8月。

大学に入ってはじめての夏休み、バイトたくさんやって稼いだら、海も山も行きたいし、自動車教習所に行って免許も取りたいなぁ~なんて考えていた矢先のこと。

親戚のカフェでアルバイトをするため、電車を乗り継いで向かう途中、

ピコピコとケータイをいじりながら階段を降りていたら・・・落っこちました。

朝の8時とか9時とかで、学生は夏休みだけど、まわりは社会人のみなさんの朝の通勤ラッシュタイムで。

階段の踊り場に、あともう一段あると思って踏み外したもんだから、わたしのすぐ後ろから階段を降りていたサラリーマンがびっくりして、「だいじょうぶ??」と声をかけてくれたんだけど。

そりゃそうだよね、目の前にいた人が急に視界から消えたりしたら驚くわな。。

で、なぜかそういう場面って、とっさに出てくる言葉が「あっ、大丈夫です。すみません。」みたいなね。

実際、痛すぎて歩くのも困難だったんですが。

痛い足をひきずりながらも、捻挫したかなぁ~程度に思ってバイト先まで行って、

さすがに昼すぎになったら左足首がパンパンに腫れ上がってきて。

こりゃヤバいってことになり、いとこのおばちゃんも、今日は帰っていいから病院いきなさいーってゆって家に帰してくれて、

病院いったら・・・

じん帯損傷(TT)

あれは本当に痛かった!

そしてその夏は、まるまる自宅安静になりました。

どこにも出かけられないし、車の免許も取りにいけなかった。。悲しい思い出。

でも、ひとつだけ、家族の絆というか、家族の不思議を体感したのだけど。

わたしのいちばん下の弟は4歳離れているんだけど、じつは私がじん帯を怪我する2週間前に、

部活でじん帯損傷してしまっていたの。

サッカー部で、ボールを蹴ろうとしたらスカしたっていうから、「ドジだねぇ~」と小バカにして笑っていたのが、
2週間後にわたしもじん帯損傷で。

しかも!

まったく同じ場所だったからビックリ!左の足首。

もちろん、同じ病院で診てもらってるわけで、整形外科の先生が不思議そうな顔して、「ん?あれ?きょうだい揃って同じ箇所を怪我したのか??」って言ってたのを覚えてる(笑)

大きな怪我や病気をしたことがなかった私が、はじめての大怪我で、しかも暑い真夏に、それはそれは大変でした。

それ以来かな・・左足首が捻挫グセついちゃって、いまだに弱いです(汗)

あ、ギプスは1ヶ月くらいで取れて、学校には間に合ったからよかったよかった☆

備忘録にでも、と思って書いてみた。

<学生時代+名古屋>
1998年 大学入学案内 モデル・記事執筆
1999年 財団法人 民族衣裳文化普及協会 十二単グランプリ受賞
2001年 大学在学中、ミスキャンパスヒロイン(3回生)
2001年 三重ヘアサロンCM出演
2001年 春日井グリーンテレビ 番組アシスタント(レギュラー)
2002年 大学院進学 国際関係学専攻 ドイツ映画を研究
2003年 志摩スペイン村パルケエスパーニャ フラメンコ衣装モデル
2005年 愛知万博 三井・東芝館ナレーションアテンダント
ほか、講演会・シンポジウム・フェスティバル・音楽祭・ウェディングの司会進行

<東京>
2005年 大手広告代理店D  受付
2006年 有名テーマパークT  ツアーガイド
2008年 有名輸入車ディーラーB  ショールーム
2009年 大手旅行会社J  インターネット事業部
2010年 大手IT会社C  ソーシャルメディア部



お見合いするときの釣り書で提出できる範囲かしら。。。
ちょっと盛ってみたし(笑)モデルってww
あ、宝くじ幸運の女神に1次選考で2回も落ちたのは書いてないや~(><)

ってか、転職おおすぎて笑えるー
1年に1回のペース。

いまの会社は、自分でも合っていると思うし、能力を発揮できる会社なので
できれば長く続けたいです。
名古屋市に住んでるわたしだけど、高校はかなり遠くまで通っていた。

