意思の疎通―ストレス軽減の前提


家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

まさにブログ的ひとりごとを書いていきたいと思います。

長年、講師をやっていると思考傾向が一般社会人とズレていくのが感じられます。

こうした講師ならではのズレをお知らせすることはお子様の教育環境を作る教師を理解するのに少なからず役立つものと思い、個人的な感覚を公開しようと考えました。

どんどん活用していただきたく存じます。

多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。 



更新が遅れて申し訳ありません

前号の続きです。

子どもの話は次号以降にするとして、まずは一般的な「他人との付き合いの心構え」についてストレスを軽減し、自己管理をしていく前提とする僕のやり方をお話したいと思います。


「子どもは思い通り行動してくれません」

そもそも子どもならず
他人をどうして思い通り動かそうとするのか?

そこが僕の最初の立ち位置でした。

今でもそういう事は日常茶飯事として自分に襲ってきます。

私は毎日、電車通勤?をしておりますが、通路に足を投げ出している人を見ると、足を蹴っ飛ばしたくなる。(若い子に多いと言いますが、結構、中高年にも多いです。一度、統計を取ろうと思いますが、多分、同数くらいの感じがします。 実は見つけるとわざと足にぶつかるように歩くのですが、皆さん器用に避けてくれます(笑)。 満員電車の中で前で足を組んでいる人の足先に立ち、どんどんにわざと投げ出した足に近づくと曲げ続けてかなり苦しい状態になりますが、それでも接触はありません。(笑) 大体がスマホに熱中している方々です。 女性も結構多いです。)

乗り換えの歩行中のナガラスマホが前に歩いていると頭を小突きたくなる。

この理由はいくらでも付けられます。
社会的に迷惑だから… 俺はやらないのにお前はどうしてやってるんだ…などなど。

しかし、実際そう思って腹が立つのではありません。

生理にも近い不快感です。

昔、血気盛んな頃の「眼(ガン)つける…(=メンチ切ってんじゃねえよ) 肩がぶつかる…(=どこ目ぇつけて歩いてんだ、この野郎) 格好や態度が生意気…(=トッポイカッコしてんじゃねえよ)」等(カッコ内ほとんど死語…^^;)の類です。

しかもこれって同年代に特に顕著に現れます。
いわゆる同類嫌悪に近いものと想像します… 現に殺傷事件は同人種や同国同士や近親者同士つまり親しい仲で起こりやすいことは周知のとおりです。 実際、英語で喧嘩できたら相当の英語力です。

簡単に言うと意志の疎通ができないと喧嘩もできないのです。


What we've got here is failure to communicate.(意思の疎通が欠けているようだ)
そう、「意思の疎通」これがキーワードです。

「意思の疎通」とは言葉が自分の意図通り相手に伝わっているか?が確認できることでしょう。

ではどうやって確認するのか?

それが自分の言葉に対応するはずの相手の行動なのです。

つまり、確認は究極的には相手の行動のみがそれを確認できる証拠となります。

相手が動いてくれなければ、証拠が見られないこととなり、「意思の疎通」が確認できない不安を呼ぶのです。

これがストレスを呼んでしまうという結果を呼び、体に異常を来たし…

こうして自己管理不能状態となるのです。

なぜなら自己管理と言われる「自己」の範囲を超え、蓋然的な他者の動きに左右されてしまうから自分の範囲内ではどうにもならないこととなるからです。

なんで俺の気持ちが分かってくれないんだ?

とは実は
何故、俺の言う通り動いてくれないんだ?
ということなのです。


だから、子ども相手に関わらず、人間同士である限り、(=「意思の疎通」を誰かと取ろうとする限り、)このストレスへの危険は常に潜在化しているのです。

ですから「約束」という名のもとに確約を取りたがるのです。

「約束を破る」やつとは付き合わない、のもこのストレスの回避なのです。

親しくなればなるほど「意思の疎通」が日常的となり、段々、完全なものとなっていくのは諸刃の刃なのです。

他人なら許せるのに恋人や肉親は許せないということは多いでしょう。

肉親が他人以上の他人になってしまうことなど日常茶飯事です。

深い仲にならなければ良い関係でいられたのに…というケースは誰にでもあることでしょう。

これ不思議ですよね?


実はここで言う「意思の疎通」とは一方通行なのです。

つまり、自分から相手への方向しか働いていないのです。

これをエゴイズムと言います。

最初から「約束通り」相手が動くと思うと条件が厳しすぎて、もしかしたら違う場面では良い人間関係を築けたかもしれない可能性を失ってしまうことになります。

一期一会の機会を自ら放棄してしまう…

これはもったいない…^^;
「ここまでやってくれれば十分、それ以上やってくれたら有難い」という意識でいれば、「やって当たり前(まだ足りないところはあるが…)」というストレスの切れ端を残す→ストレス0プラスアルファ喜びを得られる のに…

よく「信じて裏切られた」などと他人以上に嫌悪するケースがあります。

まず、「信じたもの」というのは独りよがりではなかったのかを検証する必要があります。

その上で「約束を破った」というのも当然のごとく出てきます。

その「約束」って相手も行動するのが当然の「約束」だったのか?も検証すべきです。
男女の「奥さんや旦那さんと別れて自分と結婚する約束」なんぞ男女ともに無責任極まりない「約束」です。 もともと社会的な契約である「結婚」制度を否定して個別の「約束=契約=法律」を国会でもないのに作っているわけです。 こんな法を勝手に作り、信じるなどありえません。法治国家に生まれた限りは「法を守る」のは当然です。 大体、相手の奥様や旦那さんの権利を阻害するなど許される行為ではありません。 くっついたって結局自分も同じ目にあうのが関の山です。 結構、周りに居るんですよ…^^; 
これこそまさに無法の世界です。


