それからは、意図的に帰宅時間を替えて――と言うより、電車の乗車時刻をずらしたためか、和之と遭遇することはなかった。

 時間をずらすのも、いつもの電車の時刻より、30分早くしたり、1時間遅らせたりと、同じ時に偏らないように気をつけていた。

 ……わかっている。

 逃げて、いるのだと。

 和之から、彼から。

 どうして私がそんな気遣いをしなければならないの。と、腹立たしくもあったけれど。

 じゃあ逆に。いつもの時刻の電車で、和之と遭遇して。
 平然としていられるかと聞かれたら……口をつぐむしかない。

 ホント言うと……怖い。
 また、いつかのように、和之に求められるような、状況に陥ったら。

 その手を、振り払えるのか。
 断固として、拒否できるのか。

 ……自信が、なかった。

 っ、じゃなくて!

 うつむきそうになる心と顔を、「えいっ」と意気込んで上を向かせて。
 拳を握り締めて「また何かしてこようとしたら、殴りつけよう!」と、後で考えると、結構理不尽なことを考えていた。

 けど、この時は本気だった。

 それくらい、和之に流されそうになっている自分を……感じていたから。

 そうして、気概を奮い立たせた、時だった。

 パンっ!

 と、小気味よく、甲高い音が駅のホームに響いたのは。

「いい音」だけれど。

 自分の身に起きたわけでもないのに、痛みを覚えてしまう。

 耳にした音に、反射的に肩をすくめて「……痛そ~」と胸のうちでこぼしていた。

 そうしてそろりと、音の原点をうかがい見て。

 え。と。

 驚いてしまう。

 はたかれた小気味のいい音で、周辺から視線を集めている、その中心には。

 赤くなった頬を、ぬぐうようにこすった和之と。

 いつかの、白いコートの女性が。

 和之の頬をはたいた格好で。
 上気して真っ赤になった頬で。

 和之を、にらみつけていた。


         ◇◇       ◇◇


 それから和之は、残っていたコーヒーを飲みきると部屋をあとにした。

 一人きりになった部屋で。

 和之が部屋を出て玄関のドアを閉めてから、ほう、と我知らず、吐息がこぼれてしまう。

 意識したわけではないけれど……自分でも知らないうちに緊張していたようだった。

 あとになって、よくよく考えれると。

 いろいろと腑に落ちないところがあって、その日の出来事を思い返すたびに、自然と眉を寄せてしまう。

 和之が何をしたかったのかが、イマイチ、わからなかった。

 私の身辺調査?
 けど、何のため?
 もう、何の関わりもないのに――。

 その、答えに行き着くと。

 寄せた眉がさらに間隔を縮めて、眉間に皺が生じてしまう。

 ふと、思い出すのはいつかの和之の腕の中。
 触れた唇。
 そして、告げられた言葉。

 都合のいい関係を、暗に匂わせられているようで……何ともいえないわだかまりが胸の奥に生じた。

 身を強張らせていると、クッ、と和之は低い声で笑った。


 喉にこもるその声は、明るいものでなく、皮肉を含んでいるように聞こえる。


「……なんてな。

 こんなことになりかねないんだ。

 男を部屋に上げるときは、用心したほうがいいと思うけど」


 そう言いながら、つかんでいた腕から指をそっとはずした。


 戒めから逃れた腕を自分のそばに戻して、互いを互いでかばうように胴にからませながら、無性に悔しくてしかたなかった。


 和之の物言いは。

 私が無防備すぎると指摘しているように聞こえてならない。


 私だって。

 よく知りもしない人を部屋にあげたりなんてしない。


 理由もなく、部屋に招いたりしない。


 ただ、今回は和之だったから。

 たとえ昔の関係であっても、その性格をよく知っている彼だったから。


 無理強いなんて、することないと思っていた彼だったから。

 迷いを感じつつも部屋に招いたのだ。


 そんな葛藤があったことさえ、和之はなかったように話している。


 人の気持ちも知らないで。

 と、悔しくてならなった。


 だいたい。


「……そっちが、言い張ったんじゃない」


 部屋に入れるようにと。

 そうしなければ、私が知りたいことを話してくれそうになかったから。


 だから部屋にまねいたのだ。


 それだけの言葉だったけれど、和之は私の意をくんでいた。

 

「交換条件のこと?」


 つぶやく声にもまた、低い笑いがこもっている。


「それでも志穂なら。

 部屋にあげることなかったよ。

 そんな条件、のむくらいなら知らなくていい。

 ……とか言ってさ。

だから少し、期待、したところもあるけど」

「なにバカなこと――」


 口元だけで笑う笑みを浮かべながら告げる和之に。

 間髪いれずに否定したけれど。


 和之への想いを見透かされたようで。

 どきりと鼓動がはねていた。