お線香の香りがする実家には、まだ慣れません。


私の手元には、去年の母の日に贈ったピアスが、持ち主を失い返って来ています。

70才を過ぎてからピアスを開けた母が、嬉々としてそのことを報告してくれたのは、つい最近のことのように感じられます。


この一年、母がいないことをうまく捉えられず、心の中はずっと混乱したままです。

母との鮮やかな思い出が色褪せていくような不安のなかで、今年が終わる前に、どうしても母のことを書き残しておきたいと思います。



今年の2月、後腹膜脂肪肉腫という希少がんで母を亡くしました。72歳でした。

2023年には祖母(母の母)が100歳で亡くなったばかりで、もっと一緒にいられるものと思っていました。


大学病院2つとかかりつけ医でCTを撮った際には異常なしとされていたものの、その10か月後に自覚症状を訴え、検査の末診断が確定した時には、根治の道は残されていませんでした。

たった1年の闘病生活でしたが、最後まで生きる道を模索しました。セカンドオピニオンは5回、抗がん剤治療はもちろん、治験への参加、名古屋での手術など。しかし進行が早く、悪液質のため治療継続が困難となり、年明けから自宅療養に切り替え、最期は母の希望で自宅で看取りました。

「もうだめだ」と「まだ大丈夫」の間を葛藤した、苦しい1年でした。



3人兄姉の末っ子で、私がおそらく一番「お母さん子」だったと思います。

幼稚園の入学式では、私だけが他の園児とは離れ母に抱っこされている集合写真が残っています。


若い頃の母は、真面目な性格ゆえに兄や姉には厳しい一面もあったようですが、私にとっては優しい母でしかなく、これといった取り柄のない私ですが、母に愛されているという自信だけはいつもありました。


夫が結婚の挨拶にやって来たとき、母は「おめでとう、宝くじが当たったと思って。本当にいい子なのよ」と無邪気に言って、とんでもなくハードルを上げてくれました()


若い頃は母に対して無遠慮にあれこれ言っていたので、母を傷つけたことは数知れず。

大人になってからは素直に甘えることができなかったですが、それでも毎日のように人に話すまでもない些細なことをラインでやりとりし、就職してからも町歩きから海外旅行まで、本当にいろいろなところに一緒に出掛けました。


特に2018年のクリスマスのウィーン、そしてプラハの街並みは本当に美しく、それまで欧州に行ったことのなかった母に、数少ない親孝行ができたと思います。


病気が発覚してからは、家族全員で新婚時代や昔住んでいた家をワゴン車で探しながら名古屋や三重を巡る旅をし、亡くなる半年前には母の念願だった只見線の旅(私悲願の三世代女子旅行でもあった)も叶いました。



私から見た母は「真面目だけど不器用」。

家族にはおちゃめなところがある一方、とても心配性で、譲れない瞬間には悩みながらもまっすぐにものをいう人でした。

一生懸命だけどどこか的外れで、自信はないけど頑固で。母を見ているともう一人の自分を見ているようでした。


50代で大病をしましたが、その後は健康体で、子育てが一段落するともれなく韓国アーティストやカルチャーにはまり、仲間とあちこち出かけたりと楽しく過ごしていました。御朱印集めや百名山制覇など、様々なことに興味を向け、本人曰く「華の60代」だったようです。


自己表現が苦手でしたが、自分の考えを持ち、向学心の強い女性だったので、生きづらさを感じることも多かったのだと思います。

専業主婦だった自分を反面教師に、姉や私に「女性が経済的に自立することの大切さ」をことあるごとに口にしていました。

そのおかげで、姉も私も40歳を過ぎた今もサラリーマンを続けています。



「がんはお別れの時間があるからいい」と言う人もいますが、大好きな人が徐々に衰弱していくのを、為すすべもなく見守るのは本当に耐え難いものです。

仕事をしていても、家族で団欒していても、友達と笑っていても、ふと母の最期を思い出すと胸が押しつぶされそうになります。


亡くなる最後の1か月は、介護休業を取らせてもらい、3歳の娘と一緒に実家に住み、父とともに母のそばにずっといました。

兄や姉も毎週のように仕事や家庭を押して来てくれました。

母は羨ましくなるくらい家族に愛されていたと思います。


最後の方は口数が少なかった母ですが、「ちえがいてくれてよかったよ」と言われたことが、今でも私の心の支えです。


母に改めて感謝の言葉を口にすると、死を認めたようで、最後まで伝えることはできませんでした。

ただ、自力で起立できなくなった母を自宅のトイレで向き合って介助していると、「ありがとう、ごめんね」とポツリと母が言うので、思わず「お母さんが40年間してくれたことに比べたらこんなことは何でもないんだよ」と泣きながら返しました。

それが精いっぱいでした。母は何も言いませんでした。


亡くなる前日、自宅でベッドに横たわり、私たちに別れの挨拶をする母に私が「嫌だ、嫌だ」と泣いて取り乱してしまいました。

「会いたくなったらどこに行けばいいの」と聞く私に母は、「鏡を見なさい」と言いました。「お母さんにそっくりな自分が映っているでしょ。」

母にしては出来すぎた話だなと思っていると、「新聞か何かで読んだ」というオチもちゃんとついていました。

それが最後のやり取りでした。



母が亡くなってから季節が一巡しようとしています。

割り切れない気持ちや、深い悲しみを抱えながらも平静を装って日常を送ることには慣れましたが、虚しさを感じることも多いです。


子育てをしていると、娘の何気ない仕草がたまらなく愛おしく感じる瞬間があります。母もかつて私を同じような思いで見つめていたのだろうかと想像すると、涙が止まらなくなることがあります。


行き場を失った母への感謝の気持ちは、愛情という形に変えて娘に渡したいと思います。

母もきっとそれを願っていると思います。


今の私の中にある喪失の痛みは、母が確かにいたというしるしのようなものです。

それは、私にとって忘れたくない大切なものです。苦しいけれど、この痛みと向き合い続けることが一番自分らしいと、今はぼんやり考えています。

「また自分に生まれてきたいか」と聞かれたらわかりませんが、

「またお母さんの子に生まれてきたい」とは心から思います。


40年間一緒にいてくれて、ありがとう。


さようなら。🌹