信用のない間は法の範囲内で「契約」を結び、「契約」を守ることが必要で、それ以上を望むのは「口約束」の類です。

「口約束」を守れ、というのはあまりにも傲慢な態度でしょう。

「口約束」というのはお互いの主張がぶつかる一番の原因です。

約束したつもりはなくても約束にされてしまうことも少なくありません。

「~というのもできますから」ということを受け取る側は「~はやってくれるものだ」という風に自分の都合で認識してしまいます。

話がどんどん変わっていき、「契約」とは全然違う形になっていく…

これは個人的にも仕事的にもよくあるパターンです。

ある時、サービスとしてやったことが当たり前になっていく…→慣習化される…

サービス競争が起こり、サービス過剰状態が起きる…

身の回りにいくらでもあります。


言葉が1:1対応するという幻想の他にさらに自分から相手への関数(=自分が決まれば(いろいろな言い方を示しても意味することが1つなら)相手が1つ決まる)でもあります。

言葉は生まれ育った環境や育ち方によって変わってきます。

まさに多:多対応で、それをさらに行動として「自分の言動:他人の行動」を「1:1対応」のみならず「多:1」対応させるということ自体、無理があるのです。


では「意思の疎通」は諦めなければならないのでしょうか?

いえいえ、「自然なもの=多:多」を「不自然なもの=多:1」にするのが問題なのです。

自然なものを自然なままに受け入れ処理すれば、なんの問題も起こらないのです。

「他人が受け入れてくれることは蓋然的なのでまずは自分が他人の言葉を受け入れる

これで相手の言葉の範囲=蓋然性を量ります。

自分の意図の範囲を広く取りながら自分の言葉を投げかけてみる…

自分の許容範囲を超えない行動を相手がとってくれたら、自分を受け入れてもらう

他人を受け入れ損なったり自分を受け入れてもらえなかったら潔く関係を断つ…」
世の社長さんや上に立つ人はこの許容範囲が広いのです。特に居酒屋の大将の許容範囲の広さには本当にビックリさせられます。「徳ちゃん向いてるよ、やれば?」と言っていただくこともありますが、僕には真似できない…^^; いつも尊敬をもって通わせていただいております…m( _ _ )m

これが僕のやり方です。


常に「意思の疎通」とは相手との共同作業であることを意識していけば、相手を一方的に憎む理由は存在しません。

相手が原因で被害を受けたとしても「被害者意識」は軽減されます。

どんなケースにも当てはまるわけではありませんし、経済的な損害も時には生じます。

しかし、こうした心構えがあれば、経済的な損害の代わりに心理的な損害を軽減できるのです。

経済的な損害はどんなにジタバタしても避けられないことは多いですが、どうせ損害を受けるのなら、気持ちよく心を整えた方が得です。

逆に「気持ちよくなるための必要経費」と考えれば、なんてこともありません。
(=ナンクルナイサー)


心のためならお金を惜しまない

これが僕の信条であり、前提であるわけです…

(続く…)
子どもを動かすということ… 
―何故、ストレスを感じるのか?



家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

まさにブログ的ひとりごとを書いていきたいと思います。

長年、講師をやっていると思考傾向が一般社会人とズレていくのが感じられます。

こうした講師ならではのズレをお知らせすることはお子様の教育環境を作る教師を理解するのに少なからず役立つものと思い、個人的な感覚を公開しようと考えました。

どんどん活用していただきたく存じます。

多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。 



更新が遅れて申し訳ありません

前々号の続きです。


「子どもは思い通り行動してくれません」

これは教師であれ親御さんであれ同じです。

いや、もっとクールに言えば
「他人は自分の思い通りには行動させられない」
と言った方が正しいかもしれません。

「(他人に)良かれと思って言っているのになんで(その通りやってくれないんだ)

そう思ったことありません?


問題は二つあります。

一つは「思い通り

二つ目は「行動させる


この二つを満たすのは大変なことです^^;

行動させても「思い通り」ではない

実はこのケースが一番多いような気がします。

「そんなんだったらやってくれなくてよかったのに…」

そう思い今度はやめさせる。

またやらせるが、また気に入らないのでやめさせる。

この繰り返し…

これでお互いストレスは溜まるばかり


まず、「思い通り」というのはあるイメージ(無形)があり、その形が有形になることを意味します。

ところが、イメージは自分の中にあるもので他人の中にはありません。

イメージや言葉が現実の物体と同じならば、話は簡単です。

例えばそれが商品で同じものがお金で買えるなら買えばいいだけです。

ところが人間となると十人十色。

やった人で皆違うに決まっています。

それをイメージ通りというのはありえません。

どこかで妥協が必要なわけです。

つまり、「それでもいいや」ということで代用するわけです。

代用を許せば、逆に「そっちの方がいい」というサプライズ的喜びまで可能になります。

例えば、商品でさえ、象牙の箸でしかものを食べたくない人が割り箸が使えるでしょうか?
挟んだ時の感覚、箸の重さ、太さ、長さ、あらゆる違和感が襲ってきてストレスを感じることでしょう。
それだけで料理の味まで変わってしまうかもしれません。