市を2つ越える。

名古屋市 → 尾張旭市 → 瀬戸市

遠くて、高校2年になった頃から、通うのがめんどくさくなった。

とくにイジメとかにあってたワケじゃないけど(笑

ただ単に、めんどくさいな~って感じで。

まいにち遅刻してた。

まいにち起きたらお昼だった。

うきうきウォッチングを見てから学校に行く・・・という日々で。

さすがにそれをずっと繰り返していたら、

2学期末に担任の先生に呼ばれて。

遅刻の回数が、2学期までに64回もあって、さらに、テストで数学が赤点続きで、

このままだと進級もできないし、卒業もできないぞ、って脅された。

いや、脅されたわけじゃないな、わたしが悪いんだから、親切にも忠告してくれたってところか。



とりあえず、進級も卒業もしたいから、

まず、がんばって早起きするようになった。

数学の赤点は、1年生の頃にやってた部活(野球部のマネージャー)の顧問の先生が

学校のとなりの駅で学習塾をひらいているので(非常勤講師だったから)、そこに野球部の

おなじく赤点メンバーたちと一緒に、部活が終わってから夜遅くまで勉強した。

夜遅くって、ほんとに遅くまでだったな。

深夜2時とか3時まで。

べつにうちの学校、進学校じゃなかったんだけど、ほんとに頭ワルい子たちばかりだったから、

みんな進級かかってて。

そのために塾いくって、どうよ!?(笑

その学習塾での講師は、ほとんどが名大出身で、現役大学院生の先生もいた。

そのなかでも、わが落ちこぼれ野球部軍団を担当してくれたのが、「一色先生」。

テンパにメガネにケミカルウォッシュな、いかにも理系の先生だったけど、

ほんとーーにうちらに親身になって教えてくれた。

深夜まで勉強したあとは、また2つ市をまたいで名古屋まで戻ってこなければならないわけで。

一色先生の運転する車で、名古屋方面の子は一緒に帰ってた。


いま思い返すと・・・ほんとすごかったな。

フツーの大学生が、あんな遅くまで、しかも帰りのアッシーまでやってくれる塾って、

いまでもあるんだろうか?


そして、わたしは2年→3年は 「仮進級」 というかたちで進級できた。

仮進級は、3年生の1学期~3学期までのうち、テストで1回でも赤点をとったら

卒業ができないという厳し~~いものだった。

でも、一色先生の教え方がほんとに上手だったから、私は数学でいちども赤点をとることなく、

無事、卒業できた。

進路も、学年主任の先生に、「お前の成績だと、短大もムリだな、専門学校をさがせ」 と言われたけど、

当時の夢が「女子アナになること」という無謀な夢だったので、どうしても四大に行きたかった。

そして、見事四大に一発合格。

まわりはビックリしてた。

なんなら、大学院まで行ったんだよって、

もし、当時の担任の先生や、塾の一色先生に、いま会うことができたなら、

そう伝えたいな。

ビックリしてくれるかな。

ほめてくれるかな。


あ、わたし、ほめて伸びるタイプですから(笑)



そういえば。

先日、オーディション用の履歴書を書く機会があって。

思い出しました。

大学3年生のころ、「ミス・キャンパスヒロイン」になったこと。

”ミス” と ”ヒロイン” は、併用できる英単語なのだろうか??



そんな素朴なギモンは置いといて。

どういう経緯でキャンパスヒロインになったか、

じつはあまりよく覚えていない(爆

しかし、学内新聞?みたいなのに、写真つきで私が掲載されているので、

いちお、事実みたいだ(笑


私の通っていた大学は、もともと理系の工科大学だったんだけど、

私の年代くらいから、文系も設置されて総合大学になった。

そのかわり、それまで併設されていた女子短大が廃止に。

私が大学受験する年には、もう女子短大の募集はしてなかったけど、

入学したら、さいごの2年生がいました。

翌年、さいごの女子短大生が卒業して、ちなみに私は新設学科だったから

先輩がいないので、けっこう自由というか融通がきくというか。


そんなこんなで、話は元に戻るけど、「ミス・キャンパスヒロイン」といっても

歴史は無くて、むしろ初代だったりします。


” 昔とったきねづか ” は、生涯たいせつに自慢したいと思います^^
わたしのファーストキスのお話。

相手は、同じ幼稚園・同じクラスの、なかむら君。

しかも、オマセなことに、舌と舌を合わせて。。いわゆる「ベロチュウ」的な(笑)←表現が古い^^;



5歳なのに、よく覚えてるでしょ??


