今日はテレビ番組『プロフェッショナル』で英語教師田尻悟郎のドキュメンタリーをやってました
http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/060907/index.html
すげーよかった。
そんで彼の主張から
教育について思ったことを忘れないようにかいとこう
●「楽しい」を通した教育
教育にもいろんな段階があるんだけど、特に勉強の入り口である初等中等教育ではこれがめっちゃ大事だと思う。
ってか自分の周りをみてると、あふれんばかりのエネルギーがあるひとほど、そのエネルギーを収束させるような学校教育には適応できてなかったと思う。
それってすごくもったいないと思う
エネルギーを収束させるんじゃなくて、発散に近い方向にもってく、それが「楽しむ」ってことだと思う。
だから楽しめるような勉強がもっとひろまればなって思う。
それが自己責任社会において教育格差をなくす一番の方法だと思う。
自分をふりかえっても、自分なりに楽しくなる方法をみつけてきたから勉強しつづけれたと思うし。
まあ楽しいにもいろいろあるからそこも議論の余地はあるんだけど
楽しさを通して勉強をっていう以上
勉強する意味があるのかっていう問いに自分なりに答えなきゃいけないと思うんだ。
この答えに関して端的にぼくの考えは
人が人たりえるのは学ぶからだと思うんだ
いまの生活だってすべてにおいて、連綿と続く先人の努力、そして先代のつくりあげたことを、学んで継承していったから今があるんでしょ。
生まれたときから僕らは学びつづける
学校で学ぶ必要はないけど 主要教科を主に学ぶ必要もないけど
学ぶという行為そのものは続けなきゃいけないと思うんだ。
人として生まれてきた以上。
今の豊かな生活を享受している以上。
義務みたいなね。
あー、昔とだいぶ考え方が変わった自分がいるのに気づいた。
昔は「人としての義務」みたいなへんな使命感が大嫌いだったのに。
んで話もどすと、効率的にいろいろなものをみて学ぶスキルをつけるために、学校の勉強はある程度意味がある気がする。
●期が熟すまで実はつみとらない
これも職人技だなっと思った。
主張とか、言葉は自分が置かれてる状況によってその受け取られ具合がぜんぜん違うよね。。
だからその子に響くまで寝かして、期が熟したころに指導する。
ってか自分の考えによる「気づき」を促す教育法はすごいと思う。
自分自身、いまも残ってるのはこうゆう気づかされの部分だと思う
●いろんな経験をする
上の「気づき」を促すためには、熟考といろんな経験をするの二つが必要だなって思うんだ。自分と照らし合わせてみても。
自分って、人よりいろんなジャンルのことを経験してると思うんだけど、それぞれに気づきあるもん。やっぱ。
でもまあ広さと深さは反比例だから、ただいろんなことを経験すりゃいいってわけじゃないと思うけど。
でもこの反比例の軽減のために
熟考とか想像力が大事になるんだと思う。1のことから10を想像できる人は量と質のギャップをうめれる気がする。
でまた、この想像力はなにによってつくられるかというと、多様な経験と熟考な気がする。
なんか
熟考というガソリンに
経験と想像力が両輪になった車
みたいなイメージだろうか。
●失敗から学ぶ
田尻さんはいろんな失敗と挫折を経験している。
そして試行錯誤もしてる。
やっぱ、目と発言に人間の深みがあらわれていた。
自分も今までいっぱい失敗してきた。
これからもするだろう。
でもそこで苦しみながら悩みながら成長してけたらなって思った。
<総括>
最近は自分の教育にかんする原体験が言葉になりはじめた。
自分のモヤモヤしていた気持ちがなんだったのか、その輪郭が見え始めてきた。
教育ってほんとにいいなって思う。
そして自分も変な周りからの評価・評判なんか気にせず
教師になるのがいいのかもって思う。
きっとものすごく深い職業だから。
でも背伸びして、社会でもまれたい気持ちもある。自分がどれらい通用するのか試したい自分もいる。
スズカンみたいに要所要所ででてきた教育にかかわるのもいいと思う。
でもきっと現場教師の感動のがでかいだろう。
そうでもないか!?バランスよくいやってると楽しいし。
わかんないや。
でもなんらかの形で教育にはかかわり続けていきたいな。
けっこー理屈っぽいぼくですが
なんかここだけはノーリーズンだな。
なんでだろう。
あー
ひさびさに
マジメな内容かいたww