人は
立った一歩を跨ぐために
何年もかけて旅をしているのじゃないかと
たびたび思う
真実が知りたくて
何が解らないのかを知りたくて
いろんな経験をするけれど
みんなが当たり前に「だよね」「当然!」と思っていることが
立場が違うとわからないのだ
解る日が来るまで、そこでくるくる回り続けているのだ。
もしかしたら解る必要もないことなのかもしれないけれど…
時々、ふとした拍子に昔のあの言葉がよみがえる
「一生懸命私のためにして欲しいなんて、言った覚えない」
それは、娘の言葉だった。
「私が一生懸命あなたのためにしているのに、私のことをなぜわかってくれないのか?」
と私が放った言葉の答えだった。
今の私だったら、
喜びのないところに本当の果実はならないということだ、とわかる
自分が喜べないところに、ともに喜びはない。
自分が喜ぶところに、ともに喜びがある。
こんなとても単純な言葉に出会うために
何十年もかかった
そこに行き来しあう「愛」がなければ
共鳴しないのだ。
簡単そうだけれど、いまだそのコツがつかめない自分がいる
自分の深い深いところとつながって真の喜びがあり、他者へとつながる
私はどうだろう?
「自分自分」と、自分にとらわれている自分がいる
仕事場で心を込めて、無心になって、といっても
どこかズレている自分がいる
人を愛するといっても
憧れや、優れた人に対する畏れ、そして自分なんかという思いで
素直に愛するとはいかない
家族に対しても
どこか遠慮し、拒否されたらどうしようか、
期待通りにしくれなかったらがっかりしてしまう恐怖にかられる
根深い劣等感にさいなまれて
素直に、自分が好きとも誰が好きとも言えない自分がいる
ただただ、手をこまねいている。
さあ、神様だったら
そんな目の前の子どもにどんな扱いをしてくださるのだろうか?
目の前で困っている私をどこへ招いてくださるのか?
今は神のなさりようを信じるしかない。