そして、中学生になると、我を忘れるほど熱狂的に信奉したヒーローは “金曜日よりの使者”アントニオ猪木となった。
 しかも、猪木は当時32歳の全盛期。
 この本に描かれる4つの異種格闘技戦はいずれも忘れがたい。
 特に6月26日のアリ戦は、普段は一握りのプロレスファンの密かな楽しみであるはずなのにクラス中が注目していた。
 試合は土曜日に開催され半ドンで授業が終わると必死で家に帰って見た。
 そして、その世紀の茶番劇と称される盛り上がりに欠けた展開に頭を抱え、月曜日にはクラスの中でプロレスファンは嘲笑の対象になった。

 76年の猪木を知っている昭和のプロレスファンにとってアリ戦で傷ついた、<対世間>へのルサンチマンは根深い。どこかで我々、プロレスファンは自分自身を正当化されたがっていた。
 そのためにも、活字や理論に飢えていた。


 まだ『ゴング』も『プロレス』も月刊誌であった時代、週刊ペースの情報を得る為に、倉敷から岡山へと通学へ通う電車の中でエロ広告に目を顰めながら『週刊ファイト』を熟読し、その後、30年の付き合いとなる愛読紙となった。
 当時、新日本プロレスで繰り広げられた「猪木vsシン」の過激すぎるドラマの舞台裏を併走し、一方的に猪木に肩入れしていたのが『週刊ファイト』の紙面であり、その名物編集長が井上義啓、通称I編集長であった。

 『週刊ファイト』が大阪と言う辺境で、編集長が一人で全てのページを執筆するという手法で作られた紙面は“井上文学”の同人誌とも言うべき様相を帯び、そこに綴られた独自の美文である“井上文体”を確立していた。
 中・高時代、俺は本気で、この新聞の“ボンクラ記者”を夢見て、ファイトの編集部にI編集長の文体を自分なりに模写した投稿を送っていたほどだ。

 俺がプロレスラーになりたいという子供じみた夢を諦め、後の芸人志願が芽生える以前、俺の自己実現願望の一つはルポライターであり、また編集者であったのは竹中労と共に、確実に井上編集長の影響もある。

 やがて、このプロレスを暗喩とした“井上文学”は、村松友視、ターザン山本へ受け継がれ“活字プロレス” と言う独自のジャンルを生む萌芽となる。
 そして、もう一つ『週刊ファイト』は、また別方向に人材を生み、そして今に至る因縁を俺に与えている。
 当時、同志社大学のプロレス研究会で、ミニコミ誌である『レスリング・ダイジェスト』の編集長をしていたのが田中正志氏(現・タダシ☆タナカ)である。


 大学生が作るミニコミ誌でありながら、当時、猪木のマネージャーであり“過激な仕掛け人”として知られた新間寿に単独インタビューを敢行する、その大胆不敵なスタイルに目を見張った。
 そして田中氏が通訳として井上編集長の下、編集作業を手伝った『週刊ファイト』の増刊『タイガー・ジェット・シン』特集号は、当時のプロレス報道では出色の出来であった。


 なにしろ札付きのヒールとして取材不可能のキャラクターを固めた、シンのインタビューを取り付け、その出自を語らせプライベートに潜入、そしてインドではなくカナダにある豪邸にまで取材するというスクープの連続であった。
 いつしか、俺は田中氏に手紙を書き文通が始まり、やがて俺が住む岡山県の倉敷へ来訪し、田舎の高校生の俺と“喫茶店トーク”よろしくプロレス話を長々と語り合ったこともあった。


 やがて田中正志氏は、大学を卒業すると証券マンとしてアメリカに渡っていった。
 在米10年を経て日本に帰国後は田中氏は“活字プロレス”に対抗して、より過激な“シュート活字”なるスタイルを標榜してペンネーム、タダシ☆タナカとしてプロレス・格闘技ライター業を始めた。
 ミスター高橋本より、いち早く「プロレスはショーである」の前提で書かれた“シュート活字”は刺激的ではあったが副作用も強かった。
 特に村社会の典型であるプロレス業界的には明らかに早すぎた。

 今、公平に見ても、氏の一連の著作、特に2作目の1997年に出版された『開戦!プロレス・シュート宣言―最強エンタテインメント格闘技』(読売新聞社)は、プロレスの枠組みで見る日米の比較文化論として読め、知的好奇心溢れる名著であると思う。

