回顧録
旗八郎
幼年時代
私の父私の家の事は、吾家の歴史を読みたる者は承知の事と思うが、父は富豪の家に生れ、人となり、清廉潔白にして学識技芸万能の士なるも理財に乏しく、吾家は明治維新の際諸種の事情にて、次第に貧困に陥りたるも、少しも顧みず、家名を重んじ、公共の為に尽痒し、家計益々窮亡を来すも一家を維持する収入の道を講ぜず、常に美酒佳肴を好み、食に対しては○たる贅沢を極め、常に華草風月を楽しみ、独り陶然として歓喜し、少しも苦慮あるを知らず、母はこの窮迫せる家政を遂行するに如向苦悩したるかは想像するに余りあり、長男旗次郎、次男旗吉は向れも行商して家政を補給するも容易ならず、私の生れたのは窮亡の甚しき時代にて、兄二人は吾家の再興の為に努力せるも僅少の資金にて容易ならず、他の助力を得んと欲すれば父は頑として反対し、子等の無気力を痛罵し、戒告する、兄等は黙々として之に従ふより外なく、私は当時幼年にして父の心意を了解すること能はざるも、長ずるに及び漸く察知することを得たり、四男旗太郎氏は青年時代は身体虚弱多病、実業に従事する事は至難に付き、自分は一生小学校教員として子弟を教育し國家に奉公したい念願により、小学校卒業と同時に教員となりたり。私は家計の困窮なるを以て九才より一日の休みなく、朝夕納豆を売り歩き幾分でも学資の補給を成し居りたり。
曾祖父は名前は旗八郎と言います、三男のようです。
曾祖父の父、母の名前は分かりません。
天皇陛下巡行は明治13年となってるけど
山形、秋田、北海道は明治14年のようです、記憶違いかな

明治十三年、明治天皇陛下奥羽巡行、山形市行幸の際、各学校より優秀なる習字を天覧に共したる処、幸運にも嘉賞せられ、私に扇子壱対を下賜せられ、栄挙を受くることを得たり、私は○来豪放粗雑自尊心高く○る腕白者でありました。常に我餽大将となり横行したるも未だ嘗つて自分より喧嘩口論を吹き掛けたことなく、当時、封健時代の余弊として士族の子弟は商家の子供を軽蔑して侮辱すよ為め、常に毎日の如く喧嘩することあり、殊に学校の先生は士族なるにより空威張りするし之が為め一層商家の子供を軽蔑する傾きがあり、或る時、三の丸城壘にて壘上に二日町の子供が沢山の小石を運び、士族の子供と双方十四、五人集り大喧嘩を初めたる処、二日町の子供が壘上にあり、石は沢山あり、位置はよし、士族の子供は近づくことが出来ず、敗北の状態となるにより、私はこれは面白いと見物して居りたる処、士族の子供が自分の家に帰り、家に傳はる先祖重大の宝刀を持出し、挑戦し来りたるにより、二日町の子供は、それ刀を抜いて来た来たと、其の威勢に恐れ、初めの威勢はどこえやら、皆逃げろ逃げろと叫び吾先にと散り散りばらばら逃げ去りたり。私はこの喧嘩に関係せざるにより、一人残って平然としておりたるところ、士族の子供がやってきて、こやつが大将で指揮をしておつたのだと、切ってしまへと威嚇したるも私は従順に、私は八日町の者で、この喧嘩には何等の関係もなく、唯見て居つたのであると陳弁したるも聞き入れず、捕虜にしてしまへ、桑の木にしばりつけるといふ者もあり、私はどうか勘弁してくれと哀願したるも聞き入れざるにより、こんな奴等に話をしても無駄だと思ひ、隙を見て刀を奪ひ取ると同時に機敏に足で蹴とばし、今度は私は意気豪然として、誰でもこい、命のいらない奴は皆殺してやるからと大いに激怒し、刀を縦横に振り廻し本当に切り兼ねない勢いを示したる処、彼等はその勢に恐れ、散り散りばらばらに敗走したるにより、長追ひせず、後日喧嘩せざる様、刀を石に叩きつけ帰路に着きたる処、二日町の子供の急報により、父兄並びに有志四、五人駈けつけ来り、私が無事に帰り来たる姿を見て、一同悦んで皆々家に帰りたり、私も知らぬ顔で家に帰り、両親兄弟も一向に知りませんでした。翌日登校すると受持先生は一寸来いと、教員室に於て昨日喧嘩の事に就いて、大切な刀を石に叩きつけ、こわしたことは甚だ宜しくない、謝罪又は弁償せんければならぬ、殊に喧嘩の大将となりたることは甚だ悪い、学校の態面にも関することだから懲罰すると詰問されたるにより、私は事実を弁明し、刀をこわしたことは後日喧嘩をせぬ様、使用出来ざる為と弁駁したるところ校長雄倉茂次郎氏参り(士族にして後に代議士となりたる人)、お前の言ふ事は判った、心配するな、以来喧嘩してなりませんぞ、と申されて赦されて教室に戻りました。其の夜雄倉校長拙宅を訪問し、此の顛末を父に告げ、無事解決をとげたる事を談じ、互に談笑の上酒杯をか
.........
(ここまで(^.^;)
三の丸城とは

