人生いくつもの出会いがあり

消えていく関係がある

 

寄せてはひき

ひいては寄せる波のように

 

交互にやってくるもの

 

いろんな出来事にも出会った

 

そう、バウビオロギー、建築生命学。

 

息子の先天性の病気

 

シックハウス

 

そして、化学物質過敏症

 

家族が環境汚染の波に翻弄され

資本主義の我欲にまみれた消費社会に揉まれ

 

自らの身体を痛めながら経済が発展し

自らの環境を崩しながら社会資本が潤っていく

 

しかし、みな自殺行為と知りながら

そのしっぺ返しを先送りして

都合の悪いことを見ないことにして眼の前の利益を得ようとする

 

こんなこと、続くわけが無い

なんとかしなくては、ならない。

 

心が、どうしてもじっとしていられなくなった。

 

長女が中学、長男4年、次男2年のは春

奇遇にもあの東北の大震災の起こった春、

私は建築系の夜間大学に入学した。

 

この広い世界にたった一人

37歳の女に何ができるのかわからない

微々たる一人の存在が

この世界に何が真実か

その欠片でも見つけたいと願い

歩み始めた道だった

 

しかし、母として

子どもの病気を機に

多くの病気の人々を目撃し

自らも化学物質過敏症と言う奇病を負い

死の淵で向こう側にまで落ちかかった経験から

 

人は細胞レベルで考え

ものはそれを扱う人の想いを運び

人にその影響を良くも悪くも及ぼす

 

人は恐怖を感じると

そこまでも鋭敏なセンサーを作動させ

出口のない深いところまで迷い込んでしまう

 

さて、この解決する方法は?

 

批判、非難からでは何も生まれない

 

何がより良い方向か?

何が心地よいものか?

どんな心のベクトルを向けるのか?

 

実に固定的な正解のない世界を

 

探し求め、建築という旅に出た。

 

この世に絶対的正しいものはない。

 

でも一瞬一瞬

その時に応じて

より正しい方向へ

心のベクトルを向けることで

 

少しずつ一歩づつ近づいていく

 

気の遠くなるような作業だ

 

そんな中大学へ導かれ

建築生物学にであった。

 

工学の無機的な響きではなく

生命のための環境として

家を考察する学問であり実践するものであった

 

自然に謙虚に

人に生命により良く

自然法則に従い

自然の摂理に沿いながら

より良い解を導いていく

 

私にとって潤いの学問であった

 

社会経済の荒波の間に

自分らしく麗しく咲く花のように

芳しく貴重な存在だった。

 

そこから、何年も何年も経って再び出会うとは知らずに

一度であって大きな苦しみを経て

また出会うとも知らずに。

 

その時はただ、ただ、ひたすら苦しみと喜びの交差のなか

駆け続けていたのだった。