ところが、サバイバル的冒険を経験した人は箸を木の枝で代用出来るし、手でも代用できる。

選択が沢山あるおかげでどの食べ方でもストレスは感じないでしょう。

イメージは「完全」です。

現実は「不完全」です。

特に日本人は「完全」を具体的な形にすることに神経を注いできました。

日本製品の精密さはまさにこの思想に基づいています。

伝統を重んじる人は過去のものを忠実に再現することに心血を注ぐし、人型ロボットを作る人はなるべく人間に近い動きを求める…


子どもとなると大人から見れば「不完全」そのものです。

しかも作り変えるわけにいかない。

この状況で「完全」を求めるというのはかなり厳しい…^^;


次に「行動させる」ということ。

人が行動するというのはどんな場合でも自発的です。
                   犬だって…


ところが他人が人を動かすというのはこれに矛盾するわけです。

そもそも動かすことのほうが不自然。

自分の肉親であっても動かすのは難しい…^^;

ところが肉親であるがゆえに「言えば必ず動く」と考えてしまう…

やってなければ罰を与えるというのも段々効かなくなってくる。

これを繰り返したおかげで逆に全く動かなくなることさえあります。

動く苦痛と動かない苦痛がある場合、動かない苦痛を選ぶわけです。

罰といっても大したことはできません。

一般的なのは禁止でしょう。

例えば、ゲームを禁止するといった場合、最初のうちは「やらなきゃゲームできない」ということで指示通りやろうとしますが、余りにも指示の難度が高くなると「ゲームやらなきゃ済む」ということになり、何もしなくなります。

リスクの回避というのは大人だけでなく、子どもの世界にも着実に根を下ろしつつあるのです…

この状態になってしまうと子ども大人ともにストレスの塊となります。

子どもはこのストレスを感じないためにどうするでしょう?

もしかしたら、やる気になる子もいるかもしれません。
(=親や教師が求める理想形)

しかし、一番簡単なのは

何もやらないこと

です。=やらない方が楽に決まってます。きわめて自然…

こうして、やらせようとする親や教師と子どもとの絶えない争いが始まります。

大人は子どもが思い通り動かないことからどんどんストレスを感じ、エネルギーを使って言葉は荒くなり、禁止行動もエスカレートしていき、子どもはどんどん無気力となっていき…


ひどい悪循環です…

僕は36年前からこの渦中に居たことになります。

しかし、僕はストレスを感じませんでした。
=そうでなければ自己管理できていない

親身じゃないから? 真剣に子どもと向き合っていないから?

いえいえ、私は真剣です。

だったら何故?…


(続く…)
追悼 若秩父高明 親方


親方が亡くられました… 享年77(満75歳)

お見舞いにも行けず、大変失礼しました。

退院されたと聞かされて安心していた矢先のことで正直、「寝耳に水」の心境です。

いつでもお会いできると思っておりましたのに本当に残念でなりません…



生前は大変お世話になりました。

ゴルフをご一緒させていただいたことは私にとって一生の宝です。

カートを素手で止めてしまった力強さ まだ目に焼き付いております。
(カートのタイヤからの土煙が…)


Nちゃん(前に僕の塾で事務を手伝ってくれた女性事務員さん)と一緒に名古屋に行った際、ちょっと?太めのNちゃんのことを紹介するときの親方のお言葉
「弟子です」

…忘れられません。

本当に穏やかで楽しい方でした。


盛大な還暦のお祝い… ゴルフ会の数々の集い… 南部屋でのお話…

思い出は尽きません…


心よりご冥福をお祈りいたします。
テレビを見ていてふと思い出した… ―真の自己管理とは…


家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

まさにブログ的ひとりごとを書いていきたいと思います。

長年、講師をやっていると思考傾向が一般社会人とズレていくのが感じられます。

こうした講師ならではのズレをお知らせすることはお子様の教育環境を作る教師を理解するのに少なからず役立つものと思い、個人的な感覚を公開しようと考えました。

どんどん活用していただきたく存じます。

多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。 



テレビをつけると「いつ見ても痩せていて、お綺麗ですね。本当に自己管理がしっかりしてらっしゃいますね。」などと司会者がある女性タレント向かって言っておりました。

「ん? これどこかで聞いたことある…」

昔、あるビッグカップルが破局する際、記者会見で男タレントが
「僕は『自己管理できない』(=太ってきた)人は嫌いです」
と相手のことを言っていたのを思い出したのです。

日本人には苦労=善という根強い思想があります。

逆に楽=悪も同様に…


僕は昔、この模様をテレビで見ていて、この男タレントに薄っぺらさを感じました。

「痩せること」が「自己管理」?

芸能人ですから、流行に合わせて「美しさ」=「痩せていること」は必要でしょう。

ただ、誰でも痩せていることを美しいと感じているわけではありません。

平安時代の美しさは「豊満」なことが条件だったし、そのように美女は描かれています。

『ヴィーナス』だって『モナリザ』だって然り。
「太っている」=「ブタ」=「ブス」と定義するなら 「痩せている」=「カマキリ」=「ブス」と定義するのもありでしょう(笑)。 イギリスに居た時、記憶が正しければ「ブス」を“dog”と言っていたのを見ました。 「美」はあくまで個人的な感覚だし、僕自身、若い頃は「ガリ」で「痩せている」ことに劣等感を持っていました。(喫茶店のバイトができなかったのは制服のインナーがブカブカで恥ずかしかったからでした…)諦めて自然に任せていたら今は立派な「ブタ」になりましたが…(笑)

普遍的な「美」などありません。

ただの流行りだし、きっとまた変わるでしょう。

ただ「痩せれば自己管理ができている」という皮相的な発想が「薄っぺら」であるのと同時に「苦労していれば自己管理ができている」ということも皮相的です。

「痩せる」=「食べたいものを我慢する」=自己管理=エライ

という単純な図式。

僕は数年前、「断食」に凝っていました。

これが僕を太らせた一番の原因です。

僕の場合は「胃腸が荒れている」=飲みすぎ^^; という自己センサーが働いたとき、胃腸をリセットするという単純な民間療法で さらに副産物としてその後一瞬痩せるとみんなが
「カッコ良くなったね」
と言われることが面白くてやっていました。=その後、すぐに「太ったね~」とも言われます…(笑)

だったらこれが究極の「自己管理」なの?


