御嶽海の大関昇進で、来場所の番付は3大関となります。
新大関の誕生で、〝負けてたまるか〟と、貴景勝(たかけいしょう)、正代(しょうだい)の先輩大関の発奮に期待していますが、初場所6勝9敗と負け越した正代がどうも気になります。
毎場所期待されながら、それに応えられず、昨年は勝ち越すのがやっとでした。けがや病気を抱えているというならわかりますが、その気配もなし。いったいどうしたのでしょうか。
同じ時津風部屋の豊山も、このところ、敗れては土俵の上で、下でしきりに首をかしげています。
183㌢、167㌔(正代)、184㌢、174㌔(豊山)の立派な体が、さっぱり生かし切れていない。ファンから〝それでも大関か〟という厳しい声も強まっています。
時津風部屋と言えば、かの大横綱双葉山(ふたばやま)が起こした部屋。戦時中の1941年、現役横綱時代に若い力士を育てたいと 立浪部屋所属ながら、双葉山道場を設立。終戦直後の1945年11月に引退した後、12代時津風を継いで、双葉山道場を時津風部屋と改称しました。
多くの横綱、大関や役力士を生んできました。 今でも時津風部屋には「双葉山道場」の看板が残っています。
しかし最近はその名を汚す深刻な事件、事態が相次いできました。
2007年6月には、師匠が先頭になって若い力士に暴行を働き、死に至らしめました。さらに部屋を継いだ元前頭の時津海が1昨年はコロナ感染防止のガイドラインに違反、昨年1月には歓楽街で麻雀をしていたことが明らかになって退職しました。
その傷跡が影を落としていなかったか。力士にとって相撲どころではない日々だったのではないか。
それでも、相撲をやりたい、強くなりたいとこの世界に飛び込んだ以上、その障害を乗り越えて進むしかありません。
その双葉山が著書『横綱の品格』(原著は『相撲求道録』)の中で書いています。
自身が勝てなくなった時のことに触れ、「たまたま勝ち越して三役にのぼったといってみても、実力がこれに伴わなければ振り落とされるのは当然至極」、そこから立ち上がるには「ただ稽古があったばかり」と。
双葉山の稽古は桁外れで、横綱になってからも日々50番以上の稽古は当たり前だったそうです。それを、右目は失明状態、128㌔の体で69連勝という大記録を打ち立て、多くの弟子を育ててきた歩みには、ただ頭が下がります。
戦後は相撲協会の理事長として、盟友・元関脇玉の海の提言も受けて、部屋別総当たり制度を実現するなど、大胆な改革にも取り組んできました。
『横綱の品格』には、経験を通した力士人生や相撲理論が、謙虚な文章で書き込まれており、力士の参考になる話がぎっしりです。
正代も豊山も、今の状態から脱出するためには、大先輩が創設し、〝遺産〟のつまった部屋で、強くなる原点に立ち返る。それしかない。
近道はない、と思います。