アセンションが起こるための大前提として、これまで3次元世界を支えて来た価値観・あり方が崩壊して取り除かれる必要があります。

 

それは、必ずしも崩壊と言う過程を経なければならない訳ではないのですが、私達の辿るタイムラインにおいてはより多くの人々が「既得権益」を守るために、その古いあり方に固執しています。

 

 

これまでの金融システムと言うのは「お金」と「利息」を中心として成り立って来ました。これは、お金のない人々のもとからお金が有り余っている人々のもとへと富が吸い上げられて行く「搾取システム」です。

 

私達は、住宅ローン等の直接的な借り入れによって家をもう一軒買えるほどの利息を搾取されていますが、企業が負担している利息まで商品やサービス価格に含めて間接的に搾取されているのです。

 

しかし、それでも人々は今の金融システムが維持されて行く事を願っています。自分の僅かばかりの貯金が、紙くずになってしまう事を恐れているからです。

 

経済システムについても同じことが言えます。そこに張り巡らされた資本主義と言うシステムは、遊んで暮らせるだけの富を持たない人々が、ありあまるお金を持つ富裕者たちの為に企業利益を目指し、それを配当金として搾取されて行く仕組みです。

 

これも多くの人々は維持されて行く事を望んでいます。職を失い生活に困窮する事を恐れているからです。

 

ただ、良かれ悪かれこれらの社会システムやそれに沿った人々の価値観・あり方と言うのは、今後数年で崩壊し洗い流されることになっています。なぜなら、この世界は既にアセンションの最終段階にあるからです。

 

そのため、私達はよりスムーズにその混乱期を乗り越えて行くために、それに対して備える必要があるのですが、実際にはそれは「備え」と言うよりも「移行」として進めるべきものになります。

 

今から崩壊するのは「3次元的な性質を持つもの」になります。つまり、社会や人々のあり方の全てが崩壊する訳ではありません。4次元的な価値観・あり方は、それとは対照的にここから加速的に広がって行く事になるのです。

 

そのため、私達が「崩壊への備えとして意識する事」は、崩壊して洗い流される3次元的な価値観・あり方から離れて、ワクワクと調和的な4次元的価値観・あり方の中へと「移行」を進める事です。

 

既に4次元の波動で生きている人達ほど、今からの混乱にも動揺することなく前向きにそれを乗り越えて行く事が出来ます。そして、3次元の波動に留まっている人達ほど、価値観や生活の基盤が崩壊し、人生が立ちいかなくなってしまうのです。

 

これまでにも例として何度も書いて来ている事ですが、飽くまでも1つの例としてもう一度書けば、金融経済が破綻して社会機能が麻痺し、壊滅的な社会崩壊が起こったとしても、田舎で自然と調和的に自給自足の生活をし、近所の人達とも支え合う事が出来ていれば大きな問題は無いという事です。

 

それどころか、それを切っ掛けとしてますます隣近所との繋がりを深め、自然の恵みに対する感謝もより大きく感じて行く事になるでしょう。

 

これは分かりやすい典型的な例としての話ですが、そこまでではなくても、ワクワクと楽しめるものを育てて来た人達はその特技が支え合うコミュニティの中で大きな役割を得る事になるかも知れません。

 

「備える」と言う意識は、食料・日用品などの「物」を備えると言う意識に向かいやすいのですが、それには限界があります。そして、それだけでは崩壊に飲み込まれるタイミングが少し先延ばしになるだけです。

 

そうした備えにも衝撃を和らげると言う重要な意味があるのですが、あくまでもそれは「生活破綻を先延ばす」為のものではなく、自分の現実を「4次元世界へ軟着陸させる」為のものでなければなりません。

 

皆さんの日常は、どこまで4次元領域への移行が進んでいますか?

より良い人生って、どんな人生だと思いますか?最近はより具体的にそれについて考えているのですが、その答えは人それぞれであろうと思っています。

 

例えば、「幸せな人生」「魂として成長出来る人生」等の様に抽象的な表現においては、人々に共通した「より良い」があるのだろうとは思います。

 

 

しかし、「幸せとは何か?」「何が魂の学びとなるのか?」と言う様に、それをより具体的に明確にしようとすれば、そこには人それぞれに固有の形が表れて来ると思うのです。

 

私は16年ほど前からエネルギー感覚が表れ始めて、これまで一貫してエネルギー感覚の拡大と密度上昇の過程を辿って来ました。

 

そして、先月くらいからはいよいよエネルギー体としての、より全体的な感覚にまで意識が届き始めている様な感じがあります。それは、エネルギー体としての自分が、この物質的な仮想現実・人間と言う経験の中に繋がっていると感じるものです。

 

つまり、エネルギー感覚が肉体を包み込む所にまで拡大して来た事によって、肉体を基準にエネルギー感覚を探求するよりも、エネルギー体を基準にしてそれを自分として感覚の探求を進めた方が、全体の変化を把握しやすくなって来ているのです。

 

