「竹駒」という社名は、現岩沼市域の旧称「武隈」の転訛であり、もともとは、市内を流れる阿武隈川に由来する。

wikiより

 

(関係する著名人)

小野篁

 

(公式HP)

https://takekomajinja.jp/

 

 

 

 

(由緒)

人皇30代敏達天皇の元年(571年)日本武尊を祭神として創建されました。 その後、推古天皇のお守り、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君) を合祀しております。

縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せて見ることによって日本武尊が 蝦夷征伐の時にこの地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神 として日本武尊を奉祭したと言われています。

場所も新開の台の山までありましたが、元禄初期の火災焼失により、新開126 番地に移し、その後大正3年に金ヶ瀬神山に移築遷座されて現在に至っております。

(公式HPより)