身内に不幸がありました。そういうの見たくも読みたくもない人はここで引き返していただければ幸いです。
先日の日曜日に母方の祖母が亡くなりました。
一昨々年くらいからなだらかに、少しずつ、穏やかにと行った感じで、これを老衰と言うのだろうななんて思いながら迎えた告別式。ただただ泣きました。たくさんたくさん泣きました。
おばあちゃんの家というのは小さい頃から両親が共働きだった私にとって暖かで、賑やかな家でした。叔父さん一家も同居していたので、弟みたいな従兄弟たち(3兄弟)がいて、おばあちゃんがいて、母が迎えに来るまで遊んでいたりとまるで実家のようにリラックスできる場所でした。そこに、もうおばあちゃんは居ないんだなと思うと、これを書いてる今でもうるっとします。
最近はそれぞれ大人になり、従兄弟たちとも殆ど顔を合わせて居ませんでしたが、久しぶりに子供の頃のようにみんなで一日中一緒にいて、でもそこにおばあちゃんは居なくて。
ボケたりはしないまま、痛みが酷かったので最後の一ヶ月は入院して居ました。緩和ケア病棟といって、痛み止めのみの処方で延命というよりは最後を穏やかに迎える為の入院でした。モルヒネによって痛みを抑えて居たので、日々、少しずつ意識がはっきりしない時間が伸びて行く時間を過ごして居ました。お見舞いに行ったある日、さっきまでまどろんでいたのに、私の手を握ってじっとこっちを見ながら「あんたのママをよろしくね」と。実は全然元気でからかってっじゃないかってくらいキリッとした顔で言われ、なんとか堪えながら震える声で「任せて」とは伝えましたが、すぐにトイレで号泣しました。
話の時系列がバラバラですみません。
私とは対照的に、従兄弟たちは普段あまりおばあちゃんの部屋には行かないようにと言われて育ってきました。私がいる日は例外で賑やかに過ごして居たようで、おばあちゃんとの時間への思い入れは4人ともおばあちゃんと4人での記憶が強く、暖かく、それぞれに残っています。追いかけ回して遊んでたり、部屋と部屋の間で大量の折り紙の手裏剣を投げあって遊んだり。4人で一緒にお風呂に入ったり。まったくうるさいんだから!なんていいながらジュースを用意していてくれるおばあちゃんが大好きでした。
同居してなかったからこそ、きっと誰よりも私と私の母を心配していたと思います。母は顔を出すたんびに口喧嘩してから帰ってきては「私も将来あんな風になるのかね!」なんてぷんぷんしてる時もありましたが「もう既になってるよ」と笑いそうになるのを堪えながら、どうだろうね〜なんて誤魔化してました。おばあちゃんと過ごした時間はきっと孫たちの中では私が一番長かったと思います。私が物心ついた頃にはおじいちゃんも亡くなっていたので、おばあちゃんと二人で過ごした時間は長かったと思います。小学校高学年くらいから、顔を出すたびにお小遣いとして500円玉をくれて。あんまり顔を出せなくなっていたつい最近まで「500円玉をみてあんたの顔忘れないようにしてるんだよ。」なんていいながら渡してくれていました。
身体を焼いた際に、骨と一緒に溶けたメダルのようなものが入っていて、私一人そのタイミングで号泣というなんとも憎い演出をしてくれました。
最後に棺に入れたものは叔父さんと義叔母さんが用意したおばあちゃんの愛用品ばかりだったので、どこかに紛れていたんだと思います。
まだまだ時間はかかるだろうけど私の顔を忘れないように持っていってくれたのかな、なんて思うといつまでも泣いていられそうです。
昔の私は落ち着きがなくワンパクで手のかかる子だったと正月の度に話題にされていました。その分私を見ていてくれた時間も長く、いつかライブに呼べたらな、なんて思っていましたが。2階席を用意するのはまだ先になりそうです。
たくさん心配かけて、これからもきっと心配性でせっかちなおばあちゃんのことだから、まだか〜まだか〜と言ってそうですが。
頑張るからね、見ててね、ばいばい。
なんて、普段は死後の世界なんて想像もしないしオカルト、メルヘンじみた考え方なんて、とも思いますが、今日くらいはいいかなと思ったりもします。
長々と書きましたが、自己満足というか、なんというか。いつまでも凹んでるわけにも行きませんし、そうしていたくもありませんので、自分の中で区切りとして、自分の中の漠然とした喪失感をここに置いて、明日からまた元気に過ごしていこうという決意をここに。
一応ツイッターの方にもシェアをしますが不幸自慢がしたいわけではないですし、みんなも大切な人を…みたいな事も言いません。ただ杉浦のおばあちゃんは亡くなったのかと思っていただければそれだけでいいですし、忘れていただいて結構です。自分の中で変に引きずらないように、こういった形で残しました。
グダグダな文を読んでいただいた方がいたら、ありがとうございました。