そうした変化の探求を日々のライフワークとしていると、スピリチュアル的な世界観として伝えている「この世界は魂が見ている明晰夢・仮想現実」と言うのは、例えではなく単純にそのままの現実として感じられます。

 

その時、この現実に繋がっている貴重な経験の中で、「自分は何をしたいのだろうか?」と思うのです。

 

肉体的な自分をアバターとして、それを包み込むエネルギーを自分として感じる時、アバターと繋がっているこの貴重な経験の中で何をする事が自分の幸せになるのだろうかと。

 

私は2014年頃までは、破綻した夫婦関係に囚われ、生きる(お金)の為の仕事に囚われた生活を送っていました。

 

そこから離婚し、フリーランスとしての転職もしました。

 

今では、子供たちも就職して手が離れました。

 

フリーランスとしての仕事もとにかく増やさない様にと心がけながら、ここ数年は更に仕事量を減らし続け、今年度で完全に全ての仕事を手離すつもりでいます。

 

つまり、生活に困らない程度のお金と時間と健康をそろって手に入れられている訳なのですが、「自分が何をしたいのか?」がイマイチ明確になっていなかったのです。その様な訳で、ここ最近になってそれについて考える時間が、必然的に増えているのだと言う事です。

 

ただ、それって抽象的には何か特別な感じを出して色々と表現する事が出来るのですが、それを具体的にする事ってなかなか難しいんですよね。

 

そうした中で私がおそらく向かって行くであろう方向性は、「自然の中でそこに調和する事によって、この世界に生きている事をよりリアルに感じたい」と言った感じです。

 

今は、田舎の団地内にある自宅の庭に果樹や野菜を自生させ、勝手に生えて来た草花に囲まれて、そうした人生の雛型となる日常を試している感じです。

 

田舎の団地とは言え、駐車場等にコンクリートを貼らずレンガを敷いたり、除草剤を使わずに雑草管理をするとなると、以前は草取りもしてるにも関わらず直ぐに雑草だらけになっていました。

 

しかし、今ではコツを抑えて、無理なく余裕をもって雑草管理が出来ています。

 

こうして理想の雛型となる日常に慣れて来た事もあって、もっと直接的に自然の中に入ってもう少し広めの土地でそれを実践したくなって来ています。

 

そして、どうしたら無理なく理想とする生活が出来るかを考えながら不動産物件を探したりしているのですが、これがなかなか難しいんですね。

 

周囲の民家からはある程度離れていたいし、土地もある程度の広さが欲しい。しかし、民家から離れ主要道路沿いからも離れて自然の中に入ると、どうしても草刈りの負担が大きくなりやすいんですね。

 

また、完全な移住ではなく二拠点生活でどうかと考えていたのですが、そうするとどうしても金銭的な負担増は避けられません。そして、草刈りや家の換気など、他にも余程の好条件が揃わないと難しそうです。なにせ一人なので、すべて一人でやらなければいけない訳です。

 

そして、自然の中という事で探すとどうしても山奥の物件が多くなるのですが、すると獣害の問題が小さくないんですね。あと、冬タイヤは必要のない地域がいいなとか。出来れば川の近くがいいなとか。言い出したら切りがありません。(笑)

 

そんな訳で、不動産は何度も気軽に買い換えられるものでもないですので色々と考えているところです。

 

ただ、自分の理想とする生活をイメージしながらその土台となる不動産を探し、庭ではリアルタイムでそのひな型を育て楽しんでいると言うのは、それはそれで楽しいものです。物足りなくもありますが。

 

基本的に、ここからのアセンション最終段階は社会的にかなり荒れ、状況も大きく変化してくるものと思っています。そのため、特にそれを急ぐつもりはなく、しばらくはこんな状況の中で混乱期を乗り越えて行くのかなぁとも漠然とは思っています。まぁ、波動の引き寄せを信じて縁任せ運任せで、自分はただマイペースで一歩一歩を重ねて行くのみです。

 

まぁ、何にしても、楽しく有意義な人生を送りたいものですよね。ただ何となくそう思うだけではなく、真剣にそれを考えて人生をかけてそれに取り組むことによって。

今朝、何となく思い立って車で30分ほどの所にある、橋で渡る事の出来る小島に朝日を浴びに行ってきました。

 

本当は日の出を見に行ったのですが、寒い中で日の出を待つのは嫌だったのでちょうど日の出の時間を狙った結果、少し遅れてしまいました。しかし、それはそれとしても、綺麗で暖かな朝日を浴びて来る事が出来ました。

 

 

最近は寒くなって来た事もあり、起床の時間が8時~9時くらいと遅くなっています。そうでなくても、日の出を見る様な経験はもう随分と昔の事であった様に感じられます。

 

家を出た頃には既に東の空が綺麗に色づいて来ていて、そのグラデーションにちょっとした感動を覚えました。日常的にこんな素敵な時間が流れているのに、自分はいつもこうした景色を見逃しているんだなと思うと、ちょっともったいないような気もして来ます。

 

