本日の午後、この一つ前の記事で書いたおじぃさんとおばぁさんに電話をかけたところ、お二方とも元気そうでした。
良かった。


5月27日。午前八時半に起きる。眠い。しかし、外は疑う余地のないくらいに晴天だ。車内も暑くなり始めている。後一時間も経てば車内はサウナ状態になっているだろう。

昨夜は青森県の何処かの道の駅で泊まった。山の中の道の駅だったことは覚えているけど、それ以上のことは覚えていない(何処だったかな~・・・)。

朝食を簡単に食べて出発。その後海岸線沿いにひたすら南下する。今日はこれから気仙沼市に向かう(こちらを参照)。出来れば、ラジオ体操をしてから会いに行きたかったのだが時間的にそれは無理なので直接向かうことにした。

午後一時半頃に気仙沼市に到着。ラジオ体操をしていた公園の駐車場に車を駐め、お土産を持って家に向かった。約八ヶ月ぶりに来たが、迷わずたどり着けた。高台の上から見る景色は以前と全く同じだった。
玄関の前に立ち、深呼吸を一度してからチャイムを鳴らした。しばらくして出てきたのは予想に反しておじぃさんだった。あの時と違ってとても元気そうだった。良かった。
話を切り出すと、おじぃさんはすぐに思い出してくれた(ホッ)。しかし、おばぁさんは買い物に出ているとかでしばらくは帰ってこないようだった。
「いつ頃帰ってきます?」と私。
「後三時間半ほどかな~・・・」とおじぃさん。
「そうですか・・・」
三時間半か~・・・どうしよう(つかどんな買い物なんだ?)。
ただでさえ時間がギリギリなのだ。でも三時間半ならなんとかなるやもしれない・・・

う~ん・・・・・・

で、結局そのままお土産を置いてそのまま出発した。さすがに三時間半も待てない。会えなかったのは残念だが致し方ない。ま~、おじぃさんに会えただけでも良かった。

午後五時半頃、私は仙台市内を走っていた。すると突然携帯が鳴り出した。ディスプレイを見ると、見知らぬ番号から電話がかかってきていた。出てみると、気仙沼のおばぁさんだった。驚いた。かなり驚いた。去年電話番号を教えたことをすっかり忘れていた。

そのまま近くのコンビニに無理矢理入って車を駐め、おばぁさんと話をした。おばぁさんの声は、あの頃とちっとも変わってなかった。声を聞くだけでおばぁさんの笑顔が浮かんだ。懐かしさのあまり、目が潤んできた。涙声を必死で押さえていたが、完全に押さえ切れた自信はない。私はこの世にテレビ電話が普及しなかったことに感謝した。
私が仙台にいることを知ると、おばぁさんはかなり残念がっていた。
「またいつでも遊びにおいで。いつまでも待っているから」とおばぁさん。私はただありがとうとしか言えず、おばぁさんを待たずに出発したことを後悔した。

二十分後に電話を切った。
いつか必ず気仙沼市に戻ろうと強く思った。

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5月26日。朝七時に起きる。寒い。トイレに行った後に再び眠る。九時十分頃に再び起きる。
昨夜は道の駅「横綱の里ふくしま」の駐車場で泊まった。この道の駅のすぐ近くに「福島大神宮」という場所がある。ここにもお礼を言うべき人(夫婦)がいる(こちらと、こちらを参照)。昨夜の八時くらいには着いていたのだが、そんな夜中に行くのはちょっとどうだろう?ということで朝まで待ったわけなのだが、結果的に見れば夜だろうが、朝だろうが関係無かった。

お土産を持って福島大神宮に向かった。神宮から五十メートル程離れた場所に家があり、その玄関には誰かが亡くなったことを示す紙が貼られていた。その紙を見て体が固まった。二、三分その場に立ちつくして紙を見ていたが、なんて書いてあったかいまだに思い出せない。漢字二文字だったことは覚えている。
(あ、そっか。ここは神社だから葬式もやってんだな・・・)
そう考えると、ようやく体が動き出した。それでも、玄関の扉を開ける勇気は出なかった。第一、自分でもその仮説(と言うにはあまりにもろい)を信じていなかった。
玄関の扉を開けるかわりに散歩をした。乳房桧(ひのき)、土俵、神社の順に歩いた。懐かしかったが、気分は晴れなかった。五分程しかかからなかった。そして再び玄関の前に戻ってきた。しかしまだ扉を開ける勇気は出ない。出来れば誰か出てきてくれないかなとも思ったが、結局誰も出てこなかった。

