「あなたはわかっていないのよ真理が」

「神は愛なのよ」

「わかっていれば寂しいなんて感じないはずよ」

 

親しかった友人から

浴びせられた言葉に

 

今回は逆上した

 

「寂しいって言って何が悪いの?」

「一人で住んでいて誰とも話せずに一日終わるって、寂しいって普通じゃない!」

 

いつも流せていた彼女の言葉が今日は無性に腹立たしかった

 

「あなたには毎日あなたを慕って帰ってくるひとがいるでしょ」

 

「私は人と人の触れ合いの中で自分で位置を感じるの」

「いろんな困難があってその中で自分の意思を強く意識できるの!」

「だから、人との触れ合いが大切なの!」

 

だからって

人に依存して生きているのではない

人に楽しませてもらいたいと思っているのではない

 

私は「ともに生きる」ことを体験したいと生まれてきたのだ、と思う

 

それはゆるぎない思いだった

 

共に同じ方向を向いて

自分が全体のある部分となり

時には大きな意志と一体となり

自分の行為と全体の行為が一つの生き物のようになって

世の中に喜びを与える

 

それが仕事だと思うし

それが仕事の喜びだとおもう

 

何かの困難にあっても

共にそれぞれの部分を果たしながら協力して超えていくことが

 

絆や共に働く喜びなんじゃないかと思う

 

それは家族でも…

 

人と共有できない状態が「寂しい」と感じることが

 

何が悪いのかわからない

 

人が一人だけで成長できるほど簡単ではない

 

時には共にいるから苦しみ面倒と思うこともある

 

そこから、学べるんじゃないか?

 

 

 

彼女の言葉はあまりにも「真理」が遠くて理解できなかった

 

恵まれていることに深く感謝すれば

何にも不満や寂しさは起こらないといって説かれる

 

神様は、こんな”わからずや”の気持ちさえも

そこが解らないだよねと憐れんでくれるのじゃないか。

 

人間だもの

 

そんなにわかりが良ければ生きている意味もない。

 

 

一つ言えるならば、

 

もっとも一緒にいたい人に「寂しい」といえる勇気を持てれば…

 

包み隠さず、正直に、「だから一緒にいてほしい」といえたなら

 

人間らしくいきるって

真理とか、わかるとか、理解できるとかではなくて 

そういうことじゃないかな。