朝日を浴びながら島への橋を渡り、島の神社にお参りしてからそのまま島を縦断する形で反対側迄通り抜けます。さっさと歩けば2~3分程で縦断できる小さな島です。

 

空にはトビ・カラスが飛んでおり、鵜も群れで上空を横切って行き、海上にはカモメたちが波に揺られて浮かんでいます。他にも名を知らぬ鳥たちが数種類見かけられ、木々の中からは様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。

 

早朝と言う事で、島の入口まで橋をウォーキングで往復するお年寄りの方たちがチョイチョイといるのですが、島の中まで入って来る人は少なく、それを突っ切って道の悪い島の東側に歩いて来る人は殆どいません。

 

そこには風もなく、朝日を一面に浴びた10メートル程の小さな砂浜があり、そこで1時間ほど静かな時間を過ごしてきました。

 

始めはそこに寄せるさざ波を見ていたのですが、その波が生み出す光の模様が水面下の砂上に光の網目模様を生み出しており、頭上の波を追いかけ、あるいは先導するように砂の上を走っていました。

 

こうした場面にはこれまでも出会ったことがあったと思うのですが、いつも焦点は波の方に合わさっており、水面下に映し出された光の網に焦点を合わせて見たことは無かったように思います。

 

同じ風景を見ていても、どこに焦点を合わせるかで見え方がまるで違ってくるんですね。

 

1時間くらいそうして自然の中にいたら、暖かな日差しが暑い日差しに切り替わりました。明らかに日差しの質が切り替わったのです。「朝日」を浴びる事が健康にとても良いのだと言われる事がありますが、この柔らかな温かさを持つ、日の出から1~2時間の朝日が良いのでしょうね。

 

帰りに橋を渡る前にそのたもとを覗いて見たら、ものすごい数の魚の群れが押し合いへし合いしていました。15cm程度の大きさで種類は分からなかったのですが、その中で藻掻いた魚がその押し合う群れの上に押し出されて横になってしまう程の密集ぶりでした。

 

少なく見積もっても数万匹規模と見られ、釣りで使う様なタモを入れればひと掬いで100匹くらいは取れてしまいそうな程でした。

 

鳥たちは、これも食料としているのでしょうね。実際にトビが水面に触れて魚たちをからかっているような様子が見られました。取る気になれば取れると思うのですが、取ることはせず、再チャレンジしようと言う様子も見られませんでした。

 

そう言えば、小学校の低学年の頃に港の近くの小学校に通っていたのですが、体育の時間に運動場にいた時に、空で鳥たちが魚を奪い合う空中戦を繰り広げていたのですが、最終的にその大きなボラが運動場に降って来た事がありました。

 

いつもなら布団の中で過ごす朝の時間に、ちょっと足を延ばしただけで今日は色々な経験をする事が出来ました。

 

結局、人生を豊かにするという事は、こう言う事の繰り返し・積み重ねなのかも知れませんね。

 

人は「時間とお金と健康」があれば幸せになれると思う傾向にあります。

 

そして、「お金」の為に一生を仕事につぎ込み、退職まで「時間」はお預け状態。やっと「時間」が手に入ったかと思ったら、急速に失われて行く「健康」。健康寿命が延びれば仕事の定年も延びて、結局は「時間」が遠ざかって行く。「お金」も足るを知らずに、ただただ溜め込み増やす事だけが正義と感じて、より良く使う事を知らない。

 

運よく「時間・お金・健康」がそろったらそろったで、今度は「暇」になってしまい、どこから「幸せ」がやって来るのか分からない状態。

 

現代人の人生って、そんな傾向を色濃く持っているのかも知れません。

 

だから、スピリチュアル的な成長によって「幸せ」について考え、それを人生の中に実現して行く事を心がけて行く意識がとても大切なのかも知れませんね。

アセンションと言う大きな時代の転換点で、目の前で崩れ行く(3次元的な)社会システムや人々の価値観を見ていると、本当に自分はアセンション出来るのだろうかと心配になって来る事があるかも知れません。

 

自然が破壊されて一面に敷き詰められて行くソーラーパネル。

海外から大量に流れ込んでくる移民の波。

未だに正される事なく続いて行くワクチンやマスクによる感染症対策。

マネーゲームの暴走によって博打場と化した世界の金融市場。

世界の富の大半をごく少数の人々が独占し、我がもの顔で世界を振り回している現実。

 

 

そんなこんなを見ていると、この大きな流れの中で自分には何もできないと言う無力さを感じるかも知れません。

 

しかし、スピリチュアル的に言えば、そうした憂いはまったくの見当違いであるのだと言わざるを得ません。

 

ハッキリ言って、「世界・社会で何が起きているかなんて、まったく重要ではない」のです。

 

大切なのは始めから終わりまで、「自分がどうあるか?」と言う事でしかありません。

 

世界・社会情勢と言うのは、魂として見ているこの夢・仮想現実の背景でしかないのです。その背景とは、自分自身の波動(あり方)が、世界・社会情勢と言う形に置き換わって映し出されているだけなのです。

 

