自転車がパンクした。またか。
この街に住んでいると何かと自転車が便利でよく使う。
どこに行くにも自転車やし、2.3駅なら自転車をぶっとばして行く。

たしか、彼もそんなことを言っていた。

大きな自転車屋さんは2駅向こうにあって、わたしは自転車を押しながら、日傘をさしながら、音楽を聴きながら、まだ7月初めとは思えないほど真夏のような日差しの中歩いた。

こんなことがちょうど2年前の夏にもあった。

あの夏に一気に引き戻された。
この感覚。あの夏も経験した。

最悪の現実を突きつけられて、それでもその場から逃げることはできない状況で、必死で、彼の真隣で耐えた夏。

今思えば、あの時はまだ、現実を処理しきれてなかったかもしれない。
あんなに毎日みっちり一緒に仕事をして、肩が触れるくらいの距離で話をして、同じコーヒーを飲み、同じチョコレートを食べ、同じ書類に目を通す。

酷な現実が分かる前と変わらない生活。
酷な現実を知ってもその状況を変えることはできない。仕事やから。

一人で考える時間が少なすぎた。
残業を終えて、家に帰って、死ぬほど色んなこと考えたし、落ちることまで落ちたけど、それを振り払って眠りについたら、また彼との仕事が始まる。

そんな状況で、頭がまともでいられたわけがない。
今思えばやけど。
あの時は、もう必死で、心を鋼のようにできてる気になってた。決して彼に惑わされない鋼の心だと。

笑って話したりしてたけど、それは、こんな関係になる前の二人に戻れるように、戻ったふりをしなきゃいけないと思ってた。
誰にも、彼にもバレずに。

離れなければならない。もう彼に惑わされてはならない。もう、二人の時間を作らない。もう仕事以外では会わない。もう彼の言葉は信じない。もう彼の行動に一喜一憂されない。

帰り道や一人の時間はそんなことばかりを考えてた。

けど、目が覚めて、朦朧とした頭で思うのは、それでも会いたい、だった。
数時間後には会うのに。
どうかしてる。それは今もやけど。

人生で一番苦しかった夏を超えて、彼との仕事を終えて、もう会わないと誓ったあの夏も、自転車はパンクした。
わたしの中にある気持ちをぶっとばしたくて、パンクした自転車をぶっとばして、自転車屋さんへきた。
とにかく必死だった。

あの夏、彼との関係を続ける選択肢はわたしの中にはなかった。

一緒の仕事を終えて、これで会わなくて済む、とホッとしたり、寂しがったり、悲しかったり、思い出や気持ちは全然消えてくれなかったけど。

そんな決意をして、泣きながらも、立ち止まりながらも、ただ耐えた夏。

それでもわたしの決意はくだらないものだった。
決意なんていってはいけないほどのくだらないものだった。

会いたい、とは何度も何度も思ったし、たった数ヶ月の思い出が頭から消えてはくれなかったけど、
この関係を続けるなんて、そんなことはあり得ない、傲慢だ、と思っていた。

あの夏、ありえないと思っていた、とても傲慢な人間になってしまった。

決意がいとも簡単に崩れた夜を今でも鮮明に覚えている。
あの中華屋で。
隣に座ってビール飲みながら餃子を食べる彼に気をとられないように必死になり、目の前に座る人とただただ夢中で話したりした。

この店を出たら、どうなるか展開は分かっていた。

でも今日はもう、彼の自転車には乗らない。
わたしはこの店から歩いてでも帰れる。なんとでも言って、別々に帰ることはできる。

彼はいつも自転車に乗れ乗れとうるさいけど、今日は振り払って別々に帰る。

嘘つき。嫌い。早く帰って。
そして、待ってる人がいるでしょ。って言い放ってやるつもりでいた。

その言葉を頭の中で何度も繰り返していた。
中華屋にいるときから。ちゃんと泣かずに言えるように練習みたいに繰り返した。

みんなを駅まで送って、二人きりになるまでは。

二人きりになった瞬間に彼の背中を押した。
早く帰ってくれ。そんな思いだけだった。

何も言わせないでほしかった。
優しい言葉をかけられたり、思わせぶりな言葉を彼が発したら、どんな言葉が自分からでてくるか分からなかった。あんなに練習したのに。

ただ、全部を察して、彼に静かに帰ってほしかった。
バレたんならもういいや、こんなのただの遊びやん、そんな怒るなや、そんな泣きそうな顔するなや、めんどくさいな。くらいに思って、次に進んでくれればよかった。
わたしはそれを受け止めるだけの準備はしてたし、そんな奴や、って離れることができた。

