★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2007.03.22-2)家族会・救う会訪タイ団、チェンマイで精力的に活動

 飯塚繁雄家族会副代表と西岡力救う会常任副会長がタイを訪問中ですが、チェンマイでの活動報告が届きましたので第一報を掲載します。

■家族会・救う会訪タイ団、チェンマイで精力的に活動

 家族会・救う会訪タイ団(飯塚繁雄家族会副代表、西岡力救う会常任副会長、以下訪タイ団と記述)は、3月20日19時頃(現地時間、以下同じ)、チェンマイ空港に到着し、タイ人拉致被害者家族のバンジョン・パンチョイさん、海老原智治ARNKA(北朝鮮に拉致された人々を救援する会チェンマイ)代表らの迎えを受けた。

 21日午前10時30分、訪タイ団は、タイ人拉致被害者アノーチャー・パンジョイさんの兄のスカム・パンジョイさん、アノーチャーさんの甥のバンジョイ・パンジョイさんらと面談した。現地では、日本とタイのテレビ、新聞記者らが多数取材した。

 スカムさんは、次のように語った。
早くアノーチャーが帰ってきて家族で暮らしたい。私たちが2005年12月、訪日した時、とてもお世話になった日本政府と日本の人々の支援に心から感謝している。もし、日本政府、家族会、救う会の支援がなければ、私たちを誰が助けてくれるか。今日、飯塚さんと西岡さんがここまで来て下さったことがとても嬉しかった。励まされた。

 何の罪もない人間をさらっていったこと、そのようなことをした国家の指導者は許せない。非常に憤りを覚える。

 アノーチャーは健在と信じている。彼女を目撃したジェンキンス氏に私も会った。ッジェンキンス氏にアノーチャーは、マカオで縛られて、注射を打たれて連れてこられた、と語っている。それを聞いて私は悲しかった。このようなことを行う国と指導者は、正しいことをしているのか。

 日本の家族らとより強く連帯し、国際社会に訴えていきたい。早くアノーチャーに会いたい。

 訪タイ団は、22日13時30分より、チェンマイ県トンチャイ副知事らと面会し協力を求めた。

 また、18時30分から21時まで、タイ日友好フォーラムが共催した「拉致問題講演会」で、約30人のタイ人、日本人らに、日・タイ連携強化ですべての被害者を取り戻そうなどと訴えた。

★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2007.03.22-4)早くもとの平凡な暮らしに戻してやりたい-飯塚副代表

 訪タイ団の続報が届きましたので掲載します。

■早くもとの平凡な暮らしに戻してやりたい-飯塚副代表
 飯塚副代表が、アノーチャーさん自宅を訪問して記者会見で語った内容。

 先に本ニュースで伝えたように、訪タイ団は21日午前、チェンマイ県の拉致被害者アノーチャーさんの自宅を訪れた。飯塚家族会副代表は、面接後の記者会見で次のように語った。

 実際にアノーチャーさんのお宅に来て、多くのことを感じた。私の妹、田口八重子とアノーチャーさんは同じ1978年に、ほぼ同じ年令で拉致されている。帰りを待っているお兄さんのスカム・パンジョイさんとやはり八重子の兄である私もほぼ同じ年令である。あの時、北朝鮮の卑劣な行為がなければ、アノーチャーさんは自宅で平凡に暮らしていたはずだし、八重子も同じだったはずだ。

 タイにとっても、アノーチャーさんは全人口6000万人のうちの一人に過ぎないかもしれないが、一人でも国家犯罪は許してはならない。タイや日本をはじめとする世界中の国と国民が怒りを示してもらいたい。

 日本では、日本人だけでなくタイにも他の国にも拉致被害者がいる、拉致被害者は世界中に広がっているという理解は広がっている。被害者家族同士手を組んで絶対に取り戻すという取り組みを進めていきたい。

 今日、スカムさんから話を聞いた。拉致の前はここで9人家族で暮らしていた、何も悪いことをしていない被害者を連れ出して今まで返さない。人生の一番よい時間を奪われている。早くもとの平凡な暮らしに戻してやりたい。
以上

 
★☆救う会全国協議会ニュース★☆(2007.03.23-3)アノーチャーの住民登録はずっ
とそのままに-チェンマイ集会

 訪タイ報告第3弾は、チェンマイでの集会での発言です。日タイ連携で救出することを確認しました。

■アノーチャーの住民登録はずっとそのままに-チェンマイ集会

3月21日チェンマイでの拉致問題講演会詳報

■アノーチャーさんの甥パンジョン・パンチョイさんの訴えとアノーチャーさん
拉致を認定した当時のスラチャイ・チェンマイ県サンカンペーン郡郡長の証言

★パンジョン・パンチョイさんの訴え

 叔母がいなくなったとき、まさか拉致とは思わなかった。どうしたのか分からず、家族はとても苦しい時間を送ってきた。

 アノーチャーは家族を愛する朗らかな性格だった。私たちは大家族で8~9人で一緒に住んでいた。その家族からアノーチャーがいなくなって暗い気持ちになった。

 アノーチャーは非常に家族思いで、定期的に仕送りをしていた。そのような叔母がいなくなり、家族は生活も苦しくなり、気持ちも苦しくなった。

 アノーチャーはバンコクで働いていたとき、チェンマイの家に戻ってくるたびにお土産を持ってきた。このカセットラジオは叔母がバンコクで買って自分で使っていたものを私の父にプレゼントした。父はアノーチャーがいなくなった後もこのラジオを大切にしており、アノーチャーを思ってかじっとそれを眺めていることも多かった。