正直、20年以上前のあの男性タレントの言葉がこれだけ一般的に流布するとは思いませんでした。

流行った理由は苦労して痩せるという一見ストイックな態度日本人の美意識にほぼ合致したこと。

オードリーヘプバーンやツイッギーに代表される「痩せた美人」が流行りだしたこと。
僕もオードリー・ヘプバーンは好きですが、僕が好きなのは「肉感」的な魅力が無いことで単に女性のセックスアピールが薄れ、「理性」や「品」を感じるからです。 「痩せている」だけで感情むき出しの女性には同じ魅力はちょっと…というか避けたいです^^; いわゆるギスギスした感覚が僕の心を乱し、ストレスを感じることからは逃げるのが僕の信条です。^^


以前の美人の代表のイングリッドバーグマンやソフィア・ローレンやマリリン・モンローといった「美」は今ではほとんど無くなりました。

セックスシンボルになりつつある「壇蜜」だって痩せ型です。

僕はこの現象は男に好奇の目で見られることからの女性の反発のように感じられてなりません。

「セクハラ」と言って触られること自体に嫌悪感を持つのは「安い女」と見られるな、という子供の頃からの教育がなしている業だと思われてならないのです。

つまり、「女性のプライド」です。

それが昂じて男の目というよりも女から見て「太っている」=「苦労していない」=自己管理ができていないという図式になっているように思えます。

気にしているのは「女の目」で女同士の競争としか見えません。

現に本当に痩せていることに美意識を持っているのは日本人の特異性です。
他の諸外国の場合はメタボ症候群の予防のための「減量」であって決して「美」のためではありません。 つまり、あくまで医療であってもし健康に問題なければウエストが10センチ増えようが気にしないはずです。

実はこの「美意識」は「仏教思想」=「禅」の誤った認識が大きいような気がします。

「苦行」=「禅」=「善」

苦しんで物事を達成することの美学。

日本人が何かを達成すると必ず過去の苦労談が放映されます。

でも、本人からすれば「好きだから」やってきたんです。

僕は「苦労談」がそんなに「苦しい」ことだとは見ていても感じられません。

ただ、一般的な人がそれほど好きにならなかったことをまさに寝食を忘れて「好きになった」に過ぎないのです。

もし、これに才能を感じるならば、「好きになれる」才能です。

それがたまたま人に認められたに過ぎず、同じ道を歩んで日の目を見ない人だって同じくらい「幸せ」なのです。

逆に人に褒められることで「やらされる」部分が多くなり、「嫌いになる」ことだってあるので、「楽しめて」生活している人の方がもしかしたら「幸せ」なのかもしれません。
前回の「川上哲治」の言葉は「努力」という苦しんだイメージではなく、「夢中」といういわばランニングハイ状態が凄い偉業を成し遂げるということを言いたかったに過ぎません。

「禅」の思想は本当はこの状態を意味すると僕は理解しています。

何にも影響されない=何も苦しいと感じない=「悟り」

のためのいわゆる「苦行」であって、やっている本人はさほど苦しくないのです。

禅の「苦行」とはこの境地になるための練習であって、「苦しさ」を感じることが目的ではありません。

日本人特有の感覚では「つらかった」と他人に言わせたいのです。
これを聴いて「私にはできないよ」という言い訳にもなりますし、「それを私はやってきたんだ」という自慢にもなります…かなり卑怯…^^;


僕はいわゆる優等生(=勉強好き)がいとも簡単に多量の問題を解くのを見て、「ただ、好きなことをやっただけでしょ?」というクールな見方をしてきました。

「すごいね」とも言いますが、ジグソーパズルを解いて「すごいね」と言っているのと同じ感覚です。

それを「すごく苦労してやったんだ」という生徒の演技も黙認してきました。(笑)

受験算数を教えていて、面白そうな問題があると「指導」を忘れて「夢中」で解いてしまって
「あっ いけね」
と思っていると唖然として「すげー…」とため息をついている受験生が横に居ることがよくあります。(笑)

これも「威厳」を示すには良いかとも思うのですが、これは全く教えていません。(笑)
「やっちゃった…」
の類のことです。

「凄くないんだよ。だれでにできるんだよ。」
と「種明かし」をして、こうやって簡単に解いているんだということを説くことで形式を整えますが、実はただの「お調子者」なのです。^^;

この後「面白いでしょ?」「簡単でしょ?」というのが僕の口癖です。

「苦労しなきゃできない」という講師もいますが、これは出来る子にとってはいいかもしれませんが、出来ない子には「諦め」を誘発します。


話を元に戻しますが、
「自己管理」=「我慢」=「苦労」
を示しているように思います。

前述のタレントの言動は「食べたいものを我慢もできない=「自己管理」できない者がこれから先、他のことも出来るわけない」ということでしょうが、僕にとっては凄く違和感があったわけです。
食べたいものくらい美味しそうに食えよ^^; 人生の楽しみじゃん^^;

