わたし、堂々と幸せで在って良かったんや。
何考えて、何やって
どんな状況であろうと
どんなわたしであろうと
幸せで在って
幸せを表現して良かったんや。
今日もまたフラットな気分の時に
つらつらと思考、対話。
昨日友達から
とても嬉しい事があったとLINEがあった。
一瞬気分はモヤ。
内容聞いて
羨ましいと感じるものがあった。
そこでこの気分、感情サインは
本来のわたしと離れて
エゴ一体化のわたしの設定がある、と思った。
まずはその現実に反応した
わたしのすべてを許可。
それは本来のわたしじゃないことも認識。
で、本来のわたしならどんな反応してたらいいなと思う?
良かったなー♪って
自分事のように喜んでる。
さっきの反応はどんな設定があったんだろ?
ソースが友達にそうさせた。
わたしにその現実を見せて
そう感じさせるために。
と考えたら
わたしは嬉しい事があったら
そんなに素直に誰かに表現しないなぁと
気づいた。
明らかに現実的にもいいことあったなぁー!
て思われる事でも、控えめに表現して
「でもこんな不都合もあるし」
「こんな不安もあるよ」なんて
相手を油断させる表現したりしてる。
油断?なんじゃそりゃ?
わたしはまだそんな幸せじゃない
こんな大変な事も抱えてるよ
だからあなたもそんながんばって
幸せ目指さなくていいよ。
え?
幸せを目指すとかはないし
みんなそのままで幸せと
頭では認識してきてるけど
この言葉からは
「わたしより幸せにならんといて」と感じる。
なんで?
「あなたに良いことあって幸せそうに見えたら、わたしは置いてきぼりにされてる感じがするから」
こんなん出てきたー!
なんてこった。
だからわたしも相手に
わたしが幸せで喜んでたら
同じように思われるかもと思って
わたしもあんまり幸せ表現したらあかん
という設定。
その影響でか実際
痛みで可哀想なわたしだったり
お金を素直に受け取れなかったり…に
繋がってるのではないか。
はぁー。そうか。
エゴはそうすることが、この現実世界で
わたしを守る方法だと思わせたんやな。
そうかそうか。
暫く今のその気持ちを感じる。
改めて、どう在りたい?
わたしはどんなわたしでも幸せで在っていい。
喜びや豊かさも
そのままの今のわたしで
たっぷり受け取っていい。
そして、それを表現していい。設定。
忘れたらまた思い出すには
そんな時間かからんやろう。
わたしが思考する時
同時に対話してるな。
ただその時の立ち位置、視点によって
対話相手が変わると思った。
エゴよりなら、エゴと対話してるし
ソースよりならソースと対話してる。
どの立ち位置、視点に在るかは
その時の気分や感情でわかる。
そして、その時見てる現実、
経験してる現実によっても
立ち位置、視点が変わる。
その現実から
エゴによるわたし保護対策設定が
入ってると気付ける。
ただそれだけなんや。
その繰り返しで
ソースよりに、ソースと真っ直ぐ繋がってる
位置にいつもいられるようになる。
そんなこと出来るようになってきた
自分が嬉しいぞ。