 私たち家族はアノーチャーがいつ帰ってきてもいいようにバンコク時代にアノーチャーが持ってきたお土産や衣料品など全部大切にとってある。帰ってきたら見てもらいたい。

 私の祖父、アノーチャーの父は、もともと社会的な人間で様々な対外活動をしていたが、アノーチャーがいなくなった後、引っ込み思案になり、外出は自宅から病院に行くだけとなってしまった。

 アノーチャーがいなくなってから無口になり、アノーチャーのことを尋ねられても黙ってしまっていた。それでもアノーチャーが帰ってきたとき会うためにちょっとハンサムにしていようと話していた。

 私たち家族はアノーチャーの住民登録をずっとそのままにしておいた。心の中でいつか帰って欲しいと思っていたからだ。

 アノーチャーの父は2005年、97歳で亡くなった。タイのテレビでアノーチャーが北朝鮮にいるというニュースが流れる3か月前だった。

 アノーチャーの父が亡くなったとき、私の父、アノーチャーの兄スカムがこの問題を引き継いだ。2005年12月の東京での大会にもスカムと私が参加した。ところがスカムは2006年8月、突然血液感染症で危篤になり入院した。やっと退院したが、耳が聞こえなくなった。

 近所の人と筆談で、もしアノーチャーが帰ってこないのなら私の命は長くないが、アノーチャーが帰ってくると信じてがんばっていると話している。

 今日は私たち家族にとってうれしい日だ。日本から飯塚さんと西岡先生が来て励ましてくれた。日本の仲間が支援と協力を申し入れてくれている。私たちは日本政府、家族会、救う会以外、誰を頼ったらいいのか分からない。

 先日もラジオで6者協議の結果のニュースを聞いた。北朝鮮の態度に失望したが、私たちは希望を捨てていない。父にアノーチャーを会わせたい。

★スラチャイ・ジョングラック前チェンマイ県サンカンペーン郡郡長の報告

 私は今日の講演会で日本人とタイ人が力を合わせて二つの国の問題を話し合っていることをうれしく思う。

 2年前、2005年、私はアノーチャーの実家があるチェンコイ県サンカンペーン郡の郡長でした。私が郡長だったとき、アノーチャーの兄のスカム・パンジョイが私の事務所にやってきた。テレビでタイ人の北朝鮮による拉致被害者のことを見た。その被害者が失踪している自分の妹とよく似ているというのです。テレビでそのタイ人被害者の写真が出て、顔がそっくりだし、名前も同じだというのです。

 スカムさんは28年間消息が分からなかった妹の写真までがテレビに出たので、とても喜んでいた。しかし、外国で連絡できないから、一番身近な役所である私のところに来たのだ。

 郡長としてスカムの妹が拉致被害者だと確定した決め手は三つあった。

 第1は、家族が住民登録を抜いていなかったので、アノーチャー・パンジョイの名前を確認できたこと。

 第2は、そのアノーチャーは1978年にマカオで失踪したと家族が証言しており、ジェンキンスの本でもタイ人被害者はマカオから連れてこられたと書いてある。

 第3は、ジェンキンスがテレビ局に提供したアノーチャーの写真だ。ジェンキンス一家が海水浴に行ったとき写した写真の後の方にアノーチャーが写っていた。その写真を家族、友人、学生時代の同級生に見せたところ、皆、間違いないと話した。

 それでジェンキンスの本に書かれたタイ人被害者がスカムの妹のアノーチャー・パンジョイであることが間違いないと判断した。そこで外務省に連絡した。それを受け、タイの外相が北朝鮮の外相に直接アノーチャーの問題を提起した。しかし、北朝鮮は否定したと聞いている。

 この問題に対するタイ政府の動きは2年間で、人物を確定し、外相が北朝鮮外相に直接交渉したという比較的迅速なものだった。先の首相タクシン氏が地元であるサンカンペーン郡にお国入りしたとき、アノーチャー家族が首相に直接嘆願書を手渡すことができました。それには私も協力しました。

 2005年12月には東京で開かれた大きな集会にスカムとパンジョンが招かれたが、私もタイ政府として同行した。その後私はランクーン郡長に転任して今に至るが、今日は駆けつけてきました。

 この問題は、タイは被害者が1人、日本は100人程度と推定されているが、たとえ何人であっても日本とタイが手をつないで国際社会に訴えればアノーチャーも日本人被害者も帰ってくると信じている。

 日本に行ってうれしかったのはジェンキンスさんと会えたことだ。彼から、2003年、北朝鮮にいたとき、北朝鮮当局から曽我ひとみのことをあきらめて北朝鮮に残るならアノーチャーと一緒にさせてやると言われたという証言を聞いた。この証言から少なくとも2003年までアノーチャーが健在だったことが分かる。アノーチャーは生きていると信じている。

 日本では家族会、救う会が出来て10年、タイでは2年だが、連携を強化すれば必ず全員助け出せると信じている。
                           以上

拉致被害者とその家族の悲しみは、国は違えども同じです。

 一日も早く、拉致被害者が祖国へと帰れる日を祈ります。

                      ~(編)奈良野鹿子~