くだらないことを「自己管理」するもんだ ということです。

真の自己管理とは体を健全にするだけでなく、「心」も健全にすることです。

体に一番悪いのは「心の不健全」すなわち「ストレス」です。

「ストレス」は極端に免疫機能を下げ、活性酸素を増やし、ひいては癌細胞を活性化させます。

生きていくにはこの免疫機能を向上させなければなりません。

ところが、私の仕事は思い通りやってくれない「子ども」…

当然、この人間関係は「ストレス」を生むはずですが、私は全く「ストレス」を感じません。(笑)

これは大人同士の人間関係にも応用できるかもしれませんので、次の記事で紹介したいと思っています。

(続く…) 


ペタしてね
お詫び:8月に入り、ブログの更新が難しくなりましたので、大変恐縮ですが、過去、私が書いたブログを紹介します。
全く教育に関係のないことと思われるでしょうが、実はこの当時は問題提起することにより「教育」を探るものと思い、書いていたのです。
新作ではありませんが、過去1年以内に他の場所で書いたものなのでご容赦願います。
よろしくお願いいたします。


努力とは ―川上哲治の名言より

家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

36年間の教育経験からの教育論を通じて、子育てのお役に立てればと思っております。

どんどん活用していただきたく存じます。

多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。 




大多数の中学受験生は、打ちのめされています。

このままだと志望校に入れないぞ

という言葉が有言であれ、無言(合格判定の数字等)であれ、頭の中から離れないでいます。

しかし、このことから無心の努力は生まれません

いつでも「~のためにこれをやるんだ」と未来を見据えて行動を決めるからです。

えっ?」と言われる方も居るかもしれません。

いつでも目的に向かって努力するんじゃないの?

ということです。ここで
努力とはどんなことか?
有名な川上哲治の名言を紹介します。

努力に際限などない。
努力していると思っている間は、
本当に努力しているのではない。

努力しているという意識が消え、
唯一心になって初めて努力といえるのだ。



この言葉を受験に例えれば、

努力に際限などない。     =努力に目的(際限)などない。
努力していると思っている間は、=頑張っていると思っている間は、
本当に努力しているのではない。=本当に力を出しきれていない。

努力しているという意識が消え、=頑張っているという感覚がなくなり、
唯一心になって         =勉強することに夢中になって
初めて努力といえるのだ。   =初めて努力している状態になる。

僕は御三家に入ったり、驚異的に短時間で伸びていった子を数多く見てきました。

その子達の特徴は机に向かっているとき、
夢中
になって鉛筆を動かしていることです。
(外の音など全く気にならない状態…)

夢中

いい言葉です。^^

夢の中…
(井上陽水じゃないよ…^^; 古いネ^^;)

今の子で夢中になっているのは一般的には携帯ゲームやテレビゲームではないでしょうか?
正直言って無駄です。
(これあまり言いたくない^^;
子供たちに嫌われるし、気を抜けるのは『ゲーム』くらいしかないのが現状です。
全く生産性のないスキルアップのない無駄な時間の使い方…
でもそれしか夢中になれないこどもの寂しい人生…
切ないです…)


しかし、どちらも共通点は「もう少しでできる…」という感覚です。

目先のことを「もう少し… もう少し…」と完成に近づいていく…

これ、ブロックやパズルのような達成感を求めることに他なりません。

前述の「目標は要らない」というのを勘違いしないでください。

遠い漠然とした目標は要らない
のです。

近くの具体的な目標は必要です。

これを夢中で繰り返すのが優等生です。


また、川上哲治はこんなことも言っています。

思えば自分が四番打者だったころは苦しくてたまりませんでした。
「自分が打たねば勝てないと思っていました。」

これは逆にできる子の不安です。

できる子だって不安なのです。


勉強を楽しむ状態

これが勉強状態の究極状態です。


親も腹をくくり、不安を払拭しなければ、こどもは不安なままです。

こどもは親の鏡です。(感情感染)


やるべき事はこどもが
勉強自体を楽しむ状態を作ることです。


ここまで読んでいただいた方々にはもう言うことはありません。

親子共々毎日を笑顔で受験を迎えてください。
お詫び:8月に入り、ブログの更新が難しくなりましたので、大変恐縮ですが、過去、私が書いたブログを紹介します。
題して
『対比シリーズ』
全く教育に関係のないことと思われるでしょうが、実はこの当時は問題提起することにより「教育」を探るものと思い、書いていたのです。
新作ではありませんが、過去1年以内に他の場所で書いたものなのでご容赦願います。
よろしくお願いいたします。


●遊びと勉強 ―余裕と全力 

家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

36年間の教育経験からの教育論を通じて、子育てのお役に立てればと思っております。

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前回、「北風と太陽」の「無理をしなくても」という言葉に注目してください。

目的を達成するために何が一番効率的なのか?