私達はこの人生と言うゲームを3次元波動の真っただ中からスタートさせています。そのため、その古い価値観・社会システムが崩壊へと向かって行く事は、アセンションするタイムラインを進んでいても、しないタイムラインを進んでいても同じことです。

 

今回の人生においては、どの道を進んでもほとんどがその崩壊を味わう事になっています。そのため、このハラハラドキドキの危うい状況はまったく問題ではありません。

 

問題なのは先ほども書いたように「自分自身のあり方(波動)」であるという事に尽きます。

 

自分の波動が4次元の水準にまで達していれば、この夢の背景はアセンションを経て4次元世界へと繋がって行く事になります。

 

しかし、自分の波動が3次元の水準に留まっていれば、今回はそのまま崩壊する価値観・社会の中で学びを続けて行く事になります。

 

社会が悪いとか、世界が悪いとか、他人が悪いとか、だから自分はアセンション出来ないかもしれないと言うのは、結局のところ全てが幻想なのです。

 

それらがどの様な現実を辿って行こうとも、結局それらが辿り着くのは、「自分自身の波動」に応じた次元世界になります。

 

なぜなら、それら全ては魂としてのあなたが見ている、極めて個人的な夢であるからです。したがって、その夢が辿り着く先は、あなたの波動に共鳴した次元世界である事は当たり前です。(極めて個人的とは言え、他の魂たちの夢と繋がったり離れたりしながらの共同創造によって成り立っています。そして、ここからは波動の似た者同士に分かれて、アセンションするタイムラインとしないタイムラインとが別々に共同創造されて行きます。)

 

つまり、自分の波動さえ4次元水準を保てていれば、目の前の世界・社会がどのように転んで行こうとも、そのスリルをワクワクと楽しく味わって行けば良いだけなのです。なぜなら、どうせ行き先は決まっているからです。それは、自分の波動と同じ4次元世界になります。

 

逆に自分の波動が3次元領域に留まっているのであれば、何がどうなった所で、結局行き着く先は3次元世界でしかありません。

 

全ては自分のあり方(波動)によって決まっているのです。

 

世界や社会のあり方を憂いている暇があるのなら、もっと自分のあり方・人生を「ワクワクと調和的でポジティブな日常」に切り換えて行くべきです。

 

そうして自らの波動(あり方)を4次元領域へと押し上げる事でのみ、各自は自らのアセンションを達成させることが出来るのです。幻想に囚われていると、アセンションはとても複雑な様に感じられるかも知れませんが、その本質はこの様に極めて単純明快な仕組みになっています。

寒くなって来ましたね~。この寒さと共に、庭の甘夏とレモンが色づいて来ました。この甘夏とレモンの明るい色にはとても大きな役割があって、これから寒々しい冬の間、庭を明るく電飾の様に照らしてくれるのです。

 

はじめの頃はそんな事を意識してはいなかったのですが、冬の最中にこの実を収穫してしまうと、庭が急に寒々しくなり体感温度がグッと下がる事になってしまいます。

 

 

それらの横では、我が家で一番大きな見上げるばかりのビワの木が立っています。今のビワの木は、花が終わってそれが枯れたような状態になっており、新しい枝がそこかしこからツクツクと伸びて来ている状態です。

 

これから冬の間に、やがて実となる花後を残しながら枝全体を選定してやる必要があります。ビワの木は成長に勢いがあるだけに、この剪定作業がとても重要です。ただ、これだけしてやれば、あとは季節の移り変わりを感じながら収穫して食べるだけです。

 

それらの木々の下には、日当たりの良い場所にニラ、日陰となる場所に明日葉とミョウガが生えています。

 

それらには水や肥料をやる事もなく、落ちた種から次の世代が育ち始めており、上手く自生してくれている様です。今年の明日葉は、種が落ちて芽が出て来た年であった為に収穫する事は出来ませんでしたが、来年からは良いペースで収穫する事が出来そうです。

 

ニラも収穫・調理する習慣が生活に馴染んで来たので、来年も楽しみです。

 

ミョウガは今年の春に植えたのですが、秋には少し収穫する事が出来ました。ミョウガなんて使い道が無いかなと思っていたのですが、味噌汁に入れたり思いのほか役に立っています。

 

ミョウガって普通は蕾を収穫するのですが、春には芽を収穫して食べる事も出来るんですね。

 

それから秋に収穫の終わった柿の木は、その葉を落として今は寒々しい冬モードです。でも、それによって日当たりが良くなっており、上手く出来ているもんだなぁと感心します。

 

あとはミカンの木があるのですが、おそらく土がやせている場所に植えたせいか?ほとんど実がつかないんですね。ビワの木の下にある枯草山の下の腐葉土を混ぜ込んだ方が良いのかも。

 

今年は1つもミカンがつかなかったと思っていたのですが、その実が色づく季節になって、1つの実がついている事に気づきました。これまで葉っぱと同じ緑色であったために気付かなかったようです。

 

その隣にはオリーブの木があるのですが、これもさっぱり実がつかなくなってしまいました。ただ、ここは団地内であるために、居間の窓の前でいい感じの目隠しとして役立ってくれています。

 

いつも居る居間からスッと視線を庭に向けると、それらがギュッとまとまって山の中にいる様な雰囲気があります。月日の経過とともに、庭も良い感じに育ってきたなぁと満足しています。

 

スピリチュアル的な視点や自分の好きな時間の過ごし方と言う意味からも、もっと自然の中に出かけて行った方がいいなぁと思う時期があったのですが、よくよく考えてみればいつも居るここ(庭)が結構自然の中なんだよなぁと気付いた今日この頃です。

「目の前の世界がどこにあるのか?」を、考えたことがありますか?