 

 

 

 しかし、押しの強いアメリカナイズされた本人のキャラクターもあるのだろう。情報収集、情報開示の方法論も今までの慣習に無いやり方を通し、多くの関係者に反発を喰らい、その後の数々の著作も、本人が望むような評価を受けることは無かった。


 それ故に、プロレスマスコミ業界の中で孤立し“シュート活字”はジャーナリストを装う、まるでトップ屋まがいの暴走が続いた。


 俺にすら身に降りかかる火の粉もあったが、それでも、俺は田中氏に自主的にいくつかの仕事現場を紹介し、また関係者との接点を作りトラブルメーカーとして彼が巻き起こした騒動のケツを拭くことになった。
 それも、俺自身は10代のどん詰まりの青臭い俺と、文通し、我が家まで訪ねてきてくれた恩義を感じていたからだ。

 そして、昨年、そのタダシ☆タナカが引鉄を引いた“活字の銃弾”が『週刊現代』に掲載されPRIDEスキャンダルが巻き起こった。


 その結果、フジテレビがPRIDE中継を突如、休止した。
 俺たちが司会をつとめる『SRS』が長い時間をかけて育ててきた大事なソフトであり、この理不尽な決定は俺の大切な仕事仲間を深く落胆させた。
何よりも俺が仕事を越えて、その観戦が人生の生きがいの一つであったPRIDEが、俺の目の前から去っていくという天変地異を経験し、心底、怒りに震え、裏切られた想いがした。

この一件で、10代の頃からの30年の友情は全て消えた。
それは、『1976年のアントニオ猪木』の第2章で語られるような、ルスカとブルミン、ドールマンの絆の亀裂のように決定的なものであった。

 

 中学時代に読み始め、30年間も読み継いだ『週刊ファイト』も昨年9月に休刊された。
 後を追うかのように元・編集長であった井上義啓氏も、昨年12月13日に亡くなられた──。
 最後まで、井上義啓氏はアントニオ猪木への偏愛を語り続け「昔の新日本にはガチが混ざっているんだよ。猪木が試合でスリーカウント入れられた時に、入っちゃたって驚いた顔してるのあるやろ、あれガチや!」などと真顔で言い放っていた。


 猪木に魅入られ人生を狂わされ、そして、多くの人生を狂わせた凄腕の書き手であった。
 俺がいかに、この井上義啓氏の文章に薫陶を受けたかは今年3月に出版された『活字プロレスの哲人・井上義啓追悼本・殺し!』(エンターブレイン)に文章を綴った。

 

 

 

 1977年、その『週刊ファイト』に中途採用されると井上義啓編集長の門下、編集の極意を学んだのはターザン山本であった。
 80年、ターザンはベースボールマガジン社に移籍。83年『週刊プロレス』が創刊されるとターザン山本の才能が開花する。


 80年代を駆け抜け、90年代、かの『週刊プロレス』の黄金時代、ターザン山本編集長は「俺が猪木だ!」という狂執に駆られ「猪木なら何をやってもいいんだぁ!」と自己暗示に浸りきり雑誌を完全に私物化し、驚異的な売り上げ部数と共に自ら狂い咲いた。

 この「俺が猪木だ!」という狂信的な思い入れ自己同一化こそ、井上義啓編集長が『週刊ファイト』の“花のボンクラ記者”であった、若き日のターザンに刷り込んだ遺伝子であった。

 もちろん、読者である俺も狂った。
 『週刊プロレス』を一時でも早く手にしたいと切望し、毎週木曜発売の前日に入手し、一文字残らず読み漁った。
 そのターザン山本が編集長の座を辞し、葛飾の立石で浪人暮らしを始めると俺たちと急接近し、共に本を作り、共にお笑いの舞台に立ち、共にラジオやテレビのレギュラーをつとめるようになる。
 時にはターザンを舞台で全裸にせしめ、時にはFMWのリングの上に、レスラーとして送り込んだ。


 30年前には思いもよらぬことであった。
 特に1999年4月12日、猪木vsシンの抗争を再現させるためターザンが俺たちを新宿伊勢丹前で襲った路上襲撃事件は我々の体内に流れる“アントニオ猪木”を体現するために決行した蛮行だが忘れることが出来ない。

