WEB『ダビンチ』連載・「本、邪魔か』より。

 

 

 
 

 

 

 2004年の8月より始まった、この連載『本、邪魔か』いよいよ、この28回目を持って最終回とのこと。決して四月馬鹿ではない。

 振り返れば、俺にとっても初めてになる、このネット上の連載は従来の雑誌連載にはない、かなり異色なスタイルでもあった。


 本来、この『4ちゃんねる』なる企画、サブカル界のライター4組、四天王を集めて、がっぷり四つに組みオモロ・エッセーを綴り合うという趣旨であり、将来的な単行本化にも向けて編集部にも意向と方向性があったのだろうが、四苦八苦、皆、四方八方にてんでバラバラ、決して四重奏になることはなく自分たちの、その時、書きたいことを自由気ままに書いてきた。(おかげで4組の共著となる単行本化の話は四分五裂、見事に四散した)
 
 当初は写真を絡めたショート・エッセーで十分と言われていたのだが、特に締め切りはあるが字数の制限が無い四の五の言われないというレギュレーションは俺を必要以上に雄弁に語らせた。

 しかし、回を重ねるごとに減らず口は抑えきれず字数が増えていき四十路の体に鞭打った前回の東京マラソンの体験記などは42.195キロ延々と書き綴り5万5千字を越え薄めの新書一冊の分量であった。

 もはや、読んでいるほうが果てしない読書マラソンの態であったことであろう。
 しかし、ネットの特性でもあるがペーパーの枚数や大きさに制限されない、自由闊達さは『本、邪魔か』のタイトルに相応しく書き手としてもストレスを感じることが無かった。

 そして、この連載、内容的には毎回、“読みたい本がすぐ見つかる、すぐ買える!!”を標榜する本の情報誌である『ダ・ヴィンチ』という媒体を考えて、何かしら『本』に絡まる話題を心掛けてきた。(しかし、意外と言うか皮肉と言うか、連載中、最も反響があったのは、本の話を離れて、いじめ問題をとりあげた時であった)

 果たして、最終回は『本』そのものを巡る話として、熱く興奮させられた『編集者という病い』(見城徹著・幻冬舎)を取上げる予定であったが、他の媒体で執筆の機会があり何を取上げるか思案していたところ締め切り直前に、俺にとっては専門ジャンルとも言えるプロレス・格闘技で、文字通り数十年に一冊とも言えるエポックメーキングな一冊である『1976年のアントニオ猪木』(柳澤健著・文藝春秋)に遭遇、いや、その引力に引き寄せられた。

 

 この本、一度手に取れば巻置くあたわず、興奮冷めやらず。


 ページを捲る時間さえ惜しいほどの目くるめく耽読体験が失われた時を求め俺の脳内時間を30年も前に遡らせた。

 さて、本書はアントニオ猪木が闘った異種格闘技戦シリーズのファーストシーズンである「1976年」に行われた4試合を詳述する。

 <2月・ミューヘン五輪、柔道無差別級、重量級の優勝者・ウィリエム・ルスカ戦>
 < 6月・ボクシング世界へビー級チャンピオン・モハメド・アリ戦>
 <10月・アメリカで活躍中の韓国人プロレスラー・パク・ソンナン戦>
 <12月・パキスタンで最も有名なプロレスラー・アクラム・ペールワン戦>

 これらの試合の舞台裏をアメリカ、韓国、オランダ、パキスタンまで足を運び、関係者に徹底取材をしたノンフィクションである。

 K―1、PRIDEが誕生して久しい現代では既に“常識”として語られることだが「プロレスはリアル・ファイトではない」ことを前提に書かれた本であり、しかしながら1976年はプロレスファンには「異種格闘技戦はリアルファイトである」と信じられていた時代を描く一冊である。

 猪木が終生のライバル・ジャイアント馬場に打ち勝つために始めた異種格闘技戦は苦肉の策のプロレスと他の格闘技と交流、掛け合わせる実験であ、行き当たりばったりのファーストコンタクトには思わぬ化学反応と捻れを生んでいる。

 本書に描かれる4つの試合は、いずれも一筋縄に予定調和で行われることはなかった。
 猪木はプロレス(フェイク・ファイト)をリアル・ファイトと思い込んでいた最強の柔道の金メダリスト・ルスカには最初から契約書通りにプロレスをやらせ負け役を強いることに成功した。