夏の真っ暗な神社の前で、彼はいつものようにほろ酔いで、二人の時にしかしない顔をして、自転車に手招いていた。

そうくるか。冷静にそう思った。

それは全てを察して静かに去って行くよりも、最低で最悪でどうしようもない奴がすることだ。

わたしは何度も一人で帰る、と言った。
早よ帰って。早よ帰ったほうがいい。そんなことをひたすら一人でワーワー言っていた。

彼は顔色も表情も変えずにいつも通りで、乗れ、と手招いてた。

このまま続けていくつもりなんや。
何にもなかったかのように。

わたしがどんな思いやったかなんて、何にも気にしてないし、分かってないんやと全てが分かった。

けれど、その思いにわたしは簡単に乗っかってしまった。

今思えば、妙に冷静だった。

そっか、なんも気づいてないふりして、続けていくつもりなんや。この彼は。そうかー。ずるいなー。狡いなー。最低やな。

そしてこの今に繋がってしまった。
あの自転車に乗ってしまった瞬間から、わたしたちは終わるタイミングを逃し、ダラダラときてしまった。

わたしの決意はそんな簡単に崩れてしまうほど、しょうもないもんやったのだ。

きっと二人ともしんどいのにな。今も。

わたしは好きな気持ちを持ったまま、こんな関係を続けていることにしんどい。
続ける、も、終わらせる、もしんどい。

彼は、きっと惰性だけでわたしの元へ会いにくるのがしんどい。

なんで好きなまんまなんやろう。

最低だ、最低だ、とこの二年半思い続けてきた。

それでも一瞬で終わってしまう彼との時間は、自分の中でどれだけ大きいか思い知らされる。

彼と出会って、彼を好きになって、三度目の夏。
わたしたちの間に変わったことはなに一つない。

むしろ、好きすぎる気持ちも、会いたすぎる気持ちも、全部大きくなっている。

こんなに好きで、会いたいのに、出会わなければよかったと思う、そんな好きになり方は、悲しいし虚しいし最低だ。

薄暗くなるのが早くなってきて、
夜は少し涼しくなってきた。
わたしはこれからくる季節が一番好きだ。

いつのまにか夜が肌寒くなって、
気付いたら冬か来ていて。

まだ7月も終わりの真夏の夜に
少しだけ涼しい日があった。

その時に彼と二人で近所の道を歩いて
なんか涼しいですね、って話したことを思い出した。
真夏とは思えんな、って彼が答えて、
わたしたちは当たり前のように手を繋いでいた。

あの時間が嘘みたいに
今はとても遠くに感じる。

昨日の夜は不思議だった。
仕事関係の集まり。

四人で飲んだ。
お客さんの偉いさん一人、
我々下請け三人。
みんな会社はバラバラ。
一緒に出張に行ったメンバー。
ほんとならこういう風に、違う会社でもずっと繋がっていられることが嬉しかった。

彼もいた。

二人以外で会うのはずいぶん久々だった。

たくさんの人がいるなかでどういう風に接していたのか思い出せないでいた。

しばらく彼の存在は無視して、
久しぶりにこういう席でお会いするお客さんに久しぶりという挨拶を一頻りしてた。

視線の横には彼がいつも映っていて
わたしの意識は完全にそっちにあった。

ビールを飲み、仕事終わりとは思えないほどのラフな格好で、いつも通りの彼だった。
その格好で出勤していたのか、笑いそうになるのを堪えながら、視線から外すようにキョロキョロした。

