一年の締めくくりの日
今年もまたおせちを作っている
スーパーで家族でおせちを選んでいる姿を見て
いたたまれなくなり
帰ってきてしまったけれど
やっぱりおせちを作らないといられない
長年の習慣とは怖いもので
21から約30年毎年作り続けてきた
2日間ずっと台所に立ち続け
いろんな思いが駆け巡る
あれほど一生懸命作って生きたのはなぜ?
最後の2,3年はあまり食べないから作らなくていいと言われたっけ。
誰も食べたくないものを
意地になって作っていたんだな。
あっちの両親、こっちの両親、、
もういらないといわれても
「そんなわけにはいかなでしょ、」と
2日、3日かけてつくった
二段重を去年より豪勢に見栄えよく、って作っていた
なんでか?
それはね、「自分」ってのを
誇示したかったんだ
お世辞でも、「すごいね、おいしいね、
これどうにして作ったの?」って
社交辞令でもいいから言われたかったんだ
それだけ、「認めてもらいたかった」んだ
みんなは買ってきた美味しいものを食べたかったのかもしれない。
ともすると忘れ去られてしまいそうな
自分の存在をどこかで表していたかったのかもしれない。
いじましい私
何も取り柄がないと思い込んでいたけれど
何も自慢することがなかったけれど
「根性だけはありますよ」って
みんなに言いたかったのかもね。
そのままの私では愛される価値はないと
思っていたのかな
私自身が「そのままの自分で最高!」と思っていたら
こんないじましく、痛い自分でいることはなかったのにね
「take it easy!」ってあの頃の私に言ってあげたい。
さて、今年の私はどんな気持ちで作っている?
やっぱり自分の存在を表そうとして作っているみたい。
これほどに劣等感は引き抜きづらく
付きまとうものなのか…
あきれながらも
「いじましい私」を発見しただけでも
今年のおせちは「一味違う」っておもっている
いつか、自分が食べたいからって
自分のために夢中になれるよう
「誰かのために」を卒業して
一心に「それ」に打ち込めるように
本当の楽しさを味わうって
そういうものじゃないかって思う。