 歴史的英雄・アリとの世界注目の世紀の一戦はプロレスと思って来日したアリにリアル・ファイトを強要し、結果、試合はかみ合うことが無く世紀の凡戦として世界に嘲笑される。

 プロレスのつもりで挑んできた、格下の韓国のプロレス王、パク・ソンナンには自ら掟破りのガチンコ(リアル・ファイト)を仕掛けて対戦相手はおろか韓国プロレス界ごと崩壊に追い込む。

 プロレス遠征の心算で嫁を同伴し観光気分で訪れたパキスタンでは、逆に地元の英雄・ペールワンからリアル・ファイトを挑まれ実力で裕に勝るにもかかわらず、指で相手の目をえぐる反則技まで繰り出し残忍にも腕の骨を折って勝利を収める。

 いずれにしろ、本書ではプロレスラー・猪木がリアル・ファイトをしたのは、この1976年のみと語られるが、その事実は重い。


 余人の推測には及ばぬ、当事者だけが知る予期せぬ修羅場の連続であり、それは、苦い闘いの後味、莫大な借財を背負うこととなる経済的な余波を含めて当の本人には懲り懲りの体験であったと推測される。

 そして、現在の格闘技ブームの魁(さきがけ)となった、これら黎明期の“格闘技戦”は、今まで平成のプロレスファンの間に、まことしやかに舞台裏の“真相”が語られてきたが、この本は従来の“定説”を覆す驚嘆の新事実を暴いていく。

 ちなみに、俺にとって<アントニオ猪木>は、まさに同時代を生きた“生きる伝説”でありカリスマそのものだ。

 俺が、今でも猪木を教祖と崇め、新潮文庫の『アントニオ猪木自伝』を買い置きし、日々、布教のためにホテルに泊まるたび、引き出しの聖書とすり返る急進的な猪木教徒であることは、あちこちで語っているので皆さん、ご存知であるだろう。

 

 

 

 

 

 (ちなみに、俺は、青春時代に俺を洗脳した、アントニオ猪木、梶原一騎一騎、角川春樹の3人、彼らを“3大キ印”と呼んでいる。この3人は箆棒(べらぼう)なキ印なのだ。この3人の規格外のデタラメぶりに比べれば、俺の師匠・ビートたけしは、野坂昭如が評したように“偉大なる常識人”とも思える。それ故にビートたけしの歩みは類稀なストーリーだとも思うが、“それはまた別の話”と言うことで……)

 

 本来、新潮社文庫の『アントニオ猪木自伝』は、何度となく読み返してきた俺の『聖書』だ。


 あらためて、この本の魅力を語れば、きっと説明に百万語を費やすことになる。


 しかし、丁度、今、手元にある見城徹の『編集者という病い』の中から一節を引用すれば「天使から人間に変わること、認識者から実践者になること。柄谷行人は『暗闇のなかでのジャンプ』と呼びました」と、小説家などの表現者の優れた営為を例えた。

 

 

 

 

 

 その例えをなぞらえれば猪木の人生とは、まるで『暗闇のなかでの卍固め』とでも呼ぶべきものである。
 それも、自分が自分自身に卍固めを掛け、がんじがらめに締め上げられながらも、なおも戦い続ける自傷行為であり、常に行き先は時化(しけ)の中を“悲惨の港”を目指してきた。 

 

 リングの上のヒロイックな“闘魂”の裏で、この書物には実に壮絶で哀しい、村松友視の言ところの“過激なセンチメンタリズム”が漂う。
 俺は、この「聖書」を読み返すたびに、自分の前にある困難を猪木に比べれば「どうってことねぇですよ!」と猪木ボキャボラリーで昇華、自らを癒すことが出来る。

 しかし、この本『1976年のアントニオ猪木』は我々、猪木教徒に新たに『新約聖書』として書かれたものだ。

 ここで、この本の魅力を語るに、再び見城徹の言葉を借りれば、
「表現というのは、非共同体であること。すなわち個体であることの一点にかかっていると思います。イエスの喩えの中に羊が出てきますが、僕は百万の羊の共同体の中で一匹の過剰な、異常な羊、その共同体から滑り落ちる、たった一匹の羊の内面を照らし出すのが表現だと思っています。そのために表現はある。ですから、共同体を維持していくためには、倫理や法律や政治やそういうもんが必要だろうけども、一匹の切ない共同体にそぐわない羊のために表現はあると思っているんです」と書いている。

 この「羊」を「猪」つまり猪木と変え、「表現」を「プロレス」に変換して読めば、この説明は実に腑に落ちるのだ。

 つまり、この本は脳内のフィクションである『羊をめぐる冒険』ではなくリアルな実体験を描いた『猪をめぐる冒険』である。(って何の例えだ?)