どうやって接しよう、
話しかけないのも違うし、話すぎるのも違うし、程よく、というのがどういうものなのか分からなくなっていた。

わたしたちは誰も知らないところで、仲良くなりすぎた。

そんなことをうだうだと考えているわたしとは真逆に彼は、二人でいる時と何も変わらず、無邪気に話してくる。

そうくるか。

からかったり、文句言ってきたり、かと思ったら、ご飯をお皿にとってくれたり、自分の卵焼きを半分くれたり。

そうくるのか。

そっけなくするやり方を忘れてしまって、彼に話しかけられるといつも通りの対応をしてしまう。

ただやっぱり思ったのは、
この彼のペースや話し方や話すことや、わたしへの接し方や言動や、全てがわたしにはちょうど良くて、自然でいられる感覚が心地良い。

何も飾らなくて、マイペースのくせにみんなのことすごく見てて、何もかも対応が自然で。

わたしはいつも彼といると吸い込まれる。

わたしたちのしてることはほんとうに最低なことだけど、
誰かの側にいて、こんなにも心地よくて寄り添いたくなることはなかった。

わたしのこれまでの恋愛を彼はすべて覆した。

誰かがトイレで席を立ったことをきっかけに、わたしは彼の目の前の席に変わった。

対面してしまった。
ますますいつも通りの二人になってしまう。

焼酎が苦手なわたしを知ってて、自分の飲んでる焼酎を渡してくる。飲んでみろ、と。

いやだ、と言うわたしにお構いもなく、グラスをぐいぐいと押してくる。

渋々一口だけ飲み、すごい顔をするわたしを見て笑ってる。

全てがいつも通りだった。

ずるいな、って何回も思った。

あれこれと考えて、めんどくさいことばかりを思っているわたしを余所に、彼は至っていつも通り。

その余裕とずるさに腹立たしかったり、自分がアホみたいだと思ったり、またあれこれと色んなことを考えた。

いつもそう。
わたしばかりが考えてる。
彼はきっと気まぐれで、飄々とわたしの前に現れる。

悔しいと思うけど、どうにもできない。
わたしはきっと彼のそういうところもひっくるめて、彼の存在すべてに惹かれているんだと思う。

こんな最低なことをできる人にそこまで惹かれるのはなぜなのか。

彼の好きなところが強すぎる。
きっと、好きすぎる。

きっと、この気持ちを消せる日はもう来ない。

無理やり、自分の意思とは反対に、会わないという選択をして、どんなに会いたくても、どんなにこれまでの二人を振り返っても、思い出が美化されても、好きすぎても、
もう彼がわたしの家に現れた夜に、居留守をして拒絶しないと、それを続けないと、わたしがこの気持ちを消せる日は来ない。

それができたらこんなにも何年もこんな関係続けてない。

けれど、できない、じゃ済まされない。
しなきゃいけない。

出会わなければよかった。
去年の今頃は、
もう彼に会えない、会わない覚悟を決めて、最後の彼との仕事を終えたころだった。

あの夏、わたしはとにかく必死だった。

好きな気持ちを抱えたまま、気持ちを伝えることもしないまま、彼の思いが何も見えないままま、あの最後の日を迎えた。

この世の終わりくらいに真っ暗な顔をして、強烈な西日の差し込むバスの中で、涙を必死にこらえたことを思い出す。

正直、苦しかった。

出会わなければよかった、と初めて頭をよぎった。

二人乗りで自転車で飛ばした真夏の夜の道や、
売店で二人で選ぶコーヒーや、
真オレンジの空の下のビアガーデンや、
わたしの帰り道に突如現れた雨の日の夜こと、
思いを伝えたくなって自転車で彼を追いかけたことや、
まだ彼を好きになる前のこと、
わたしの中には消せない思い出があって、その時間はとてつもなく幸せだったけど、どこかにいつも虚しさがあった。

それでも、出会えなければ、こんなに胸が締め付けられるほど好きな気持ちはなかった、と思うとわたしたちが出会えたことは、わたしにとってはとても幸せなことだと思っていた。