それは、ある事件があったからなんだ。


溶連菌感染症 、いわゆる「いちご舌」になってしまったの。。。

これは、幼児が感染するもっともポピュラーな病気。

子供って、なんでもかんでも口の中にいれてしまうから。

で、感染症というだけあって、飛沫感染とか、わたしの場合は直接感染(笑)

オカンも当時のことをよく覚えてたみたいで、、、

ファーストキスが幼稚園の頃なんて、ほんとオマセだわ。






わたしは、小学生の頃、楽しみな行事やイベントがあると、必ず前日に「発熱」してしまう、残念な子供だった。

遠足の前日は、ほぼ発熱。

楽しみすぎて、知恵熱がでてしまう、といったところだろうか。


6年生の修学旅行も、東京へ行く新幹線の中で、みんなが楽しそうにしているのを横目に、

私は音楽の先生の膝枕でグッタリしながら、それでも修学旅行に参加できただけで嬉しかった。



そんな小学校時代に、いちばん高熱をだしたイベント前夜は、

小学校5年生の2学期がはじまって少ししたころ。

私の住んでいた名古屋では、7月から11月の4ヶ月間、市政100周年を記念した

「名古屋デザイン博覧会」 が開催された。

市内の小学生は、遠足で訪れる予定となっていたが、もちろん前日に発熱。

ちなみに私には弟が2人いるのだが、一番下の弟(当時小学1年生)も同じ日に発熱しており、

あれは風邪だったのかも。

解熱剤を注射してもらう程の高熱だったので、おそらく39度近くあったのだろう、

病院に行って注射してもらい、家で休んでいた。


私は、すごく楽しみにしていたデザイン博に行けなくなることが、本当に悔しくて、さみしくて、

神様にお願いをした。

サンタさんは信じてなかったけど、神様と仏様は絶対にいるって信じてたから。

寝室には私ひとりだったけど、もし家族がとつぜん入ってくると独り言と思われたらはずかしいから、

小さい声で、ボソボソと、神様にむかって話した。


------


「お願いです!熱をさげてください!

ちゃんとお勉強するし、給食も好き嫌いしないで食べます。

あ、でも五月豆(インゲンのこと)だけは、ちょっと苦手です。

弟たちともケンカしないようにします。

だから、神様ー!

神様、聞いてますか? 聞いてたら返事してください!」


-----


そしたら、



『ぁ』



って、聞こえたの!!!


え??神様の、声??



わたしは、さっきまで神様に返事をしてほしかったくせに、

いざ声が聞こえた気がしたら、なんだか急に恐くなってしまって。



-----


「やっぱり、さっきのナシです!!

お返事いらないです!!


好き嫌いしないって言ったけど、たぶん無理だし、

熱と交換にはできないと思うので、

やっぱりこのまま熱でいいです!!


------



と、叫びました。



そしたらもう神様の声は聞こえなかった。


まぁ、聞こえたっていっても、 『ぁ』 しか聞こえてないんだけどね。


いまとなっては、高熱にうなされてて、耳もボーッとしてたから

幻聴かもしれないとは思うけれども、

当時は、本当に神様がいるんだー!って思った。


意外と低い声のダンディーな感じだったよ(笑)







そんなこんなで。


現在。

もうすぐ年末年始の長期休暇ですが。

楽しみすぎる私は、またもや風邪ひーて熱だしてます。。。


20年経っても、変わらないんだね^^;(笑







地元の公立中学校は、3つの小学校の学区から成る。


自分の通っていた小学校から、そのまま繰り上がりで入学した友達もたくさんいたけど、


わたしはなぜか、となりの小学校の子たちのほうが仲良くなった。




そのなかでも、


同じクラスになった、学年一の美少女と言われるA子ちゃんとは、小学校が別々だったが、


ボーイスカウト(のような活動に小学校で所属していた)で一緒だったこともあり、


いちばんの大親友になった。


いまでも親友なのだから、かれこれ十数年の親友歴となる。




そして



  