 この「新約聖書」では、ファンタジックな修辞をはずされた、猪木の行き詰った実像から発せられるセンチメンタリズムが、読後の深い余韻と共に、逆に実にヒロイックに思えるのだ。


 さらに、本書は、梶原一騎原作であり、絶筆にもなり俺たちが偏愛する、劇画『一騎人生劇場・男の星座』に流れる巷間知られる英雄譚の虚実の皮膜を剥がすルポタージュの醍醐味、真骨頂が横溢しているからこそ、たまらないのだ。

 なにしろ、俺達が“芸能界に潜入取材するルポライター”を自称し、このシリーズをライフワークと称する、文芸春秋刊の『お笑い男の星座』は、この梶原一騎の自伝劇画でもある『男の星座』をネタ元にオマージュを捧げている。

 

 

 

 

 

 しかし、この本『1976年のアントニオ猪木』こそ、不朽の名作『男の星座』の正統的な後継本と断じて構わないだろう。


 さらに言えば井上義啓の『週刊ファイト』、ターザン山本の『週刊プロレス』 、村松友視の『私、プロレスの味方です』 を始発に旅立った“活字プロレス”という幻想の車窓に見える、巨大なる猪木という山脈、いや蜃気楼を追い続けた、俺達、昭和の“プロレス者”が乗り合わせた因果鉄道の終着駅とも言えるのだ。

 

 なにしろ、第2章の対ルスカ戦の背後に描かれる、オランダ格闘界の重鎮、ルスカ、ヘーシンク、ブルミン、ドールマンら、当時、柔道世界最強の男達が織り成す物語は“リアル柔道一直線”であり、“空手バカ一代外伝”とも読める。
 彼らの格闘家としての師弟の契りと共に愛憎と相克は、今まで猪木・ルスカ戦の裏話として聞いてきた美談(世界最強の柔道家・ルスカが重病な妻のために大金が必要だったために負け役を引き受けた。~その話は、否応無く、『男の星座』の冒頭に登場する、天下分け目の一戦、力道山vs木村戦の際、病気の妻に必要な高価な薬「ストレプトマイシン」を買うため八百長試合を引き受けた不世出の天才柔道家・木村政彦の姿を想起させるわけだが……)の先入観を吹き飛ばし、あまりに哀切に満ちた人間らしさに、声をあげ唸り、本を読む手がしばし震えたほどだ。

 そして人生は長い。最強は儚い──。

 本を読みながら、何度、この言葉を心に呟いたことか。

 また、第3章のモハメド・アリ戦も、今まで何度と手垢のついた、アリの偉大さを伝える文章を読んできたが、アリを紹介する、この著者の言葉の的確さ引用の絶妙なこと。


 そして、この試合の猪木への突き放した淡々たる筆致も特筆に価しよう。
猪木とアリが互いに高めあったリアル・ファイトの高揚の絶頂感の中で、ある意味では、射精中絶とも言える結末を放り出す。


 正直言って、猪木信者には、これは出来ない芸当であり、この本の肝でもあろう。
(また、全編に流れる猪木の“強さ”に対する多角的な検証は、誰もが認めた、その練習量からも猪木が一時は確実に「日本人最強」の実力者であったのも事実であるし、有名なフレーズだが「猪木ならホウキと戦っても観客を沸かせることが出来るだろう」と言わしめた「プロレスの天才」として描かれてはいるが、それでも、それ以上は肩入れすることなく、まるで歴史家が時を経て前世紀を描くような冷徹さで分析している。)

 『中央公論』で文学誌の編集者であった村松友視が、文藝の香り漂う共同幻想を駆使した批評という手法で、その虚像の輪郭を作り、俺達が同時代を共有し続けたアントニオ猪木という生ける伝説の幻想──。
 その幻想を、元々『ぱふ』という、ファンタジーの匂い漂うマンガ批評誌の編集者であった柳澤健は調査報道に徹し、地を這う取材を経てノンフィクションという手法で伝説の実像を検証してみせた。

