人工の太陽(核融合)

 

 NHKスペシャル「太陽を生み出せるか 史上最大の核融合計画」が、3月1日に放送された。

 南仏・アルプス山脈のほど近く、厳重なセキュリティに守られた巨大施設がある。その名はITER(イーター)。冷戦下、軍事技術だった核融合を平和利用し、人類共通の課題「エネルギー問題」解決を目指す国際プロジェクトだ。

 ITER計画「史上最大の核融合計画」の内幕へ、密着ロケが許可された。計画の中枢を担うのは日本人。資源枯渇や環境危機が迫る中、核融合は何をもたらすのか。技術はどこまで進み、実現できるのか。未来を左右するエネルギーの行方を追う。

 フランス南部カダラッシュにある核融合実験装置「WEST(ウェスト)」が、核融合に欠かせない超高温プラズマの持続時間で世界新記録を打ち立てた。クリーンで、ほぼ無限とされる未来のエネルギー実現に向けて大きな前進となった、

 フランス原子力・代替エネルギー庁(CEA)が運営するWESTは、今年2月12日、約5000万度という超高温のプラズマを1337秒間、つまり22分17秒にわたって維持することに成功した。これは太陽の中心温度(約1500万度)の約3倍に相当する驚異的な高温である。

 これまでの記録は、昨年(2025)年1月、中国の「EAST(イースト)」トカマク型装置が達成した1066秒(17分46秒)だった。今回、WESTはこれを4分29秒上回り、約25%の大幅な更新となった。

 核融合とは、太陽や星が光り輝くエネルギーの源だ。軽い原子同士(主に水素)を高温・高圧の状態で融合させ、より重い原子(ヘリウムなど)を作る際に生じる質量の差が、莫大なエネルギーとして放出される。

 現在の原子力発電で使われている「核分裂」は、重い原子を分裂させてエネルギーを取り出すが、長期間管理が必要な放射性廃棄物が発生する。一方、核融合はそれに比べて廃棄物が少なく、燃料も海水中に豊富に存在する水素を利用できるため、次世代のクリーンエネルギーとして期待されている。

 太陽の中心では約1500万度という超高温環境で核融合が起きている。しかし太陽は「重力」という巨大な力でプラズマを閉じ込めている。太陽の質量は約2×10³⁰㎏だ。地球上でこれほどの重力を再現することは不可能である。

 そのため地上では、重力の代わりに強力な磁場でプラズマを閉じ込める「磁場閉じ込め方式」が採用されている。ドーナツ型の装置「トカマク」の中で水素を加熱し、核融合を起こそうという仕組みだ。

 ただし重力がない分、より高い温度が必要になる。建設中の国際熱核融合実験炉「ITER」では、なんと1億5000万度(太陽中心の約10倍)に達する予定だ。しかし、核融合発電を実現するには、「高温」と「長時間安定」の両立が不可欠である。どれだけ高温にできても、すぐに不安定になってしまっては実用化できない。

 CEAによると、WESTは2メガワットの加熱出力を用いて20分以上プラズマを維持することに成功した。これは、将来ITERのような大型装置で安定した核融合反応を起こすための重要な技術的ステップとなる。

 その巨大プロジェクトが、世界34カ国が参加し、2030年の稼働を目指し、始まっている。中心人物は大前敬祥建設室長だ。2050年実用化を目指している。市場は100兆円が見込まれる。46億年輝き続けている太陽への挑戦である。

 1億5000万度のプラズマを可能にするセクターモジュールは、1380トンある巨大施設だ。しかも2㎜以上の誤差も許されない。

 更に各国の主導権争いや予算の分担に絡む資金問題など利害の対立から、国際プロジェクトの難しさも露呈している。

 しかし、クリーンで持続可能な「人工の太陽」は、我々のエネルギー問題を根本から変える可能性を秘めている。もし核融合発電が実用化されたら、我々の暮らしや社会はどのように変わるだろうか。期待は募る。

 太陽の核融合は、中心部の超高温(約1500万度)と高圧環境下で、水素原子核4個が融合して1個のヘリウム原子核に変わる物理現象だ。この過程で質量の一部が膨大なエネルギーに転換(質量欠損)され、太陽が輝く光と熱の源となっている。この反応は46億年前から続いており、太陽の質量が尽きるまで続く「究極のエネルギー」である。

 この夢のエネルギー(核融合)が、人類の発展と平和に役立つことを願う。決して原爆(核分裂)のように、兵器として扱われてはならない。

    

令和8年(2026)3月1日

散り椿 紅く染めたる 昨夜の雨
 
菜の花や 紋白蝶と 握り飯
 
おばあちゃんの 原宿寿がも 赤パンツ
 
経行は 一息半趺 春の宵 
 
桜花 晴たる日もあり 菜種梅雨

 

