時期は8月後半。まだまだ夏真っ盛りで陽炎が揺らめくような昼下がり。

 学校内でピィィィィ。と鋭い笛の音が鳴り響く。瞬間、その身は弾けるように宙に舞った。勢いをつけたその体は空気と水の境界線を音もなくすり抜ける。水は飛沫一つ上げず、波紋が広がるのみである。それも水面の揺れに紛れて見えないほどの小ささだ。潜っていく瞬間を見ていなかった場合、誰かが水中に入っていったことなど分からないだろう。

だが、一人。一人だけその瞬間を見ていた者がいた。笛を手に持った青い瞳の女性だ。だが、それ以外にその瞬間を見ている者はいない。50m10レーン。オリンピックでも使われるような規格である広大な室内プールには、水に沈んだ者とその女性しかいないからだ。

 水に沈んだ体が浮上する。するとその両腕を水から出したかと思うと水面を滑るように前に出して体ごと飛び込むように入水させ、水中で腕を回すといった動作を繰り返す。その肉体は水面あたりで上下にうねり、ぐんぐんと前に進む。

 激しい動きをしているはずなのに飛沫はほとんど上がらず、横から見てもその姿が隠れることはない。

女性はじっと泳ぐ姿を眺めている。その青い瞳はどこか焦がれているようなものがくすぶっていた。

 対岸にたどり着いた体は、壁を触ったかと思えば水中に溶け込んでいった。かと思えば空を見上げて腕を頭の上で組み、槍のような姿になったかと思うと、壁に跳ね返されるように今まで泳いだ道を逆走し始めた。

 ゆらゆらと足を動かしているだけだというのに勢いは衰えず、5m、10mとどんどん進んでいく。─そしてそのまま15mを超えてもなお浮上せずに泳ぎ続けている。

水泳の公式ルールでは15mまでには浮上して各種泳法に移行しないと反則になる。の、だが。女性は何を思うわけではなく、それが当然であるかのようにその姿を見ていた。

半分を過ぎたあたりでようやく水面から顔を出す。一呼吸するとゆるりと両腕を交互に回し、足踏みをするかのように足を動かす。今度は飛沫すら上がらない。ただその体に押し出された水が小さな波紋を広がらせるのみだ。

そのまま飛び込んだ側まで戻ってゆき、その手が壁に触れたか触れていないかのギリギリで体を丸め、水中で前転をするように体を反転させる。水中に潜ることなく壁を蹴り、水を切るように進んでいく。

 今度は5mもしない内に泳ぎの姿勢に入る。しかし、その姿はどうもおかしい。足はカエルのように横に開き、膝を大きく曲げ伸ばしして閉じるという少し奇妙な動き方をして体を前へ前へと押している。だが、腕が全く動いていないのだ。軽く手を組み万歳のように手を伸ばして水の抵抗を和らげようとしてはいるが、それだけだ。

 ただ、それでもその速度は遅いとは言えない。水が蹴られるたびにグン、グン、と進んでいく。まるで糸で引っ張られているかのように一定の速度で。

その調子で50mを泳ぎ切るところまでさしかかった。

 さて、少し規定とは離れた泳ぎ方であったがおおむね同じようなパターンで泳いでいた。バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ。で、あるならば。この後に残るは一つ。その体はどういった泳ぎをみせてくれるのか─といったところで。

泳ぎを止めた。

 顔を上げ、床に足をつける。そのまま泳ぎの際の静謐さが嘘であったかのようにザバザバと端に向かって歩き、はしごをのぼってプールからあがる。

そのまま水泳帽とゴーグルを外して手に持ち、女性の元へと歩いていく。

 黒髪黒目の精悍な顔つきをした男だ。短く刈り揃えたスポーツ刈りは水にぬれてもその形は微塵も崩れていない。

そしてその顔は晴れやかであった。途中で止めたことへ後髪を引かれるような様子は一切見当たらない。

それはそうだろう。例えルールがあったとしてもここにいるのは男女二人だけ。他に人など誰もいない。プールをどう使ってどう泳ごうが、二人がそのことに納得していれば異を唱えられる者などどこにもいない。