受験勉強の目的はペーパーテストで正解の答案を書くことです。


日本人は精神論が大好きで、それがそもそも非効率的なトレーニングや勉強法を生んできました。

一生懸命=一所懸命

という言葉や

根性

という言葉が大好きな国民性です。

しかし、一生懸命、無理して根性を出すことは全力を出すことには必ずしも繋がらないのです。


スポーツも勉強もガチガチに力を入れすぎると逆にパワーが生まれないこともしばしばなんです。

例えば、ボクシングで腕に力が入りすぎるとパンチのスピードも出ず、力も出ないのです。

「ジャブは肩で打て」

という指導法があります。

腕をブラブラにして体の回転で打つ(ゴルフも一緒です)のです。


全力

とはたくさん問題を解くことです。

目の前の問題に夢中になって初めて力がでるのです。

「もうちょっとでできそう…もう少し…」

これが前進です。


遊び、それはゲームをやることだけではありません。

昔、非常に腕の良い大工さんがおりました。

この方は木造建築の専門家で、

「家()は息をしているんだ。サッシなどつけない方がいい」

とお話ししてくださりました。

言いたいことは「サッシのような密閉性の高い「余裕のないもの」をつけると空気の流れがなくなり、木が「息を吸えなく」なる」ということです。

この方に本棚を作っていただくと、夏は天井にぴったりと天板が張り付き、微動だにしないのに、冬は動かせる、という「遊び」=「余裕」があるのです。

そう「遊びとはまさに「余裕」なのです。

木が息をするように、子供も息をしているのです。

息ができるように「余裕」を持たせてください。

無理をしたってやる量は大して増えないどころか時間を無駄にすることの方が多いのです。

休む時は徹底して休む!

やる時は夢中になって勉強!


この静と動が前進を生むのです。
(動いてばかりだと後ろに進むかもしれません)

常に余裕をもって受験に臨んでほしいものです。
お詫び:8月に入り、ブログの更新が難しくなりましたので、大変恐縮ですが、過去、私が書いたブログを紹介します。
題して
『対比シリーズ』
全く教育に関係のないことと思われるでしょうが、実はこの当時は問題提起することにより「教育」を探るものと思い、書いていたのです。
新作ではありませんが、過去1年以内に他の場所で書いたものなのでご容赦願います。
よろしくお願いいたします。


●北風と太陽 ―善と悪 

家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

36年間の教育経験からの教育論を通じて、子育てのお役に立てればと思っております。

どんどん活用していただきたく存じます。

多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。 



母の妹(=驚異の語学天才!)

僕の全く頭の上がらない人。
母とはとにかく仲が良く、僕の名付け親でもあります。
(叔母は1日、国会図書館に籠り、名前を考えたそうです…)

今でも母が東京に帰ってくるのは叔母との国内旅行のためで、決して僕に会いに来るわけではありません。

叔母が何故、語学天才かというと彼女が新しい言葉の会話を覚えるのにたったの2年しかかからないからです。

やり方を紹介すると、一年目、テレビ講座なども活用しながら文法書を隅から隅まで読むそうです。

二年目はいきなり、テレビの中級講座を受けるそうです。

これで喋れるようになるというのですから、凡人には真似できません。

僕が知っている限りで、英語・ロシア語・フランス語、スペイン語等ラテン語全般・ドイツ語・中国語…

この叔母に一度だけ逆らったことがあります。

何か凶悪事件が話題になったところ、

全員がいい人だったら問題ないのに…」

とぽそっと言ったことがどうしても納得いかず

「悪い人がいるから善い人が居るんじゃないの?
(怪獣がいなかったらウルトラマンはただの乱暴者…^^;)
善い人ばかりだったら善い人が存在せずに普通の人だけじゃない。
全体化・画一化した方がいいの?」

という僕の意見から大論争となってしまいました。


さて、善と悪、これを決めるのはやはり歴史だけです。

絶対悪と思われる戦争だって
「1人殺せば犯罪者
1000人殺せば英雄」
という皮肉さえあります。

もともと種の保存の意味から、哺乳類は良血筋を残すような争いはしますが、共倒れはしません。

共倒れさせるような動物は人間だけです。

もし、種の保存という最も生物的な見地から言えば、戦争は絶対悪ということになります。

しかし、物事は複雑で、種の保存のためには生きることが必要で生きるためには食物が必要、さらに経済力が必要です。

そのために戦争する…避けるべきことです。 

人間が抱える矛盾ですが現実です。


こうした対比は世の中にたくさん存在します。

対比を教育に生かす記事を対比シリーズと名付け、ここ数回書いていきます。



まずは…


一番、典型的な対比のお話し「北風と太陽」でしょう。

みなさん知っているでしょうけれども、もう一度思い出していただきたい意味でここに記し、次回、続きを書きます。


北風と太陽

北風と太陽が、どちらが強いかで言い争っていました。

議論ばかりしていても決まらないので、それでは力試しをして旅人の着物を脱がせた方が勝ちと決めようという事になりました。

北風が、始めにやりました。

北風は思いきり強く、
「ビューッ!」
と、吹きつけました。

旅人は震えあがって、着物をしっかり押さえました。

そこで北風は、一段と力を入れて、
「ビュビューッ!」
と、吹きつけました。

すると旅人は、
「うーっ、寒い。これはたまらん。もう1枚着よう」
と、今まで着ていた着物の上に、もう1枚重ねて着てしまいました。

北風は、がっかりして、
「きみにまかせるよ」
と、太陽に言いました。

太陽はまず始めに、ポカポカと暖かく照らしました。

そして、旅人がさっき1枚よけいに着た上着を脱ぐのを見ると、今度はもっと暑い強い日差しを送りました。

ジリジリと照りつける暑さに、旅人はたまらなくなって着物を全部脱ぎ捨てると、近くの川へ水浴びに行きました。


人に何かをしてもらうには、北風の様に無理やりではうまくいきません。

太陽の様に相手の気持ちになって考えれば、無理をしなくても人はちゃんと動いてくれます。

おしまい



(続く…)