 いったい、俺たちは何のためにこんなことをやっているのか?
それは、猪木ごっこという、“禁じられた遊び”だったのかもしれない。

 

 

 

 さて、ファイトが専門誌であるなら、一般層にまでアントニオ猪木の存在に言葉の意味を与え、プロレスにサブカルの要素を吹き込むのは、1980年に出版された、村松友視の『私、プロレスの味方です』(情報センター出版局)である。

 

 

合本私、プロレスの味方です (ちくま文庫)

 

 

 80年はタイガーマスクの登場と共に古舘伊知郎実況の煽りで視聴率も急上昇を記録し力道山以来の第2次プロレスブームに火が付いた。


 そんな時代背景で生まれたのが、この本であり、副題が「金曜午後八時の論理」なのだから、当然、書かれているのは猪木論であり新日本プロレス論である。


 まだ、当時、中央公論の編集者であり、後に直木賞作家となる村松友視のデビュー作でもあった。
 この一冊が“プロレス八百長論”なる世間の冷ややかな見方を吹き飛ばした。
 “プロレスは不真面目にも真面目にも観るものじゃなくクソ真面目に観るもの”であり、“プロレス者(もの)”にとって、プロレスとは“勝ち負けではなく強さを競い合う”“他に比類なきジャンル”であり“過激すぎる”猪木の下に、“凄玉”のレスラーが揃ったのが新日本プロレスであった。

 後にプロレスを語る専門用語(ターム)となる言葉が羅列された、この本は猪木がスーパースターでありながら常に意識し続けた対世間用の「理論武装」を我々、昭和のプロレスファンも、この本で装備したのである。

 その村松友視氏と俺が初遭遇するのは高校3年生の時だ。


 新日本プロレス サマー・ファイトシリーズ最終戦の後、俺の地元、倉敷で追撃戦が急遽、組まれた。
 本が出版された、数ヵ月後の1980年7月25日のことである。
 会場の倉敷市営体育館は、駅から遠く離れ瀬戸内海よりの水島地区にあり、地方でも、より辺鄙な場所にあった。
 もはや新日本プロレスというより新日本紀行といった風情である。
 その日のメインが猪木&長州組 vs バッド・ニュース・アレン&シン組。
 何故、こんな水島くんだりまで村松友視はやってきたのか? 
 今もってわからぬが、まだ、顔も知られていない頃だろうが、会場に、そのダンディーな中年男性の姿を見つけると俺は声をかけて仲間と一緒に写真を撮ってもらった。
 突如、少年ファンに囲まれ、ご本人も「よく、わかったねぇ」と照れながらの一枚であった。
 写真を見るたびに、よくぞ当時の段階で、その顔を見て村松友視と認識できたものだと我ながら感心するのである。

 そして、30年の歳月が流れた。
 思春期に俺に影響を与えてくれた人には、仕事柄、もはや、ほとんどの人と対面を果たしてきたと思う。
 しかし、村松友視氏とはリングスの会場などで、すれ違ったり、会釈をしたことはあるが、いまだ会わないままだ。

 一昨年、俺はロッキンオン社から、書評本『本業~タレント本50冊、怒涛の褒め殺し』を出版した。

 

 

 

 

 この本は、“日本初のタレントに寄るタレント本評論”として、旬が短く、儚く読み捨てられ運命であるタレント本を“タレント本は不真面目にも真面目にも読むものではなくクソ真面目に読むもの”というテーマで書かれている。


 “褒め殺し”と謳ったが収録した本の全てを連載時から、再び精読しなおし、言わば“褒め生かし”の言葉を選んだ書評本であった。
 この書評本の『本業』に対して『男の隠れ家』2006年2月号で「2005年最も印象に残った本」として書評に選んでくれたのが村松友視氏であった。


 短いスペースだが「そこで取りあげる矢沢永吉から杉田かおるを経て佐野眞一を通過し、野中広務にいたって杉本彩に舞い戻り、そしてビートたけし世界さえめぐる、すべての〈タレント本〉に対するアングル、スタンス、距離感に感服」との一文を頂いた。
 この書評は嬉しかった。

 

 

 (文春文庫版・解説は村松友視)

 

 