女性は近寄ってきた男に用意していたタオルを手渡す。男はそれをぺこりと頭を下げてから受け取り、濡れた体を拭いていった。

「逆波先輩の泳ぎっていつ見ても綺麗ですよね」

女性はそうやって、タオルを渡した男─逆波コウに話しかける。

「…うん。ありがとう。花園ちゃん」

体を拭く手を止め、照れくさそうに頬を掻いて逆波は女性─花園サナに答える。

「今日は満足できましたか」

「うん。やっぱり泳ぐと気持ちいいね。…今日もありがとう。プールの予約を代わりに入れてくれて。しかも貸し切りだなんて」

「いえ、いいんです逆波先輩。何度も言いますけど私、水泳部のマネージャーなんですから。プールが開く時間を見計らって一人分の使用許可を入れるなんて簡単ですよ」

…八月という時期で、水泳部があって、広大なプールを持つような学校で。学生であれば使用できるのに暑い日でも利用者が全くいない。簡単だと花園は言ったが、それをなすにはどんな苦労をしたのだろうか。もちろん花園はおくびにも出さないし、逆波はそのことに全く気が付いていない。

「…やっぱり水泳部に入るべきだったんですよ。先輩でしたら絶対いいところにまで行けたと思います」

少しむくれたような感じで花園はつぶやく。それを聞いて逆波は苦笑交じりの笑みを浮かべた。

「…ははは。ごめんね」

それを聞いて花園は表情を一変させる。どこか焦ったような感じだ。

「そんな、謝らないでくださいよ逆波先輩。人づきあいが苦手なら部活はただ苦痛でしかないですから」

 ただ、ちょっと先輩のかっこいい姿を皆に知ってもらいたかったです。そう花園は口の中で言葉を転がす。人づきあいが苦手と言われた逆波は少し胸を抑えた。

傷ついたことを隠すように逆波は言う。

「…うん。ありがとう。花園ちゃん。こうやって色々助けてもらっているのに恩返しとかできなくてごめんね」

「そんなことはないです。私は逆波先輩の泳ぎを見るだけで幸せですから」

「…そうかなぁ」

「そうですよ」

 でもなぁ、と逆波はつぶやく。何か返してやりたいが、その何かが思いつかないようだ。

その様子をみた花園はぱっと顔を明るくして。

「でしたら、この後私の勉強を見てください。ちょっとつまずいて分からないところがあるんですよ。それが先輩からの恩返しってことで」

ほら、先輩受験生でしょ。復習するつもりで教えてください。と花園は続ける。

「え、うん。それだったら快く教えるよ。と、いうか…本当にそんなことで恩返しになるかな。もっと何か俺にできることがあったら言ってよ」

逆波はどこか決まりが悪そうであった。だが、花園は笑みを浮かべて

「私は先輩のことが好きだからこうやっているわけですから。これでも十二分ですよ」

「…分かった。今回の分は勉強を教えることで相殺するってことで。だけど今までの分もちゃんと返すからね」

「…逆波先輩は律儀ですね」

「そうかなぁ」

「そうですよ」

 肩を並べて、出口へと歩いていく二人。先輩と後輩。男と女。そういった違いを気にすることのないその様相は隣にいることこそが自然であるような風格があった。

「そういえば勉強場所はどうしようか」

「私の家に来てください。母に迎えに来てもらっているので。ああ、お昼も私の家で食べましょうか。おいしいご飯を作りますよ」

「…なんか恩がどんどん積みあがっていくような」

花園はニッコリとほほ笑んだ。

「ちゃんと返してくださいね。逆波先輩」

「もちろん。ちゃんと受けた恩は返すさ。…そういえば、たしか花園ちゃん成績上位何位とかじゃなかったっけ。つまずくところなんてあるんだ」

「…どれだけ成績がよかろうとつまずくところはありますよ」

「それもそっか」

助け、助けられる二人の世界。この世界は、卒業するその日まで続いていくことだろう。

「そういえば先輩ってどこの大学行くんでしたっけ」

「○○大だけど。一体どうしたの」

「…一年間、待っていてくださいね」

…あるいはその先もずっと続くかもしれない。