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家庭教師 徳田安俊
お問合せ;tokuda4649@gmail.com

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●教育遍歴6 ―当時の受験指導(2) 


家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

これから自分の事や自分の置かれていた社会状況についてお話ししたいと思います。

バブル時代から低成長時代に続く世の中は今では奇異に感じられることが満載でした。

私は全く「終身雇用」に関係のない転職を続けながら天職を続けられたことは恵まれていたと今も思っております。

その中で出会った素晴らしい先生。生徒。全て私の血となり肉となったのです。

この教育経験は決して普遍的なものではありませんが、今の教育と比べていただき、歴史として読んでいただければとは今の教育方針にも必ずや参考になると存じます。

どんどん活用していただきたく存じます。

多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。



この当時の「学習塾業界」はそろそろ「四谷」方式はダメじゃないかという風潮が出てきました。

ダメな面というのは「予習」にありました。

生徒に「予習」を強要するが故に無理が生じ、「予習」ができなくて「泣く」生徒が続出したことが原因です。

まさに文字通り、「予習シリーズ」というのはテスト会であった「四谷大塚教室」がテストでいい点数を取るためには、「予習シリーズ」を予習しておきなさい、ということで初期の頃はみんな予習してテストを受けたわけです。

ところが、難易度が増していき(=生徒の理解力が低下し)、自学自習できない生徒はそのために難易度の高い問題の指導が必要となり、「四谷準拠塾」が登場したわけです。

しかし、それはまず生徒がある程度「予習」してその後、わからない応用問題を学習塾が解説するという形態をとっていました。
(正直、時間的な問題で「形式的」に全分野を終わらせるための塾の態度)

そのある程度「予習」することが既に無理な生徒が大半を占め、「予習」を強要する講師と「できない」生徒とのせめぎ合いが前述の悲劇となり、講師の方は僕の眼から見るとサディスティックきわまりない「しごき」となって現れておりました。

この「しごき」に耐えられた生徒が一流校に入っており、今でいうと30代以上となります。

この教育を受けた人間が指導者になっているケースが多く、この「しごき」の歴史はいまだに続いているのです。

日本人の大好きな

根性! 努力! 達成!

です。

「根性」を出して、「努力」して「達成」することしか目的に到達できないと思っている人の多いことはわかっています。
これは夢を見ているだけでしょ?
と僕は主張し続けて、みんなの共感を得られず、あえなく自営に失敗したのでした。(笑)


しかし、「達成」できなかったらどうするの?

学習塾が子どもたちを「勉強嫌い」や「無気力」に追い込んでいくのを親自ら選ぶ現状をどうにかしなければならないのに学習塾側も見ないようにしている。



こうした中、老舗『四谷大塚』に代わる新興勢力が登場しました。
この当時はまだ『SAPIX』や『東進』はできたてで現在の規模は無く、むしろ、『四谷準拠』系の『市川進学教室』や『山田義塾』といった振興住宅地の地方塾と『日能研』や『代々木ゼミナール』の大資本塾との一騎打ちの形が色々な地方都市で生じる「塾戦争」が勃発していました。^^;

現在、代表的なものが『SAPIX』『日本能率進学研究会』ですが、これらはこの当時から独自のカリキュラムを提唱し、新たな「中学受験」の勉強法を展開していきました。

この二つの教室の共通点は、『四谷』カリキュラムをさらに早く進めて低年齢化するとともに、早めの内容習得により、「早く『過去問』演習に向かう」ことを目指したものです。

さらに求めるのは『御三家』に代表される最上位校合格で、ひとり勝ちだった「四谷大塚」を崩す事でした。

いわゆる「上に合わせる」教育で、この発想は「大は小を兼ねる」という単純な発想であり、これはご父母の支持を得られた大きなファクターとなりました。

カリキュラム等の細かい内容などご父母にはあまり必要のある情報ではなく、むしろ「この塾に入れば**校に合格できる」という単純な図式がご父母を説得し、入塾にいざなう短絡的なアピールなのは今でも同じです。


内容は、幼児教育では「四谷」の『知能遊び』や『シリーズ』の焼き直しで表現を変えたにすぎず、高学年も「四谷」カリキュラムを元にして、入れ替えを行い、さらに指導内容の低年齢化で早め(速め)に終わらせ、「過去問演習」を早めるというご父母の要望にマッチさせることに主眼を置いた「消費者の声」を具現化したものです。

問題なのは「早めに内容を終わらす」事で、ただでさえ「四谷」システムで泣いている生徒が大半なのにそれを夏休みも含めてカリキュラムを組み、夏休みが「休み」でなくなる形式が一般的になると同時に家庭教師や「個別指導」塾との併用で指導を補填していく形がさらに「普通」となったのです。

今や「団体塾で課題を与えられ→個別指導で内容を習得→団体塾で週例テスト」の繰り返しを1週間単位で行うルーティーンを繰り返すのが、「できる子」の育成方法となりました。^^;
(おかげさまで数ヶ月で一年間の仕事が得られました。^^;
違う意味で「教育バブル」です。^^;
現に以前の収入を軽く超える状況となり、生活も充実しています。
国際的に生産効率の悪い日本人ですが、賞味週24時間ただし拘束時間はその2倍…^^;)

大雑把に言うと、実質的には団体塾の授業時間の大半が「無駄な時間」になっているのが現状です。^^;

