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2‐日本憲法史


わが国には、明治時代以前は、立憲主義的な成文憲法は存在せず、近代的憲法の歴史は1889年の大日本帝国憲法(以下、明治憲法という)から始まる。


1 明治憲法の特色


民主的要素と反民主的要素


明治憲法は、立憲主義憲法とはいうものの、神権主義的な君主制の色彩がきわめて強い憲法であった。


(1)反民主的要素

まず、主権が天皇に存することを基本原理とし、この天皇の地位は、天皇の祖先である神の意志に基づくものとされた。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(1条)とは、この天皇主権の原理を明示したものである。また、天皇は、神の子孫として神格を有するとされ「神聖ニシテ侵スへカラス」(3条)と定められた。さらに、天皇は、統治権の総攬者(4条)、すなわち、立法・司法・行政などすべての国の作用を究極的に掌握し統括する権限を有するものとされた。


ただ、皇室の事務に関する大権(天皇の権能のこと)のほか、とくに、軍の統帥に関する大権(11条)が一般国務から分離・独立し、それに対する内閣・議会の関与が否定されていたことは、重大な問題であった。


(2)民主的要素

他方、明治憲法には立憲的諸制度も採用されていたが、それぞれ不完全な面を有していた。権利・自由は保障されてはいたが、それは人間が生まれながらにもっている生来の自然権(人権)ではなく、天皇が臣民に恩恵として与えたもの(臣民権)であった。各権利が「法律の範囲内において」保障されたにすぎず、法律によれば制限が可能であったのは、そのためである。


統治機構の分野でも民主性に欠ける点が少なくなかった。すなわち、①権力分立制は採られていたが、それぞれの機関は天皇の大権を翼賛する機関にすぎなかった。②法治主義の原則も形式的法治主義にとどまり、権力を法によって制限するという観念は希薄であった。③議会の権限は大きく制限されており、政府や軍部に対するコントロールの力はきわめて弱く、また、貴族院という反民主的組織を含むものであった。④さらに、「各国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(55条)とされ、大臣助言制(君主の国務上の行為は必ず大臣の助言を必要とする制度)が採用されていたが、それは各国務大臣が単独でその所管事項について輔弼(助言)するということであり、内閣制度は憲法上の制度ではなく、とりわけ、各国務大臣は天皇に対して責任を負うだけで、憲法上は議会に対して責任を一切負わなかったのである。


明治憲法の運用


このような神権主義的な天皇制を基本とする明治憲法をできるだけ自由主義的に解釈しようとした立憲的な学説の影響や、政党の発達とともに、大正から昭和のはじめにかけていわゆる「大正デモクラシー」が高揚し、政党政治が実現した。


しかし、その後、軍部の勢力が増大しファシズム化が進展して、*天皇機関説事件などが起こり、明治憲法の立憲主義的な側面は大きく後退してしまった。


*天皇機関説


国家は法的に考えると一つの法人、したがって意思を有し、権利(具体的には統治権)の主体である、というい国家法人説が、19世紀ドイツでG・イェリネクによって体系化され、支配的な学説となった。この理論は、君主、議会、裁判所は、国家という法人の「機関」であること、国家はその機関を通じて活動し、機関の行為が国家の行為とみなされること、君主に主権が存するとは、君主が国家の最高の意思決定機関の地位を占めるということにほかならないこと、などを内容とする。これを日本にあてはめたのが、天皇機関説である。

天皇機関説は、天皇が主権者であり、統治権の総攬者であることを否定する理論ではないが、それを国家の最高機関と位置づけたために、日本の軍国主義化が進むにともなって、「国体」に反する異説とされ、政府はこの説の代表者だった美濃部達吉博士の著書を発売禁止処分に付し、すべての公職から追放した。世に天皇機関説事件と呼ばれる事件が、これである。