 

目の前の世界とは主に視覚によって捉えられている訳ですが、その世界は目の前の絶対的な物理空間の中に実在しているのだと思われがちです。しかし、本当にそうでしょうか?

 

 

例えば、その世界は視覚を通じて色によって捉えられている訳ですが、そこに真に存在しているのは「色」ではなく「様々な波長のエネルギー」であり、それらをひとまとめにして可視光線と表現する事が出来ます。

 

赤色と言うのは実在ではありません、そこに実在するのは640~770nmの波長によって存在する可視光線(エネルギー)なのです。

 

では、私達が確かに捉えている「赤色(視覚的映像)」と言うのは、何なのでしょうか?

 

それは、各自の「意識の中」に浮かび上がっている幻想的な経験であると言う事が出来ます。

 

つまり、「経験」としては真実であり実在であるのですが、「絶対的」には経験であり幻想であると言う事です。

 

私達のこの人間的な経験と言うのは、全てがこの様な「経験的幻想」であり「絶対的実在」ではありません。視覚に限らず、人間的な五感によって捉えられる世界の全てが、エネルギー・波動(波長、振幅、周波数)としての実在を、この経験的な世界に置き換えて浮かび上がらせている幻想だと言えるのです。

 

では、この経験的な幻想世界の根源にあるのは何かと言えば、1つはDNAであると言う事が出来ます。つまり、各自の意識の中に浮かび上がっているその経験的な世界を生み出しているのは、人間としてのDNAであるのだという事です。

 

そのため、昆虫の意識の中には紫外線による白黒の世界が映し出されている可能性が指摘されていますし、高次元の宇宙人たちの意識の中にはより高エネルギーな情報までをも視覚化した世界が映し出されているのだと言われています。

 

つまり、高次元存在達のDNAは、一例として相手のオーラや過去の情報等までをも視覚化させる事が出来る機能がありえるのだと言う事です。

 

この様に、私達の目の前に「実在」しているのは様々なエネルギーの組み合わせでしかなく、それを色鮮やかで経験的な世界として意識の中に浮かび上がらせているのはDNA(人間的な五感)なのです。

 

私達が経験しているこの世界は、自らの意識の中にのみ存在しているのだと言う事です。私はそれを、「この世界は魂として見ている明晰夢・仮想現実である」といつも表現しているのです。

 

こうした基本を知る事によって、その思考(知識・情報)が信念(常識・世界観)にまで浸透した時、人間のDNAが保有する新たなプログラム領域が活性化し始める事になります。つまり、エネルギー体が徐々に活性化し始め、ついには超能力的な能力がその経験世界の中に反映出来る様になって行くのだと言う事です。

 

これまで、3次元的な波動によってそのDNAを使って来た私達は、言ってみれば意識の中に青虫としての経験世界を体験して来たのです。

 

そして、今、私達は蛹になってその内の信念体系を組み換える事によって(より正しくは、信念体系を組み換える(パラダイムシフトを起こす)事によって)、新しく蝶としての経験世界を意識の中に浮かび上がらせようとしているのです。

 

これは、魂としての私達が、地球人のDNAを利用する事によって、意識をこの地球人としての経験世界の中にログインさせているのだと言う事です。

 

これらは全てが単純な事実・現実なのですが、それが単純であるだけに、これまでの誤った(低波動に基づく)単純を覆すパラダイムシフト(常識・世界観の大転換)を起こす事はとても難しいチャレンジなのです。

 

そのゲームも、いよいよ佳境に入り始めています。今あるこの貴重な人間的経験をしっかりと味わい、存分に楽しんで行きたいものですね。

個人的な覚えとして書いておきます。

 

9月の下旬くらいからだったか、エネルギー感覚の拡大がいよいよ最終局面に入って来ている様な感覚があります。

 

多分、2009年の秋頃からだったか、そこから数えて16年になりますが、マラソンを走って来てようやく遠くにゴールとなる競技場が見えて来たような感じです。

 

 

その前半は電子書籍「ライトボディ 覚醒のはじまり」に書きましたが、当初、偏差として眉間から米神にかけて凝縮されたエネルギーの塊が表れたことが始まりでした。

 

そこから、その点が線となり、面となり、肉体の外側にまで伸び、立体となり、ようやく今、16年かけて肉体としての自分を包み込むところにまで育ってきました。

 