雄倉茂次郎氏とは
雄倉 茂次郎(おぐら しげじろう、1853年2月12日(嘉永6年1月5日[1])- 1911年(明治44年)1月2日[2])
出羽国村山郡、現在の山形県山形市[3]で山形藩士の家に生まれる[4]。漢学、英学を修めた[2][3][4]。
小学校教員、南村山郡学務委員、戸長などを歴任[2][3][4]。山形市助役に就任[2][3][4][5]。濱村勘太郎初代市長の辞職に伴い、1894年(明治27年)12月10日、第2代山形市長に就任し、1901年(明治34年)11月9日まで在任した[5]。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙で山形県山形市選挙区より立憲政友会所属で立候補したが次点で落選[6]。
1903年(明治36年)3月の第8回総選挙では無所属で出馬して初当選[6]。第9回総選挙(中立)でも再選され[6]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3]。
1908年(明治41年)5月、第10回総選挙で大同倶楽部所属で立候補したが次点で落選した[7]。
Wikipediaより
回顧録はここまでしかコピーして来なかった(^.^;
130ページぐらいの物で
曽祖父の手書きのものでそのコピーなのでかすれてて、なお古い文字もあり読めず○にした。

見つけた 壘
そして
旗八郎さんには子どもは二人のよう
1人は母の父で武と言う
コピーしたもの見て、今、気がついた

コピーをお願いした部分じゃないし
誰かがコピーしょうとしたのかな
渡道っていう部分も気になる
北海道に来た訳も書いてあるのだろう
帰省ってのもある
また、往復1000㌔かけて行くしかないのかなぁ〜
失敗したなぁ〜
この回顧録は
曽祖父が79歳になる時期に、金婚式を迎えた
昭和24年7月2日に書いたとの事
もちろん
私はまだ生まれてない
母もまだ結婚してなかったか?
10年前かな
母か突然、お爺さんは旗八郎って言う
町に像か碑に名前がある
それだけしか聞かなかった
詳しく聞けば良かった
その時に名前検索で出て来て
町に貢献した人だったとわかった
何故
母の父方との付き合いがなかったか?
母の両親は離婚し、それから父方とは一切付き合いはなく
離婚したのは私がまだ小学生のころで、事情はわからない私は旧姓に戻った祖母の名前を母の旧姓だと思って来て😁
母が離婚した時、えっ👀その名前はどこから?!
母の旧姓がもちろん旗八郎さんと同じ(^^)
母が亡くなって4年過ぎた
やっと、母の生まれた町に行った。
ただ、祖先の旗八郎さんのお墓もわからないので
町資料館も行きたかったが、休館日だった
隣りの図書館で、この旗八郎さんが図書館に寄贈した回顧録を見る事が出来た。
実は
母の母、お婆さんも図書館にある、町30年史、100年史に載る人なのね(^^)
祖母は生まれは明治40年で103歳で亡くなった
八女ニ男の子だくさん
亡くなった子や他の家へ引き取られた子どももいた(^.^;
武さんはちゃんと働いてくれてたのか?
だから離婚に至ったのか?
だから子供達は母の方についてしまったのか?
子宝と言うけど違うかもね
多産って夫が妻に対するDVなのかもね(^_^;)
そういえば
母から祖父武の話を聞いた事がない
ただ、昔の写真見て、これは誰、これはおじさんとかしか。
祖先をたどるって難しいね
母の母方は秋田から来てるし、秋田で生まれて家族と共に大正2年に北海道に来た。
6,7才の時。
父の母方は関西方面から船で小樽に着いたと、で、お婆ちゃんはその時お母さんのお腹の中にいたらしい。
暮らしは大変だったでしょうに、お婆ちゃんは読み書きはあまり出来なかったらしい、一緒にいた時も多いけど、全然気がつかなかった、亡くなる何年前にポツリとお婆ちゃんは言った。
そして札幌のお爺さん(父の父)と結婚
お爺さんの親に反対され、お爺さんの方の家族とは一切つきあいなし。
先祖と言っても知れるのはたかだか100年
ちょっと。
家には子どもいないし
ももたさんの家族、弟、姉も子どもいないし、この家系もウヤムヤになりそう。
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以上
あら色々書いちゃった(^.^;
まぁ道産子さん達はほとんど内地から流れて来た人達だしね







































































































































