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小石川後楽園
徳川幕府の時代、江戸の町には300もの藩の屋敷がひしめいていた。大名の居宅である上屋敷のほかに、中屋敷、下屋敷もあったというから大変な数だ。実は、そうした屋敷の跡が、明治以降の都市づくりに大いに役立った。その代表例ともいえる名所が、小石川後楽園であろう。
小石川後楽園には、東門と西門がある。地下鉄都営大江戸線飯田橋駅から徒歩3分程のところに、西門がある。
西門を入って右手にあるのが、涵徳(かんとく)亭だ。元々は享保年間に作られた茶屋で、当時は珍しい玻璃(はりがらす)障子紙を明かり取りに使ったため、「びいどろ亭」とも呼ばれた。現在の建物は、昭和61年(1986)に再建されたもので、予約すれば集会場などにも使える。お休み処の「びいどろ茶寮」では、ランチも楽しめる。
正面に見える池が、庭園の中心となる大泉水。池に映る木々の色彩の美しさに、ため息が出るほどだ。その向こうには、東京ドームの白く丸い屋根が鎮座する。江戸の昔と現代とが交錯するような、不思議な景観である。
池の畔を巡り、神田上水跡を渡った梅林の奥に、徳川斉昭の腹心で水戸学の大家で知られる藤田東湖の「護母致命の処」と記された記念碑がある。安政元年(1855)の安政江戸地震で、藩邸内(現在の白山通り付近)の自宅にいた東湖は母をかばい、崩れてきた梁を肩で受け止めて圧死したという。享年50歳だった。
東門の近くには、「陸軍造兵廠・東京工廠跡」の記念碑もある。現在の東京ドーム付近には、幕末に関口製造所と呼ばれる幕府の兵器製造工場があった。維新後に明治政府が収容し、東京砲兵工廠となった。大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的被害を受けて福岡小倉に移転するまで、この一帯は日本の兵器製造の中心地であった。当時、砲兵工廠を拡大する案もあったようだが、山縣有朋の「庭園は残すべきだ」との一言で、小石川後楽園は姿を消さずにすんだ。
小石川後楽園は、水戸徳川家初代藩主・頼房が手掛け、2代藩主の光圀が完成させた水戸藩中屋敷の庭園であった。後に上屋敷となる。
黄門様で知られる光圀は学問に熱心で、『大日本史』の執筆を始めた人でもある。現在東京ドームが立つ場所に屋敷があり、『大日本史』編纂事業のための「彰考館」も、一時期ここにあった。
光圀は、中国から亡命していた朱舜水を招いて学んでもいた。「後楽園」という名称は、「人より先に憂い、人より後に楽しむ」という政治を預かる者の心がけを表現した中国の『岳陽楼記』の言葉で、朱舜水の発案だと言われる。庭園の中にも杭州の西湖を見立てた池と橋、中国の技術による石の円月橋が造られた。
渡月橋、白糸の滝、竹生島などもある。多様な見立てを使った庭園は、大名屋敷の集まる江戸の特徴でもあった。学問と歌の道を知る武士たちと、高度な技術を持つ庭師たちによって造られ、400年に亘って大切に手入れされてきた。
浜離宮、清澄庭園、六義園、新宿御苑、日比谷公園、北の丸公園、戸山公園、占春園、迎賓館と明治神宮の一部など、東京の名園は殆どが大名屋敷跡で、大学や国の施設などの多くも同様である。東京は江戸の名残で生きている。
小石川後楽園の見どころは、琵琶湖に見立てた大泉水と蓬莱島、水面に映ると月のように見える円月橋、京都・嵐山を模した大堰川と朱色の通天橋、そして中国趣味豊かな景観と、季節ごとに変化する自然が織りなす「回遊式築山泉水庭園」の美しさであろう。国指定の特別史跡・名勝でもある。
秋の紅葉が有名だが、1月は蝋梅や福寿荘などが楽しめる。江戸の名残を味わうのも良い。
芭蕉の句に、「一時雨 礫(つぶて)や降って 小石川」というのがある。時雨がサッと降ってきて、その時石つぶてが川となったから小石川と詠んでいる。面白味のない句であるが、そもそも小石川は、小石の多い小さな川だったのでこう呼ばれていた。
芭蕉はこの頃、神田上水浚渫工事の管理業務を請け負っていた。 だから、しばしば小石川後楽園や江戸川小石川上水、水道橋、関口大洗堰あたりを歩いていた。これは、延宝5年(1677)の芭蕉34歳の時の作である。芭蕉はこの年に、俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になること)したと言われる。
高浜虚子は涵徳亭で、「あの雲の 昃り来るべし 秋の晴」と詠んでいる。他にも、円月橋など庭園の風景や季節の移ろいを詠んだ句が、数多く存在する。