まだ、ここからエネルギー密度を増して行く事になるとは思いますが、何とか肉体としての自分を包み込むそのエネルギー体としての自分の意識領域を捉えられるようになって来たのが現状です。

 

肉体的な感覚として最後までそこに留まっていたのが重力を一手に受け止める「足裏」の感覚でしたが、これがようやくエネルギー体側に移り始めたことも、1つの大きな目安となっている様に思います。

 

最近は、肉体的に「冷たい」とか「痛い」等と言う感覚が出た時に、その感覚的なエネルギーの波と言うか波紋と言うかその配置を、異なる「心地よい」感覚へ組み換える事を試みている自分がいます。

 

その感覚的強さの程度にもよるでしょうが、ちょっとした不快感であれば上手く組み換えられている様に思います。

 

いちおう、自分が辿って来たこのエネルギー的な覚醒の最終ゴールとして見据えて来たのは、重力を消す事です。先にも書いた足裏の感覚を、完全にエネルギー体側に移し切って、エネルギー体としてそれをコントロール出来たら、自分的にはいちおうそれをもって覚醒できたものと考えています。

 

もちろん、それは個人的に定めた定義の1つであり、実際にはより小さくも大きくも覚醒を定義する事は出来る訳ですが、自分の中では、昔から重力を完全に消す事がエネルギー体覚醒の定義として持たれて来たものになります。

 

そこにはまだ、年単位で時間がかかるのか?どうか?

 

いずれにしても、こうしたエネルギー感覚の探求を続ける事は、自分にとっての一番の趣味でありライフワークとなっているものなので、特に急ぐでもなく、これまで同様に好奇心を持って進んでいけたらそれでいいのかなと思っています。

最近、YouTubeで当たり前のように目にするようになってきたのが「偽の情報」です。私が見る所では、金融経済・都市伝説的な要素を含むテーマにおいて、実在の人物の発言としてありもしない情報を引用する形で、平然と嘘を並び立てています。

 

こうした偽情報は、海外ではもともと当たり前のように流される傾向があったように思うのですが、AIの普及によって言語の壁が取り除かれたことで一気に国内に流入して来たかの様に感じられます。これまでの日本文化の中には、この様な「嘘」の文化は無かったように思うのです。

 

 

そして、その情報に騙された人や同じ手法で騙そうとする日本人が、更に派生的な偽情報を広めていると言った感じではないかと思います。

 

昔は、情報を得る「スピード」が重要でした。インターネットが普及する前の世界では、いち早く情報を入手する事が色々な意味で重要であったのです。

 

しかし、インターネットの普及によってその重要性はスピードから情報の「質」へと変化し始めました。誰もが膨大な情報にアクセスできるようになった結果、そこからより質の高い情報にアクセスする能力が問われ始めたのです。

 

そして今、質が高いか低いか以前に、その情報が事実か嘘かを見極める自身の「判断力」が重要とされる段階に突入し始めたように感じられます。それは、これまでにも当然重要であった訳ですが、その重要性がより一層高まりつつあるという事です。

 

人間はその人生において、3度の大きな能力の開花を経験するのだと言われることがあります。

 

最初の開花は、幼少期の「記憶力」です。この時期に私達は言語やこの世界の仕組み・ルールなどを一気に頭に詰め込みます。逆に言えば、この時期を過ぎて大人になってから、新しい言語や文化に馴染む事はなかなか難しいという事です。

 

そして、2度目の開花は思春期の「想像力」です。この時期に将来を夢見たり、恋愛的な憧れが湧き上がって来るものです。

 

最後に開花するのが、中年期の「判断力」です。それまでに様々な経験を培った上で、物事を総合的に判断する能力が開花する訳です。

 

ただ、現代社会においては、これらの能力はいずれもが抑圧される傾向を持っています。なぜなら現代社会は、こうした自然な人間的成長を求めておらず、管理者が定めた比較競争の中で、質の良い歯車人間を選別する仕組みを構築して来たからです。

 

そうした社会においては生物兵器・遺伝子製剤であっても、そこにワクチンと言うラベルを張ってしまえば、人々はそれを求めて列をなす様な事が起こってしまうのです。

 

その様な現実の中に大量の偽情報が流れ込めば、社会は一体どうなってしまうのだろうかと心配にもなる訳ですが、まぁ、波動的な法則の中でなるようになると言う以外に正解(現実)は無いのかも知れません。

 

各自が、自分の波動に応じた魂の夢(この物質的な経験世界)を経験すると言う事です。

 

一般的な意味での悪い人が、波動の低い現実を経験する事は仕方がないと受け入れやすいのかも知れません。しかし、悪くはないけれど無知によって困難な経験へと進んでしまうと言う事は、見ていて受け入れ難いものです。

 

しかし、だからと言ってそこに別の方向性や新しい情報を示しても、そうした人々の多くはそもそも「自分で考える事を放棄している」ために、表層的で当たり障りのない世間話として受け流してしまう傾向が強いのです。

 