そんな彼女の、幼ななじみに、私は恋をした。


もちろん、私とは別々の小学校の子だ。



隣のクラスのその彼は、スポーツマンで、背が高いし、頭もよく、ムードメーカーだ。


いわゆる、学校に一人は必ずいるよね~っていう人だと思う。


私の大親友と幼ななじみということもあり、放課後にはグループで遊ぶこともしばしばあった。





ある日。



私の視線が、あまりにも彼を追いかけているもんだから、いつも一緒にいる親友には


私の気持ちを言わなくてもバレバレだったようで、


「彼のこと好きなの~? 応援するー!」


と言われた。


彼女は、先輩の彼氏がすでにおり、当時にしてみたら、ちょっとオマセさんだったと思う。


そこが彼女のチャームポイントでもあったしね。


しかし、誰とも付き合ったことのない私には、もう、好きな人がバレたっていうだけで


超テンパっちゃって。


遠くから眺めてるだけでいいのーっていう気分だった。


彼と直接しゃべろうもんなら、顔が赤面してしまうから。


そんなこんなで、私は彼女に、


「彼には絶対に私が好きだってこと、ナイショにしてね!」 と、


親友と私の二人だけの秘密になった。





1学期も終わり、夏休みに入る前の終業式の日。


帰りぎわに、彼が私の親友を校舎裏に呼び出していた。




それは、


彼が、告白をした、ということ。


どうやら、彼女のことがずっと好きだったみたい。



彼女には、先輩の彼氏がいるので、もちろんお断りしたらしいが、それでも彼は


なかなか引き下がらなかったそうで。




そんな彼に、彼女が言ったのは、




「わたし、愛情より友情を取るから!あなたとは付き合えない、ごめんなさい!」



と言い、私が待っていた下駄箱まで戻ってきた。






・・・・・。


当時、大親友で、いつも二人きりでつるんでた彼女と私。



・・・・・。



ええ。



私が好きだってことが、必然的にバレてしまったのです。






そんな天然発言の彼女を、私が責められるワケもなく、


彼に私の気持ちがバレて恥ずかしい気持ちもあるけど、


大親友の彼女の口から  ” 愛情<友情 ”   と表現されたことも、単純にうれしくて。


とても複雑な気持ちでした。




その後、やっぱり恥ずかしがり屋の私は、この一部始終を聞き終えた後、


「ちがうから! わたし、あなたのこと好きとかじゃないから!」


と、彼に言い訳をしに行ったとさ。






ちなみに。



15年以上経ったいまでも、大親友の彼女も、彼女の幼ななじみの彼も、


今でも同窓会という名目をかりて、年に数回は集まる仲良しグループの一員です。




こうやって振り返ってみると、


人を好きになるっていう気持ちは、こうやって出来上がってきたんだなぁ~って。



当時は恥ずかしがり屋で自分の気持ちを伝えられなかった私も


社会の荒波にもまれた今では(?)、ちゃんと伝えます^^


でも、それができるようになったのも、ほんのここ1年以内の話だけどね(笑)



