雨上がり、虫かごをもって兄弟は家をでた。



雲が薄くなっていき、空が明るくなっていくなか、セミがあちこちで鳴き始めて騒がしさと蒸し暑さはどんどん増していく。



二人はほとんど話さずに黙々と歩いていった。



目的地の林につくと、その一画にシオカラトンボの墓をつくった。



墓に手をあわせていると、すっと何かが横切って、傍らの草葉に停まった。



 



「友だちかな」



「弔いにきたのかもな」



「逃げないね」



「捕まえようとしないからだろうね」



 



進の囁きに、静かに守は答えた。



目の前のシオカラトンボは翅を下ろしたまま震わせてはいたが、そこから飛びだとうとはしない。



 



ふいに進が守の腕を掴んで、指差したさきの東の空には大きな虹、それも二重に架かっていた。



だんだん高くなる空のなか、ゆらめきながら、鮮やかさを増していく。



「虹にも願いごと、たくさん書いてあるのかなあ」



進はじっと虹を見つめながら、つぶやいた。



「ああ、大勢の人の想いが天に届いているだろうね。いや、お祝いかもな、進の」



守はしゃがんで進をまっすぐ見つめ、頭を撫でた。



 



「進、誕生日おめでとう。



進が生まれたころも雨上がりで、その晩は星がきれいだったよ」



進はくすっと笑いかえした。



「兄ちゃんはなぜ宇宙へいきたいの」



「誰もみたこともないような光景のなか飛んでみたいからね」



「あの虹よりも遠くへ」



「ああ。いや、虹は光の屈折、まやかしでそこにあるように見えるだけ、兄ちゃんは本当にある星へ行くんだ」



兄の視線からはずした進は、虹を切なそうにみつめながら囁いた。



「はるか遠くへ行っちゃうんだ」



肯こうとした守だったが、背後からの声にさえぎられてしまう。



「おおい、こんなところにいたのか」



じっと虹を眺めていた二人に父が声をかけた。なにか長い棒みたいなものを抱えて、こちらへ走ってくる。



 



「帰ったら誰もいないので、心配したぞ」



やや乱れた呼吸、父はどうやら小走りできたらしい。



「進、誕生日おめでとう、プレゼントだ」



それは捕虫網だった。



 



ほら、この網は柔らかいから虫を傷つけずに、こうやって、くるっと廻すだけで網の奥に虫が入って簡単に捕れるって。



 



つづく父の説明に進は目を輝かせながら、二人で網を振りまわすのを黙って守はみているしかなかった。



 



いつも忙しくて、ゆっくり話す機会もなかなかない父が、欲しいものをくれたうえに一緒に遊ぶので進は嬉しそうにみえる。



幼いころの僕はもっと父と遊んでいたような気がするな。



そう思った守は邪魔をしてはいけないようなに思えたのだ。



 



進には網が大きすぎて、うまく使えないようだった。



ふっと飛んできたトンボを、進が手にしていた捕虫網を父が掴みあげ、それを振って絡め捕る。



「オオシオカラトンボだ」



ひとしきり進が眺めるのをみて、いつもよく見ているのに飽きないもんだと守は感心した。



 



「こうすると、きらきらしているよね」



父と兄に向かって、差し出すようにみせながら進は嬉しそうに言った。



「翅が虹みたいに光ってるな。さっき大きな虹でてたぞ、みたか」



父は息子たちに虹をみせたくて、探し回っていたに違いない。



 



みな口々に、鮮やかで、大きく、きれいだったねと言いあった。



明日は父が休みだと知ると、進は父にトンボ捕りへ連れていってほしいとねだり出した。



「朝は何時にしようか、守」



「え、試験があるから、行かないよ」



いきなりの父からの誘いに、守は狼狽しながらも断った。



「父さんと二人で捕りに行けばいいだろう」



「ちょっとぐらい、遊んでもかまわんだろう」



 



もうそろそろ受験や進路のこともあるから、勉強時間を増やしたい。そして、今年は夏季講習で忙しくなることを父に告げた。



 



「父さんにも相談していたけど、夏休みの予定や進路のことは」



非難がましい口調の守を、父は穏やかにほほ笑みながら諭すように言った。



「ああ、知ってるよ。朝早くとか、休みの日ぐらいはつきあいなさい。それに守、お前がプレゼントしたのも虫捕り網だろう」



「安物ですけどね、父さんのに比べたら。まだ進にあげる前だったのに」



「それは悪かった。すまん。お詫びに父さんの分のケーキを守にあげよう」



「いらないよ」



それを聞いた進が父に飛びついた。



「ケーキ、ぼくにちょうだい」



下の息子の頭を撫でながら、いいよとうなずくと父はまた守に向き合い、囁いた。



「忙しくなってくるだろうけど、頼むよ。それにお前も遊びにでかけるのは楽しかっただろう」



進が目を凝らすようにして見てるのに守は気づき、わかったよと言うのがやっとだった。



 



ねぐらの林へ帰る鳥のさえずりがけたたましくなっていくなか、夕闇は暗さを増している。星もいくつか瞬き、明るくなっていく。



 



帰ろうとして、守はふと気づいて尋ねた。



「進、トンボは」



「もう逃がしたよ」



不審な眼差しでみつめる父と兄に進は告げた。



「だって、また捕りにいくから」



進は二人の前に立った。



「お父さん、お兄ちゃん、ありがとう」



楽しそうに言うと、進は駆け始めて家路へつこうとする。



守は追いかけるように後へつき、父はゆっくりと大きな歩幅で続いた。



 



紺青から漆黒の空に浮かぶ星を眺めながら、守は思った。



 



今年の夏は格段に忙しくなりそう。それも何か心躍らせることがたくさんありそうな気がしてならない。