苦しいことも、彼とわたしが一緒に過ごした時間があった証拠だと思っていた。

けれど、最後の仕事を終えた帰り道は、苦しくて、みじめで、消えたくて、彼と出会ってしまったこを悔やんだ。

こんなに苦しいなら、もう、いらない。
こんな思い、いらない、と思った。

もう会えない、じゃなくて、もう会わない、という選択をしなくてはいけないこと。

あの時は、もう仕事以外では彼に会うことはない、と決めていたし、自然とそうなると思っていた。

忘れたい、が半分。
彼に会いたい、が半分。

会わないことでしか解決しない。

ほんの半年間のほんの少しのお遊びだったと言い聞かせてた。

もうお互いいい大人だし、こんなことなんてことない、と思おうとしてた。

苦しいなんて言える立場じゃなかった。

あの時、わたしは正しい道を歩けるチャンスだった。
もうこれ以上彼を好きになることを、加速し続ける思いを、止めるしかないと思ってた。

あれから一年がたって、あの時の思いは今も加速し続けている。
あの時よりもっともっと二人の関係は親密で最悪のものになった。

罪悪感を見せながら、立ちくらみがするほどの幸せを感じる時がある。

最低な二人に今もなり続けている。

彼がいれば、何を失っていい。
とは思わない。

そして彼にも何も失わずにいてほしい。
これまでの彼を作り上げてきたもの全て。
 
それなら私たちはもう、離れるしか、選択はない。

今の彼は、今まで出会ってきて、触れ合ってきた人たちが作ってきた。
わたしは彼の何にもブレてない根底の部分にも惹かれるところもあるけれど、その周りに肉付けされてきたこれまでの経験や出会いや全てのものがあってこその彼を好きになった。

それはわたしと出会うずっと前から彼と触れ合ってきた出来事。

彼と出会ったこと、出会ってしまったことは、わたしの人生を大きく変えてしまうほどの激震だった。

それは良くも悪くもあったけど。

ただ一言、強烈、だった。

出会ってすぐにビビビときたわけでもなく、一瞬で好きになったわけでもなかった。

けど、一日、一日、彼のことを考える時間が増えていって、
昨日よりも今日のほうが同じ宿に帰る帰り道が嬉しくて、
昨日よりも今日のほうがホテルのロビーでの待ち合わせが楽しみになって、
昨日よりも今日のほうが彼とふざけながらラジオ体操することが楽しくなって、
昨日よりも今日のほうが並んで仕事をすることが誇りになって、
昨日よりも今日のほうがふざけながら手が触れることにドキっとするようになった。

毎日、少しずつ、わたしの中の彼の存在が大きくなって、こっちへ帰ってきてからも会うたびに好きなところが増えていった。

彼の新しい発見は全て、彼の好きなところへ繋がっていった。

去年のわたしは、どんなに傷ついても、会えなくても、誰かのことを傷つけていても、
それでもいい、とは思っていなかったけど、
彼に出会ってしまった、とは思っていなかった。
いくつもの奇跡が重なって、彼に出会えたことが嬉しかった。どんな結果になっても。

でも、この一年、いろんな事があって、いろんな思いがあって、わたしは少し弱くなった。
彼に出会ってしまった、と何度も思うようになった。

こんなことになるなら出会わなければよかった、と。

こんなに最低な二人になるなら、出会わなければよかった。
 どんなに強烈な思いを持っていても、誰かを傷つけるなら、正常な道じゃないなら、出会ってはいけなかった。

出会った意味なんて、自分の都合良いように考えて、無理やり作っているものだと思った。

こんなに人を思う気持ちと引き換えに、わたしは誰かのことを思いやれる気持ちを失ってしまったのだと思う。

自分さえよければ、という最低な思い。

最低だということを分かっているフリをして、
もう決して会わないと思っているフリをして、
彼と過ごす少しの強烈な幸せを前に、いつも周りの人たちの気持ちを知らないフリをする。

今、この瞬間が幸せだから。

強烈な幸せは、一瞬で罪悪感と虚しさに変わる。

それでも彼に会わないことを選べない。

出会ったこと、触れ合ったこと、少しでも思い合えたこと、
この一年いろんな意味をつけてきた。

でもそれは、出会った意味なんてなかったんだ、とどっかで気づいているから。
必死になってそれをかき消すように、理由付けしてきただけ。
分かってる。つもり。