 「プロレスは真剣勝負ではない」、この地点から書かれた本で、昨今、刊行が相次ぎ、ムック本を含め乱造された暴露本とは一線を画し、さらに言えば副作用の強すぎる“シュート活字”なる、業界を枯らし続ける類書の追随を許さぬ、正真正銘の猪木評伝の最高傑作だろう。

 読後、俺たち信者が、改めて描きなおされた猪木という稀代のカリスマの実像に落胆するであろうか?
 否。むしろ、アントニオ猪木という、日本に生まれブラジルに育ち、本書に描かれる1976年だけでも世界中を転戦し、地球規模で名を知らしめた現代のホラ男爵、異形なる“バケモノあご男”という実存する生身の人間の30年に渡る旅路の芳醇なるコクに改めて惚れ直し、そして読書の至福に酔わずにはいられないだろう。

 

 今すぐ本屋へ走れ!
 そして、タイムマシーンに乗って、あの俺たちの甘美なる30年前へ遡れ!

 1976年──。
 中学2年生、14歳だった。
 国立大学の進学校に受験して越境入学した俺は、勉強が出来ない、スポーツが出来ないという人生最初の挫折を味わい確実に落ちこぼれていった。

 当時、俺の人生を決定づける導師・ビートたけしの存在は、まだ影も形も無かった。
 同級生に、後にロックのカリスマとなる『ザ・クロマニヨンズ』の甲本ヒロト、そして麻原彰晃の主治医で殺人医師となる中川智正がいた。


 30年前、俺が漫才師として世に出ることも含め誰が、それぞれの将来を予想出来たことであるだろう?
 俺は学校では人生の初の挫折を味わいながら、まだ思春期の長い暗闇のトンネルに入る前、ボンクラなりに、テレビのブラウン管に、俺なりの偶像崇拝の対象(ヒーロー)を見つけては、熱烈に応援し、贔屓の引き倒しを楽しんでいた。
 今や、さも政治通かのようにテレビに出ている俺だが1976年、世間を賑わせた、田中角栄逮捕や、ロッキード事件などは、ほとんど“記憶にございません”。
 今も記憶に鮮烈なのは、阪神タイガースのエース、背番号28番・江夏豊であり、1975年の暮れに南海へのトレード話が決まった時は、毎日、欠かすことの無かったデイリースポーツの切り抜きを前にして涙を流し悲嘆にくれたものだ。


 そして、プロ野球がオフの金曜日、身が滾るほど待ち遠しかったのは、20時からの、小松フォークリフトが提供する『ワールドプロレスリング』中継、“燃える闘魂”アントニオ猪木率いる、新日本プロレスであった。
 俺がどれほど好きあったかは、当時、社会現象になるほどの人気を博した裏番組『金八先生』をリアルタイムで一度も見たことが無いことからもわかる。


 プロレス好きは年季が入っていた。俺は幼少時に父親がプロレスを愛好していたためと、アニメの『タイガーマスク』の影響もあって将来はプロレスラーに成りたいと思っていたほどだ。
 もともと、プロレスで最初に好きになった幼年期のヒーローは、1968年に初来日し、やがて日本に定着、国際プロレスの日本人エースとして君臨したビル・ロビンソンであった。(そのロビンソンが、今や俺の住む高円寺で『UWFスネークピット・ジャパン』のコーチをつとめ、ジムの生徒である俺と毎日のように顔を会わせ、俺の息子・武(たけし)が生まれた時からの知己なのだから、改めて人生は不思議だ。そして、ロビンソンは、この本では、猪木と戦った外国人レスラーとして重要な証言者として登場するが、全盛期の猪木を実力で凌駕し、一時は世界最強を極め、“人間風車”だけに地球を“何回転”もするほど転々と旅して、今や高円寺に流れ着いた、この偉大なるプロレスラーの数奇なる半生も『1976年のアントニオ猪木』のB面として読めば興味が尽きないはずなので『人間風車ビル・ロビンソン自伝―高円寺のレスリング・マスター』(エンター・ブレイン)を読んで欲しい!)

 

 

 

 

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