と批判してみせた、ルポライター・竹中労を描写している。そして、以下に続く、


「それにしても竹中労体験というのは不思議だった。“過激すぎる”という言語矛盾のような処理をされていた世界に対し、“あれは過激ではない、保守的だ”という一見逆説めいた言い方をして口火をつないだ。これはたぶん、追いつめられ密閉された世界に針の穴のどの通気孔を見つけ、そこから命がけで脱出しようという鬼気せまるセンスかもしれない。そのセンスを講談めかしたプランで、竹中労・平岡正明という名文家が協奏するのだから、面白ければ面白いほど凄味漂ったというあんばいだった。しかし、その凄味さえ、穏健な時代のいきおいは水面から押し隠れてしまうほどだったのである。だが、読本的なポーズをとりながらも実は劇的な思想であった「窮民革命」は、当然のこととして私に後遺症をのこした。時代が穏健へと着実な道を進むほどに、躰のなかの“一騎当千”の存在への希求はふくれあがる一方だった。しかし、そんな存在がこの世にいるはずもなく、後遺症をかかえた私の気分はズボンのオナラ、右と左へ泣き別れるのみだった」と書き繋ぎ、アントニオ猪木こそ、穏健な時代の、本物の“過激すぎる一騎当千の盗賊”と見立てようと決意するのだ。

 

 

 

 

 

 この村松友視の思考の流れが俺の躰を通り過ぎている。
 なぜなら、竹中労は10代の俺をしてルポライターの道を夢見させ、そして芸人になってからも、まるで原点回帰のように俺に本業の芸人稼業の傍らで業のような“本業”、つまり文章を書かせるモチベーションを与えた張本人なのである。


 この当時、村松友視は、プロレスを“格闘技の鬼っ子” と呼び、「プロレスを蔑視する世間と対決する……このことの意味は明らかだ。プロレスを蔑視する世間に対し、ではおまえは、何を神聖視し、重視しているのかという問いを逆照射することにこそ、これだけ蔑視、軽視されつづけたジャンルの真骨頂がある」
 と書いているが、もはや、本当の格闘技興行が生まれた現代には、この言葉は通用しない。


 さらに、この本のあとがきで、村松友視は、この2年間でプロレスに関す書き下ろしで裕に1500枚も書き、言いたいことは言い尽くしたから「プロレスに関する文章の一切を休止する」と宣言するのだ。

 あれから25年、村松友視は、今、この『1976年のアントニオ猪木』を、どう読んだことだろう。

 

 そして、アントニオ猪木は1998年4月4日に引退──。
 その後も、PRIDE・プロデューサー業に請われ日本マット界の象徴として存在感を示した。


 しかし、プロレスの格闘技化を推進すると同時に、その裏腹に自らの創設した新日本プロレスを壊し続けた。
 それも、俺には猪木特有の自傷行為に見えるし“暗闇に卍固め”を彷彿させる。

 23歳で俺が芸人になってから、何度かアントニオ猪木とは番組を共にした。
 インタビューアーとして話も聞いたこともあった。


 そればかりか、プライベートでもPRIDEの怪人・百瀬博教氏を密着取材していた俺は、何度か、ホテルでアントニオ猪木と食事の機会があり、また赤坂のバーで、一緒にカラオケを歌ったこともあった。
 また、俺の猪木信者としての最大のハイライト、いや、サプライズの桧舞台を経験したのは2002年8月28日、国立競技場「K-1 Dynamite!!」だ。


 今も記録が破られていない、格闘技史上未曾有の9万人の観客が集めた大イベント。
 そして、この日の目玉のアトラクションが、地上3千メートル上空からスカイダイビングで、猪木が降ってくるという趣向であった。


 前半終了後、ざわつく会場に、パタパタパタとヘリコプターの回転音が響き渡り、照明が落ちると、炎のファイターの旋律が流れ、猪木BOM-BA-YEの大合唱が湧上る。
 猪木降臨──。


 放送席の古館伊知郎は、かつて猪木と二人三脚で昭和のリングの熱狂を世に伝えた現代の闘いの語り部であり、渾身の実況。そのなかをパラシュートが大きく旋回して、急激に下降、そして見事にランディングした。パラシュートを素早くはずし小走りでリングインする猪木。そしてマイクを手に取り、第一声、「馬鹿野郎ォ!!」地上3千メートルから降りてきていきなり「馬鹿野郎ォ!」とは?