気持ちは、言葉にしないと伝わらないし、


自分から可能性を否定してしまったら、なんにも前に進まないってこと、



ちゃんと学んでこれたみたいだから、この一件は、いまではとてもいい思い出のひとつです。


当時は、とっても切なかったけどね♪






友達の誕生日会に招待された。



5人ほどでA子ちゃんの誕生日を祝うことになり、プレゼントをそれぞれ各自で


手作りのものを用意しよう、ということになった。



私は、オカンと相談して、何を作ろう~~と、とても楽しみだった。


そこで、当時ハマっていた、和紙の折り紙を


空き箱に貼って、その中にお菓子をいれてプレゼントをすることにした。



冬の寒い日に、折り紙を切ったり貼ったりの細かい作業は、


末端冷え性のわたしには指がかじかんでしまい、ちょっと大変だったけど、


それでも、和紙の箱の出来栄えが、自分の中では結構イケてて、


しかもオカンもやたら褒めてくれたから、


むしろプレゼントするのがもったいない、と思うくらいだった。




誕生日会当日。




見事にハメられた。




わたし以外の友達たちは、母親たちが用意したであろう、当時流行っていた


シルバニアファミリーの人形をプレゼントとして持ち寄っていた。




手作りのプレゼントは、私だけだった。




「あれ~本気にしたの~~? 手づくりなんかするわけないじゃん!」


参列した友達の言葉。



それでも、私は一生懸命作った手作りの自信作プレゼントだ。


きっと誕生日のA子ちゃんは、気に入ってくれるだろう。



そう思ったのも束の間。



「手作りなんてダサイ。いらないー」




当時は、本当に傷ついたんだと思う。


でも、私は泣かなかったらしい。



そのプレゼントを結局渡したのか持ち帰ったのかは忘れてしまったけど、


帰宅してオカンに今日あった出来事を話した。





そこで私は、オカンに八つ当たりをしてしまった。





わたしもお人形さんを買ってプレゼントすればよかったんだ。


どうして提案してくれなかったのか。


手作りと人形と、両方用意しておけば、みんなの前で恥をかかずに済んだのに、と。





いまとなっては、とんだお門違いな発想だが、


当時は、母親がすべてだったから


まわりと私が違うのは、すべて母親のせいにしていた。





そんな私に、オカンは言った。




「まわりと一緒じゃなくてもいいじゃない、


まわりの友達たちは、そういう悲しい考えしかできない、可哀想な子なのよ。


そういう子たちは、そんな風にしか考えられなくて可哀想ね。


そこを真似してしまったら、あなたもそういう可哀想な人間になってしまうわよ。


あなたは、人一倍、ひとを思いやれる子になりなさい。」




オカンは、まわりの友達を


「かわいそう」


と言うけれど、


私は、うちが貧乏でプレゼントの人形も買えないから


私のほうが絶対「かわいそう」だと思った。




でも。

オカンのこの言葉に、また救われる日がくるのは、ほんの数年後のことだ。




・・・つづく






25歳の3月は、学生から社会人になったとき。


いまでもしっかり日にちまで覚えているのは、


大学院の卒業式が3/23で、2日後の3/25から万博が始まったから。



わたしの卒業後の進路は、「愛知万博でアテンダント」 になったことだった。



大学院まで出ているのに、就職せずにアテンダントに・・・なんていう


野暮なことは絶対に言わない、お祭り好きな両親や家族のおかげで、


わたしは3/25~9/25までの185日間を、愛知万博のアテンダントとして勤めた。




パビリオンは、企業パビリオンで、プレショーでのナレーションが主な業務。


なかなか台詞が覚えられず、研修では半泣き。。いや、モロ泣きだったかも(笑)



名古屋の夏は、暑い。


とにかく暑い。


開会した3月は、まだ雪の降る寒い日だった。


ちょうど愛知万博が認知されはじめた、夏休み頃には、


炎天下の中、通勤するのにも汗だくになる。



それでも、アテンダントやナレーションの仕事が楽しいから


同じアテンダントの仲間たちと過ごす時間が楽しいから


万博は、あっという間に終わってしまった。


本当に、いい思い出だし、いまでもよく思い出す。


もちろん、当時の仲間たちとは今でも連絡を取り合うほどの仲だ。




「万博症候群」 という言葉があるらしい。


一度でも良い思いを経験してしまうと、なかなか普段の生活に戻れない、という。




わたしは、まさにそれだった。




万博が始まる前の研修では、泣きながら「辛い、辛い」と言っていたくせに


終わったあとの虚無感とは、表現できないほど放心してしまった。




学生を卒業して、はじめての社会経験が、「万博」というイベント。


これより楽しい仕事はあるのだろうか。


私は万博終了後、2ヶ月ほど無職だった。


いや、無気力だった、というほうが正しいかもしれない。




そんななか、




「東京に来ないか?」 という、鶴の一声。


アテンダントをしていたときの事務局の方からだった。


上京の誘いを受けた4時間後には、私は東京行きを決めていたのだった。


次の仕事は、大手広告代理店での受付嬢である。







・・・つづく