さらに数分が経ち、ようやく決心した後で玄関のチャイムを鳴らした。地獄の扉をノックするような気分だった。
出てきたのは予想に反して若い女性だった。喪服ではなく、私服だったのでホッとした。恐る恐る事情を説明すると、
「あ~、父から話を伺っています」という返事だった。その返事にホッとした。また、彼女の後ろから見覚えのあるおばさんが出てきた。奥さんだ。十ヶ月ぶりが、すぐに判った。彼女も普段着だった。しかし・・・
常盤井さんは二日前の早朝、心筋梗塞で亡くなられていた。

「やっぱり・・・・・・」

それ以外の言葉を思いつかなかった。それでも細々と話していると、自然に涙が出てきた。言葉が出なかった。涙が止まらなかった。どうすればいいか判らなかった。
家の中に入れてもらい、遺影に手を合わせた。お土産がお供え物になった時は胸が痛んだ。話を聞くと、お葬式も通夜も既に終わり、昨日お骨になって戻ってきたそうだ。あらゆる意味で間に合わなかったわけだ・・・
遺影の前に座りながら奥さんと話していたのだが、正直、何を話したか覚えてない。100%うわの空だった。体は確かにそこにあったが、心は幽退離脱したみたいにどこかに飛び出していた。そういう意味では奥さんに申し訳ないことをしたと思っている。ただ、
「呼ばれたんだよ、きっと・・・」の一言が妙に頭に残った。

遺影に手を合わせた後、早々に家を出た。本当はもっといたかったのだが、色々と忙しそうだったし(他にもお客さんがいっぱいいた)、フェリーの出港時間も迫っていた。簡単にお別れの挨拶を言い、泣きながら車を運転した。涙で前が曇ってよく見えなかった。今思えば、事故らなかったのがとても不思議だ。奇跡と言っても良い。

無事にフェリーに乗り込む。フェリーの床に寝ころんで本を読んでいると、いつの間にか眠ってしまった。
そして夢を見た。

私はうっそうとしたジャングルの戦場にいて、大きなテントの下で座っていた。
テントと言っても、ちゃんとしたテントではなく、天井部分しかない簡易テントだ。そのテントは縦三メートル、横十メートルくらいの大きさだ。かなりでかい。そのテントの下には簡素なテーブルと椅子が並んでいる。テーブルの上にはこれまた巨大な通信機(無線?)が置いてあり、私は通信兵として本部とモールス信号で通信していた(古いな)。内容は覚えていない。机の周りには、戦友が十人くらい座っていた。お喋りをする者、昼食を食べる者、トランプか何かで賭け事をしている者、真剣にチェス盤に向かっている者等がいた。私はそんな彼等のことを無視して一心不乱にモールス信号をうち続けた。
通信が終わり、何かの用事でテントを出る必要が出た。
「気をつけろよ」と戦友の誰かが言い、私は無言で片手を挙げてそれに応えた。振り向きもしなかった。テントから一歩外に出、赤道直下の焼け付くような太陽に照らされた瞬間に頭を撃たれた。

後方からの射撃だと気付いたが、何故か前に倒れずに後ろに倒れた。倒れた瞬間、背中に衝撃が走った。
真っ青な空を見ながら戦友に対して「気をつけろ・・・」と言おうとしたが、言葉にならなかった。口を開くことさえ出来なかった。その直後、全身がしびれだした。頭から足の先まで弱電流が流れているような状態になり、私は死を意識した。
(そっか。私は死ぬのか・・・)
と思い、目を閉じて静かに死を待った。その数秒後に目を覚ました。

目を覚ますと、悲しくもないのに、涙が止まらなかった・・・

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