生命は

土の中に植えられた球根のように

真っ暗な土の中でも

光の方向を向いて

芽を出し、伸び続ける

 

我々の生命も同じなのではなかろうか?

自我が自分の位置を見失っても

本心は光の方向を指して伸びようとしている

 

長男が小学3年

クラス担任のM先生の指導を仰ぐまで

彼の自我は器質的な障害で方向を見失っていた

しかし、

「本人の生きる力」と

家庭の一瞬の最大瞬間風速といっていい「尾瀬の経験」と

先生の「生命を理解しようとする姿勢」が一致して

 

彼本来の自己と、表面に現れてくる彼の姿と気持ちが一致して、

彼の『オカマ』は開いたのだと思う。

 

それは奇跡と言ってもいい事実だった。

 

はっきりとした自己を捉えた瞬間であり

自己と他者を初めて識別し、

他者の存在、有り様に気が付いたに違いない。

 

彼の目が見開いた瞬間だった。

 

それとともに「わたし」の役割も一つ終わりに近づいていることを

感じていた。

 

もう、『心配』していなくていい。

 

あなたは「誰かの心配をすることで保たれていた」。

それに、依存して「自己存在の意義」を保っていたのだが、

もう、自分を見つけて、捉えなくてはいけないよ、と

心の何処かでいつも声がしていた。

 

 

漠然として不安に感じていた言葉が急に現実味を帯びてきた。

 

カランとした家の中で

ただひたすら

忙しくなるように用事をつくっては

心のスキマを埋めていた

 

そう、外からでは埋めようがない心の穴。

自分の内から、自分の声と本心の声と、

長い間なおざりにされていた自分のための行動を

開始しなくてはならなかったのだ

 

土の中の球根は

まだ少し先の春を感じ、

根を出し、芽を出す準備を始めたのだ

 

外側からは何も変わらないかもしれないけれど

心の内部では大きな地殻変動が起っていた。

苦しい、けれど、それが「生命の息吹」の鼓動だったのかもしれない。