だからと言って、そこでもう一歩踏み込んで話すのであれば、こちらが「おかしな人」「陰謀論者」としてのレッテルを貼られてしまう訳です。

 

結局は言われている様に、人は「自ら選択した現実」しか経験する事が出来ない様です。それを知り相手の選択を尊重する事が出来る様になれば、人生から随分と摩擦が減り、楽に生きる事が出来る様になります。

 

それが命に関わるような事であればそうも言っていられないとなる訳ですが、結局は偽ワクチンの接種などを通じて、それでも結局どうする事も出来なかったと言う経験を確認した人は多い事でしょう。

 

話を元に戻しますが、最近になってネット上に多くの偽情報が流れる様になって来た中で心掛けたい対策の1つは、「情報を鵜吞みにせず自分で確認する」事です。ここでは、AIをポジティブに活用する事(AIに答えを出してもらうのではなく、AIの出す情報を判断のヒントとして利用する事)で、そうした確認は比較的簡単に出来るものです。

 

そして、もう1つの対策は、情報に振り回されない「ワクワクと調和的な日常現実」の創造に人生の軸足をしっかりと置いておくと言う事です。

 

今後ますます揺れ動く社会の中で、その波に飲み込まれずに自分軸をシッカリと保って進む事は、ますます難しくなって行くものと思われます。しかし、そうした中でも「ポジティブな自分軸を守り抜く」この人生ゲームを、上手く楽しんで行きたいものですね。

最近のAIの進化には目を見張るものがあります。

 

ほんの3年くらい前に翻訳の仕事をされている方と、AIについて話したことがあります。私がその頃のAIの翻訳技術について話をしながら、仕事に追われて大変そうなその人(アメリカ人)に「仕事にAIを活用してみてはどうか?」と話してみたのです。

 

 

その頃のAI翻訳にはまだ不自然な翻訳が目立ってはいたのですが、まずAIに翻訳させておいてから、その不自然な個所を修正する形で仕事を進めればとても楽になると思ったのです。また、自分の仕事を奪うかもしれないAIの進化を感じながら、その後の自分の進路を見据えて行く事も大切だろうと。

 

しかし、その方は「まだ、AIの翻訳には問題があるから」と言ってAIを活用しようとはせずに、「自分が仕事をしている間は何とかAIに仕事を奪われずに行けそうかな」と話していました。

 

ところが、それからあっという間にAI翻訳はほぼ完璧な形に進化し、今や海外のサイトなどでも普通に日本語で閲覧する事が出来るようになりました。

 

しかも、最近では多くのYouTubeの動画でさえも日本語に置き換えてAIの音声が流れ、設定をすれば日本語の字幕もほぼ正確な字幕が出てくるようになっています。

 

この様にAIは、翻訳もイラストも、画像も様々な情報や知識も、一瞬で整理して求める1つの形にしてくれます。

 

AIの凄さは、こうした「作業の効率」や「正確性」にある様に思います。

 

(ただ、それが絶対に正しいと考える事は完全な誤りであり、飽くまでもネット上の情報を整理したものに過ぎないと言う点は抑えておく必要があります。例えば、AIはmRNAワクチンを未だに肯定する傾向を強く持っていたりします。いわゆる公式な情報がそれを肯定し、否定的な意見が検閲されて来た影響がそうして表れて来るのです。他にも能力の限界的なものもあり、より良い答えを導き出すために、こちらが適切な質問でそれを誘導する必要性を感じる事も多々あります。)

 

では、AIは人間より優れているのかと言うと、それはまったく「別の問題」になって来ます。

 

AIはあくまでもAIであり、人間とはその「存在意義」も「目的」もまったく異なるものであるために、そもそも比較するようなものではなく比較できるようなものでもないのです。

 

少なくとも、今のAIは「道具」として存在しているものであって、AI自身が自我に目覚めて生きがいややりがい、楽しみやストレスを感じることの出来る様なものではありません。

 

まるで人間であるかのように、それらの感情等を持っているかの様に人間を真似てはいますが、それはあくまでもプログラム的に真似をしているだけであって、実際にAIがそれを感じている訳ではないのです。

 

一方で「人間の凄さ」と言うのは、高度な「精神的経験」を生み出す事が出来る点にあります。

 

喜びや悲しみ、スリルと感動を感じながら、個としての自我に目覚めて、その人生を経験して行く事が出来るのです。これは、AIにはまったく無い特徴です。

 

これまでの人類と言うのは、「生きるために日々を送る」生活を続けて来ました。しかし、これからは生きるための作業をAIがこなし、人間は純粋に本来あるべき高度な精神的経験を生み出すために生きて行く事が出来る様になって行くのです。

 

それも、自らの高波動によってこの混沌の中から、そうしたタイムラインを引き寄せる事が出来ればの話にはなりますが。

 

ここで言う自らの高波動とは、「ワクワクと調和的にある」と言う事であり、それが出来始めている人達には、その経験を育てて行く事の出来る環境が引き寄せられて来る事になるのです。

 