 そして「俺は今、怒っている……」!とマイクパフォーマンスを始め、最後は、我らがお題目、「1、2、3、ダッー!!」で締めた。


 リングの挨拶が済むと、いつものように猪木がリングサイドへ。その間、リングと椅子の狭い通路で、俺とすれ違う。一瞬、猪木と目が合う。


 その時──。なんの予告もなく、バチ――ンンンンン!!
 なんと、猪木が俺の頬に、突如、落雷のような闘魂注入ビンタを放った。
 俺は「ウギョオオオゥウアアウウー」と悲鳴を上げて崩れ落ちた。

 猪木教徒としては全国各地で繰り広げられた数々の猪木ビンタのなかでも、とりわけ霊験あらたかな教祖のシャクティパットではある。他に類の無い闘魂遺伝子が注入された瞬間に違いない。
 それでも、何故、あそこで、あのタイミングで観客、9万分の一の確率で俺に容赦のないビンタしたのだろうか?今もって謎なのである。


このときの模様も『お笑い男の星座2・私情最強編』に詳しく書いた。

 猪木と面と向かい話している自分──。


 既に、大物馴れしているしルポライター精神でいつもなら、づけづけと質問攻めにする俺なのだが、さすがにアントニオ猪木を目の前にすると、人酔いして夢見心地でロクに自分から話も出来なかった。


 それは、まるで格闘技ファンの小説家志望の一青年であった『男の星座』の主人公・梶一太(梶原一騎)が、大山倍達や、力道山との邂逅を得ていくような劇画的なストーリーでもあった。

 

 

 

 

 『1976年のアントニオ猪木』を読んで、寄せては返す波のように、さまざまなことを思い返した。
 時間の流れに遡行し、過去に想いを沈めた。


 今回、猪木を仰ぎ見た「1976年」、14歳の時から、こうして無秩序に無作為に猪木にまつわる思い出の渦を整理しないまま書き出してみた。


 時間さえあれば、ディテイルを細かく無限に書き続けられる、この猪木話だが、タイムアップ締め切りがやってきた。

 著者、柳澤健氏は『WiLL』誌のインタビューで次回作について、

「木村政彦について書いてみたいとは思っています。だけど、一冊書いてみて思ったのは、テーマと興味深い構造さえあれば、ネタは何でもいいということ。この本も『1976年のアントニオ猪木』というタイトルを思いついた時点で、できたようなものなんです。まぁ時間はかかりましたけどね。構想六年執筆四年。経費も一千万円以上かかって退職金も底をつきました(笑)。ノンフィクションを書くのは大変です(笑)」

 と語っている。

 ならば、無いものねだりかもしれないが、願わくば猪木山脈の連峰に連なる前田日明という一大山脈をも是非、踏破して頂きたい。


 村松友視の言説で理論武装したアントニオ猪木をリングの上だけでなく、思想的にも徹底批判したのが前田日明だったのだ。
 そして、プロレスの格闘技化への流れに決定的にシフトチェンジ役を果たすのは前田日明であろう。

 そして、中途半端に、この『本・邪魔か』の連載は終わる。
 しかも『未完』のままに終わる。それは、まるで『男の星座』のように。
 さらに『未完』なのは、これが『本』の一冊ではないからだ。

 俺は運命論者ではない。
 ただ、俺が、この連載で書いてきた人々や取上げてきた本の「引力」に引き寄せられるのも、たまたまの偶然ではないと信じている。


『お笑い男の星座』にも書いた概念なのだが「星座」という言葉には「コンステレーション」と言う心理学的な用語と見方がある。

 

 臨床心理学者のユングによれば「コンステレーション(星座を作る)」とは──。
「満天の星から特徴のある星をいくつか選び、糸でつないで星座を作りストーリーを組み立て自分をそこに投影して役割を演じようするもの」と説明される。転じて「一見、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、ある時、全体的な意味を含んだものに見えてくる」ことを言う。
 それゆえに「偶然の一致」という形で同時に起こった二つの出来事も人生という星座のなかに「意味のある」こととして、きちんと位置づけられるのだ。

 

 再び、この連載をまとめて『本』にする時も来るだろう。
 ここに書いてきた人や思い出や意志が必然のように連結して言葉と言葉、人と人、星と星の線を結び星座を象り、無から有へと一つの『物語』として立ち上がるはずだ。そして「意味のある」ものとして誰かに伝えたくて『本』となる。

 あらためて本は邪魔じゃない──。

 

 『1976年のアントニオ猪木』はそれを、俺に語っている。