令和8年(2026)1月12日
100年の残響「喝采」
東京新聞の連載、昭和のうた物語「100年の残響」が最終回を迎えた。最終を飾ったのが、ちあきなおみの「喝采」だった。
その「喝采」を彩る伝説を、繋ぎ合わせる街がある。作詞した吉田旺(84)の出身地・北九州市の小倉だ。昭和を代表するヒット曲となったこの歌は、1人の女性歌手の身に起きた悲恋を描いている。
ステージで恋の歌を歌う彼女のもとに届いた「黒いふちどり」のある知らせ。故郷を捨てた3年前、振り切るように終止符を打った恋の相手の訃報だった。
「歌の主人公である女性が旅立つ場所としてイメージしたのが小倉駅でした。東京へ直に行ける駅でしたので」と吉田は明かす。この情景を起点にストーリーが膨らんでいく。
その「小倉」が、「喝采」を歌うちあきなおみにとって、悲しい実話の舞台であったことを吉田が知るのは、歌詞が完成した後のことだった。
「ちあきさんが橋幸夫さん(1943~2025)の前座として歌っていたころ、慕っていた剣劇役者が一座にいたそうなんです。彼が急逝し、その訃報を聞いたのが、小倉の劇場だったというんです」
「皮肉にも私の書いたフィクションと、ちあきさんの実体験が偶然にも重なり合ってしまったんです。知ったときはゾッとしました。彼女も同じだったようで、当初は『つらくて歌えない』と言っていました」
「喝采」がリリースされたのは昭和47年(1972)の秋。吉田がつけた当初の曲名は「幕が開く」だったが、音楽ディレクターの東元晃(90)が変えた。「ちあきさんの歌は静かな中にも力強いものを感じさせるし、秘めた響きを出すというイメージからも『喝采』がふさわしいと思った」と。
曲は累計130万枚を売り上げる大ヒットとなり、ちあきはその後も、歌謡史に刻まれる作品を送り続けた。ファンの間で「もう一つの喝采」と評される曲がある。昭和63年(1988)に出された「冬隣(ふゆどなり)」だ。
歌詞はこう綴られる。「あなたの真似して お湯割りの 焼酎のんでは むせてます(中略) この世にわたしを 置いてった あなたを怨んで 吞んでます」
メロディーも、出だしの6音目までが「喝采」と同じ。この歌が世に出た4年後、ちあきは夫・郷鍈治(1937~92)を失った。以降、ちあきは芸能活動を休止した。この歌詩を手掛けたのも吉田だった。「まさか郷さんが亡くなるなんて、思いもしていなかった」と。
郷は俳優として映画やテレビで活躍していたが、結婚後はちあきの歌手活動をマネジャーとして支えた。「ヒット曲を追うのではなく、歌いたい歌にじっくりと取り組みたい」という妻の意向を尊重して、ジャズやシャンソン、ポルトガルのファドなど、広いレパートリーで歌を追求する道を開いた。歌謡界随一と評されていた歌唱力や表現力が、広い分野で開花した。ただ、売れることを度外視したような歌ばかりに取り組む方向性には、業界内で批判も絶えなかった。その盾になってきたのが郷だけに、2人の絆は強かった。
平成元年(1989)には、不世出のジャズ歌手ビリー・ホリデイを描いたミュージカル「レディ・デイ」に挑んだ。黒人として差別を受けながら歌い続けた苦難の生涯を、ちあきが歌い語り伝える難しい舞台だった。
郷の脳裏には、ちあきを更に飛躍させる歌づくり、舞台づくりの構想もあったようだが、その道は郷の死とともに閉ざされた。
最後のシングル収録曲となった「紅い花」を作曲した杉本真人(76)は、ちあきが表舞台から姿を消し久しくなった理由について、こう思いを巡らす。
「ちあきさんの表現力は誰にもまねができない。でも、彼女は歌謡界、芸能界が自分を本当に評価し、求めていてくれているのだろうかという根本的な疑問を抱いていたと思う。分かってくれる人は一握りしかいない。最も分かってくれた郷さんが亡くなって、自分はもう歌を歌う必要がないと感じたのかもしれません」と。
杉本は「冬隣」も作曲した。2番はこう綴られている。「地球の夜更けは せつないよ そこからわたしが 見えますか 見えたら今すぐ すぐにでも わたしを迎えに きてほしい」
今、ちあきがどんな思いで歌手人生を振り返っているのか。黙して語らず、誰にも分からない。
「喝采」は、昨年も日本コロンビアの楽曲の中で最も多く配信されたという。 フィクションと実話から生まれた名曲だ。「伝説の歌姫」と称されたちあきなおみは、私より一つ年下の78歳である。
令和7年(2025)12月28日