路上生活者・広島太郎

 

 広島市中心部で約半世紀に亘って路上生活し、「広島太郎」と呼ばれた男性が昨年(2025)亡くなった。街に溶け込み「知事や市長の名前は知らなくても、広島太郎を知らない県民はいない」と言われた有名人だった。何が広島の人を引きつけたのだろうか。

 令和7年10月中国新聞は、「9月下旬に亡くなっていたことが分かった」と報じた。70歳代後半は、闘病中だったという。デジタル版では、悼む声が広がっていることも伝えた。

 東京生まれの編集者・都築響一氏は、広島市現代美術館で平成22年(2010)に個展を開いた際、ポスターなどのメインビジュアルに広島太郎を起用した。「着飾るように体中に縫いぐるみや時計をぶら下げ、東京で言えば銀座や表参道のような所にいて、でも街行く人は追い払おうともしない。大通りを自転車でゆっくり走って、渋滞になってもクラクションも鳴らさない。ずっとそこにいて、誰も存在を不思議に思わない。他所の人間には、それがとても不思議に見えた」と言っている。

 都築氏は当時、太郎にインタビューし、個展の図録に纏めた。それによると、昭和22年(1947)の広島市出身。広島大を卒業後に現在のマツダに入社したが、失恋をきっかけに3年で退社。20代後半から路上生活を始めたという。

 「話の筋が通っていて、記憶力も良い。スナックで歌うのが大好きで、石原裕次郎など全部歌詞を覚えていて驚いた。ファンのような人がいて、『一緒に歌おう』と誘われることもあったみたいだ」と話す。

 広島県出身の写真家・藤岡亜弥氏は平成27年(2015)ごろ、「撮らせてほしい」と声を掛けたのがきっかけで知り合った。「バカな話も下ネタもあったけど、チャーミングな人だった」と言う。写真集「川はゆく」で、写真界の芥川賞とも言われる木村伊兵衛賞を受賞した時、公衆電話から「おめでとう」と連絡があった。「太郎さんは、会いたいと思うと会えなくて、何の気なしに歩いていると不意に現れる人だった」と言う。 

 広島文教大学の橋本圭子教授は、長年ホームレスの支援を続け、太郎と親交があった。「路上生活を続けられたのは、広島の優しさと寛容さがあったからだろう」と言う。最期は、搬送された病院のベッドで迎えた。

 平成25年(2013)には、NHKドキュメント72時間「広島太郎を探して」で取り上げられた。広島の中心街で知らない人はいないと言われる1人の路上生活者がいる。その名は「広島太郎」。神出鬼没で、派手な衣装を身に纏い、颯爽と自転車で街を駆け抜けてゆく。その不思議な佇まいや言動によって、多くの人が「癒やし」や「励まし」を与えられているという。広島太郎とはどんな人物なのか。なぜ広島の人たちは彼に惹かれるのか。その足跡を追いながら、地方都市に暮らす人々の胸の内に耳を傾けていた。

 広島太郎の父親は鉄工関係の仕事に従事しており、昔気質で厳しかった。太郎の幼少期は、草野球と絵を描くことが好きな、ごく普通の少年だったという。高校卒業後は広島大学政経学部経済学科に入学した。当時は学園紛争の時代であったが、勉学一筋で級友からは「学者さん」と呼ばれていたという。

 広島大学卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社。同じ会社に勤めていた女性に恋していたところ、彼女が会社の同僚と結婚した挙げ句、結婚式ではスピーチまでさせられた事から、傷心のあまり仕事が手につかなくなり、26歳の夏に退社した。

 それ以来、ホームレスとなる。仕事を辞めた時点で激怒した父に勘当され、「父親が死んだのもあとで知った」という。

 その奇妙な出で立ちや広島の中心街を棲息地としたことから、広島の有名人としての認知度は高かった。大きな押し車に家財道具一式を乗せて、夜になると市内の洋裁材料店の前にいた。また広島本通商店街で見かけたことから、「本通太郎」とも呼ばれていた。

 路上生活者と言えば、「横浜のメリーさん」も有名だ。横浜市中区近辺の市街地を生活圏にしていた伝説的な娼婦である。 白塗りの厚化粧にフリルのついた純白のドレスという印象的な風貌や謎に満ちた人物像から、数多くの歌や文学、演劇の題材になった。故郷の岡山県へ戻り、地元の老人ホームで余生を送り、平成17年(2005)84歳で死去した。

 人生色々、何が幸せな人生だったかは、死ぬまで分からない。

  

令和8年(2026)3月1日

老いてなお 恋する人よ 梅の花
 
春の雲 ホルスタインの 歩みかな
 
春めきて ベンチが語らう 人を呼ぶ
 
歳をとる これでいいのだ 春の宵
 
入園児 混ざれぬ子もいる エントロピー

市川「ろしあ亭」

 