一方で、これまでの3次元的な波動の中で競争社会を頑張って生きている人達には、それを続けて行く事の出来る環境が引き寄せられて来る事になります。

 

私達が生きているこの世界は、魂が夢として経験している仮想現実の世界であり、各自が自分の波動に応じた経験世界を引き寄せ体験して行く事が出来るのです。

 

それは、「例え話」ではなく、文字通りそのままの「真実」であるという事が出来るものです。

肉体的な意味での私達の始まりは、精子と卵子との受精卵から始まります。この1つの細胞が分裂し増殖して行く事で、今ある私達の肉体にまで成長する事になるのです。

 

ただ、その様な成長過程においては当然のこととして、その細胞分裂と肉体の構築を支える「材料」と「設計図」が必要になります。

 

 

つまり、材料とは私達が日々食する食べ物であり、設計図とは私達が人間として持つDNAの事です。

 

そこで私達が口にする食べ物は、穀物・野菜・果物になります。そしてこれらの植物も同様に材料と設計図を必要とするのですが、ここでの材料は日光・水・土などから得られるものになります。

 

私達は他にも肉や魚なども口にするわけですが、こうした生き物達は草や海藻などを食べてそれを材料として肉体を成長させています。

 

この時、穀物・野菜・果物などは自然の恵みを直接私達の肉体に取り込むことが出来る食べ物です。言い方を変えれば波動の高い食べ物になります。

 

一方でそれらを動物や魚が食べ、その動物や魚を私達が食べると言う形における食物は、波動の低い食べ物であると言う事が出来るのです。

 

これらは良い・悪いと言う意味での話ではなく、単にそれが食べ物として持つ波動の高低についての話になります。

 

私達の心身の健康と言う意味から捉えれば、植物食が体に良いと言う事になりますが、食の楽しみと言う意味から見れば、多くの人にとっては動物食が良いと言う事にもなるでしょう。

 

良い・悪いと言うのは、この様にそれを経験する各個人の選択によって異なるものであり、絶対的に良いと言う事もなければ絶対的に悪いと言う事もありません。

 

ただ、より波動の高い経験を生み出して行く為には、植物食による食事が好ましいと言う事にはなります。肉食に馴染んでいる人であっても植物食に慣れてしまえば、やがては肉を食べると臭いが気になったり胃がもたれたりして、その低波動な食物を好まなくなって行くのです。

 

こうした事からも気付くことが出来る様に、植物食よりもさらに地球に近い「水」と言うのは、言うまでもなく人間に必要不可欠な飲み物になります。

 

そして、現在の宇宙・地球的な波動上昇を効率的に私達の肉体に取り込んで行く上で、日常的にしっかりと水を飲むことが推奨されています。お茶などの水分ではなく、純粋な水である必要があります。

 

私達の肉体は、こうした食べ物・飲み物によって健全な形での成長をして行く事が出来るのですが、ここに人工的な甘味料・保存料・着色料・残留農薬などが加わると、その健全な細胞分裂が阻害される事になってしまうのです。

 

その結果として、癌が増えたり様々な病気が増えて行く事になり、戦後、あらゆる病気を患う人が鰻登りの上昇を見せているのも当たり前の結果としか言いようがありません。

 

どんなに尊い設計図(人間としてのDNA)を有していても、それによって使われる材料がその様な汚染物質まみれになっているのですからとても残念な事です。

 

そして、昨今問題にされているmRNAワクチンと呼ばれているものについて言えば、残念どころか狂気の沙汰でしかない選択と言え、それは人間の設計図を書き換えてしまうものになります。

 

人間の設計図はその仕組みを知れば知る程に人知を超えた神の傑作品である事が分かってくるのですが、それが完璧であればある程に、1つの変更がドミノ式に全体の仕組みを崩して行く事になるのです。その修復・リカバリー性能においてさえ、かなりの能力を秘めているとはいえ。

 

これは、更なる狂気の拡大を防ぐためにも、社会として受け入れなければならない事実になります。それを受け入れてこそ、既にそれを打ってしまった場合のリカバリーの模索が進む事にもなるのです。

 

そうしたリカバリーにおいて、私の知っている限りでは「松葉」が最も効果的であるものと思っています。さらには、「よもぎ」や「タンポポ」も効果的であると言えそうです。

 

ここでまた、mRNAワクチンを進めて来た医学者たちが言う石油由来のおかしな「薬」なるものを摂取する事は、単に自分を経済的に追い詰めばかりか、更なる健康の悪化を引き寄せる可能性さえあるのかも知れません。もちろん、それを断言する事は出来ませんが。

 

この様に世界と言うのは、足るを知って生きれば、そこに秘められている可能性を次々と引き出して行く事が出来るのですが、足る事を知らず感謝する事を忘れてしまうと、エゴの罠に陥ってわざわざ苦労をしてどうしようもない現実を引き寄せてしまうのです。

 

全ては既にこの世界に用意されており、ワクワクと調和的に感謝をもってその可能性を引き出して行く事によってこそ、より良い人生の創造が可能になって行くのではないでしょうか。