いとこが自殺しました。
私の引っ越しの手伝いのために、姉に関東に来てもらっている4月中旬のことでした。
母からいとこが死んだという連絡が来て知りました。
その時は何が原因で死んだのか知らされませんでしたが、姉も私も、自殺だろうとなんとなく思いました。
ただ、お互いに「自殺」という言葉を口にはできませんでした。してはいけない気がしました。
いとこは数年前に精神病を患っていました。
今のご時世、自殺者は増えていると言います。
それもあるからか、いとこの死を聞いてすぐに自殺が思い浮かび、疑うことはありませんでした。
すっと受け入れることができました。
私自身、1年前に死ぬ方法を考え、今日1日が終わったら死のう、と決意したこともあり自殺は身近なものだったからというのもあるかもしれません。
いとこに対してただ、お疲れ様、ほっとしてるかな、と労いの気持ちでいっぱいでした。
責めるべきではないと思いました。
しかし、やはり責める人もいて、私の祖母は「馬鹿なことをして」と言ったそうです。
いとこには奥さんもいて、子供も2人とこの間もう1人、元気な男の子が産まれたところでした。
遺された人を考えたら責めるべきだったのかもしれません。
でも死を選ぼうしたことのある私には責めることなどできませんでした。
ただ、死ぬ時、孤独で寂しかったんじゃないか、怖くなかったかな、せめて話を聞いて分かち合いたかったと悲しくなりました。
死んだいとこに手紙を書く時も、私のいとこでいてくれてありがとう、楽しい思い出をありがとう、お疲れ様など感謝と労いの言葉しか思い浮かびませんでした。
自分の素直な思いを届けられた、とその時は思いましたが、あとで自分の手紙を読み返した時、冷たかったかな…と思いました。
普通、もっと会いたかったよという言葉があるものかな…と。
私の手紙を読んで、遺された家族は冷たいな、もっと会いたいとかなかったのかと思ったかなと少し不安にもなりました。
私が送った手紙は遺族には寄り添っていませんでした。
そこで、祖母の責める態度は遺族を救ったのではないか、と思い返しました。
責められてばかりも良くないですが、誰か怒ってくれる人もきっと必要だったと今では思います。
私は死んだいとこを独りにせず、祖母は遺族を独りにしませんでした。
どの想いにも間違いはありませんでした。
それぞれがそれぞれの視点から相手のことを思い、感情をあらわにすることは必ず誰かを救っているのだろうと思いました。
自殺というものは、遺されたものにとてつもなく大きな穴を残します。
わかっていても、自ら命を絶つことを選ばざるを得ない人がいることも知っています。
そんな時、何もできない自分に無力さを感じてやるせない気持ちになります。
なぜ死を選ぶ側の気持ちがわかっている自分に何もできないのかと腹立たしくもなります。
ただただ、想うことしかできない現状ばかりです。
でも、こうやって自分のことを想ってくれている人は絶対に1人はいる。
遺す側も遺される側も、絶対誰かに想われている。
それだけでも十分幸せなことなのかなとも思います。
私も死ぬ時、誰か1人でも私のことを想ってくれていたらもうそれで最高じゃないかと思っていたから。
だから私は、これからも身近な人、どこか遠くにいる誰かを想いながら生きていきたい。
私は私の解釈で自分の感情を届け、誰かの救いになることを願っています。
いとこへ、改めてお疲れ様。
また会う日まで
#自殺