 JR市川駅南口から徒歩5分の商店街に、ロシア料理店「ろしあ亭」がある。加藤登紀子が経営する「スンガリー」で修行したシェフが、2年ほど前に開店したという情報を新聞で知った。

 スンガリーにはかつて、家族で2、3度行ったことがある。是非行ってみようと話していたが、漸く実現した。娘の予約で、「贅沢ランチコース」3500円に決めた。

 ボルシチと白いビーフストロガノフがお勧めである。ブルガリアワインも1本注文し、食べきれないほどのボリュームであった。最後はチャイ(ロシアンティー)で締めくくった。日本の家族連れに混じって、ロシア人家族もいた。

 東京・神保町で長年親しまれた「ろしあ亭」が、千葉県市川市に移転して来たのは、2年ほど前だ。大病や新型コロナ、国際関係などの荒波を乗り越え約30年。オーナーの北市泰生(75)は「ロシア人スタッフ等みんなの助けがあったから、続けてこれた」と振り返る。

 エキゾチックな店構え。「ひとくちにロシア料理と言っても、旧ソ連圏のウクライナやジョージア、中央アジアのウズベキスタンなど、さまざまな料理があるんです」と北市氏は言う。

 本場の味にこだわっている。ロシアのサンクトペテルブルク発祥という白いビーフストロガノフは、ロシアにならって生クリームを使う。ジョージアに源があるロールキャベツは、ひき肉などに加えコメも入る。赤いビーツを使ったボルシチはウクライナが本場だ。 

 北海道芦別市で、3人兄弟の長男として生まれた。高校生の頃、東大安田講堂の攻防をテレビで見て感化され、学生運動に目覚める。東京の大学に入学すると、運動にのめりこんだ。結局、大学は退学し、有機農法の団体(大地を守る会)で活動する。 

 24歳の時、団体の代表藤本敏夫の紹介で、新宿のロシア料理店「スンガリー」で働く。藤本の妻は加藤登紀子、店は加藤の両親が経営していた。「いろんな人が出入りしていて面白かった」と話す。平成7年(1995)に44歳で独立。神保町のすずらん通りに「ろしあ亭」を開いた。

 スタッフにはロシア人やウクライナ人もいた。「知る人ぞ知る店」として次第にファンが増えた。在日ロシア人らが出入りし、情報交換する姿もあった。書き入れ時の冬は、ボルシチで杯を傾ける人で連日満席だった。ただ、日ロ関係が悪化すると、客足が落ちるなど国際関係に翻弄されもした。

 日本橋に2店目を開き、目まぐるしく働いていた59歳の時、脳梗塞で倒れた。左半身に麻痺が残ったが、必死のリハビリで復帰する。入院中は、ロシア人スタッフが店を守った。

 新型コロナで休業を余儀なくされた時は、テイクアウトやキッチンカーなど総出で何でもやった。「夜は街が死んだようになった」という。

 令和4年(2022)2月、ロシアがウクライナに侵攻すると、店は嫌がらせを受けるようになる。X(旧ツイッター)に「出て行け」と書きこまれたり、ロシア人スタッフが駅で知らぬ人に背中を突き飛ばされたことも。店の看板が持ち去られ、1週間後に近くで見つかる騒ぎもあったという。

 「ロシアが一方的に進行したことに、強い憤りを感じる。しかし、ロシア人スタッフに罪はない。危害を加えるなんて許せない。ロシア人にもウクライナ人にも友人がいる」「とにかく、早く戦争が終わって欲しい」と言う。

 コロナ禍を乗り切った頃、戦前に建築された店舗は老朽化で雨漏り。リフォームに大金がかかることが分かり、いったんは閉店を決めた。Xで告知すると、大勢のファンから「残念」「ありがとう」と惜しむ声が届く。たまたま、市川に手ごろな店が見つかり、その場所に移転することを決める。

 2階建て30席のこじんまりした店で、スタッフ8人のうち3人はロシア人。内装はスタッフが手掛けた。ロシア人が描いた絵なども飾られている。

 ビジネス客が中心だった神保町と違い、近所の高齢者が多い。神保町時代の客も時折来る。「落ち着いた雰囲気になって、気に入っている」と話す。

 今でも毎日厨房に立つ。「これからも様々な地域料理を紹介していきたい。スタッフの中には姉妹店をやりたいとか、独立したいという人もいる。ろしあ亭の味を継承してくれれば、嬉しい」とも話していた。

 別れ際にスンガリーの話をし、北市シェフの写真を1枚撮らしてもらい、店を出る。市川駅前は高層マンションが建ち、かつてとは様変わりしていた。

  

令和8年(2026)2月22日