この形は「日本人の生産効率の悪さ」が「教育効率の悪さ」と一致しているのは皮肉です。^^;

ですから、「中学受験」をしている子は「労働」を「勉強」に置き換えれば、既に疑似社会人(疑似サラリーマン?)を演じていることとなります。

昔、家事をやらされていた子どもと比較すれば、むしろ、「遊び」に費やせる時間は確実に短くなっており、子どもの質も変わって当然ということです。

「子どもが勉強している姿」を見ているとご父母は安心し、この拘束時間の多さが重要となるのは効率を下げる大きな要因となります。

自分の学生時代の事を考えると一番時間を使ったのは学校を含めれば、「勉強」となりますが、学校を含まなければ、圧倒的に「遊び」の時間が長かった…^^;

「遊び」とは自由時間の事であり、それがたまたま「勉強」の類になることも少なくありません。

「遊び」が少ないというのは当然「拘束時間」の多さを生みます。

管理者や経営者にとって「拘束時間」の多さは「安心」を生みます。
例えば、家庭教師を雇う場合でも「勉強させる」拘束時間を重視し、「遊ばせる」ことに「授業料」を払うご父母はおりません。
しかし「遊ばせる」ことが教育効果を生むことが多々あるのも事実なのです。
シーンと静まり返って黙々と鉛筆を動かすことだけが勉強ではありません。
むしろ、体を使いあらゆる感覚を使って覚える方が効果的です。
ですから、「拘束時間」の長さは「できる」こととはあまり関係がありません
短時間に印象的に覚えた方が覚えるのです。
「集中」というのを「静かに黙々と」としか思っていない人が多いですが、それが実は生徒の怠惰を生むこともあるのです。


前にも書きましたが、授業の成立条件とは
「生徒が『生徒を演じる』こと」
です。

けなげにも長時間生徒は「我慢して、講義を聞いてくれている」ということを講師は自覚しなければなりません。

こうした我慢を強いているのに「聴いていない」ことに腹を立てる講師が居ます。(笑)

これはすなわち「講義がわかりづらく面白くない」ことを意味するのです。

あるいは「講義が当たり前すぎて聴いているのがかったるい」場合もあります。

講師は生徒が自発的に鉛筆を動かすことを第一義とすべきです。

説明なんてどうでもいい。

「できそうだ」
と思わせて、生徒に鉛筆を動かさせることだけが講師の唯一の仕事なのです。

そういう意味でほとんどの講義は「面白くない」のです。
林先生の講義は面白く、僕も大ファンですが例外中の例外です。^^;
私は今、自分の事を久しぶりに「教師」と呼んでいます。
僕は長年、自分の事を「講師」(=講義する人間)と呼んできました。
今や「講師の話を聴いてくれる生徒は居ない」と極端に考えています。
ただ「長い時間付き合ってくれている」に過ぎず、
「とりあえず付き合ってやるか」
程度の聴き方しか生徒はやってくれてないと思うことによってタテ社会の崩壊に対処し、とにかく「生徒の作業量」を増やすことに重点を置いてきました。
難しい問題を時間をかけて解けたからと言って同じ問題でさえ次にはできなくなっているのが現状です。
難しい問題とは手順の多い問題の事ですが、こういう問題こそ「速く解く」ことが重要です。
速く解く」ことはすなわち「難解」な問題が「簡単」な問題に変わる事を意味します。



こうした本来、「生徒をできるようにする」ことを無視し、「これをやれば**校に入れる」という理屈ばかりが先行したことが現在の学習塾の矛盾を呼びました。

「塾で一体何を習ってきたんだ?」
とは思ってはいるが、「できる」ようにしなければならないので家庭教師や個別指導教室に通うという矛盾です。

長々学習塾に行っていて「できない」事がたった数時間で「できる」ようになっているのが非常に不自然なのです。

学校だってそうです。

「ゆとり教育」とは長時間「何もしないで (=何も考えず) 我慢する」能力を培ういうならば
「時間つぶし」能力の育成
怠惰の育成
だったのです。(笑)

そのおかげで非常に扱いやすい生徒になったことも確かです。

僕はこれを「ロボトミー教育」と数十年前に名づけました。

目をキラキラ輝かせてどんどん質問する生徒をもう一度見たい…


(続く…)


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●教育遍歴5 ―当時の受験指導(1) 


家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

これから自分の事や自分の置かれていた社会状況についてお話ししたいと思います。

バブル時代から低成長時代に続く世の中は今では奇異に感じられることが満載でした。

私は全く「終身雇用」に関係のない転職を続けながら天職を続けられたことは恵まれていたと今も思っております。

その中で出会った素晴らしい先生。生徒。全て私の血となり肉となったのです。

この教育経験は決して普遍的なものではありませんが、今の教育と比べていただき、歴史として読んでいただければとは今の教育方針にも必ずや参考になると存じます。

どんどん活用していただきたく存じます。

多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。



僕が最初に中学受験に携わったのは練馬区の中堅総合学習塾 (今も細々とやってます…)

そこで初めて「中学受験生」に関わったわけですが、そこには「中学受験」のカリスマと評判の講師が居りました。

その行動は凄く、まず、既に15:00くらいから生徒を呼び出し、お説教&自主勉強=放置^^;。

授業が始まる30分前くらいの16:30におもむろに教室へ行き、多少のアドバイス。

その時は生徒は一人で放っておかれ、何も鉛筆が動かない状態を1時間以上続けるわけですが、ほとんどの場合、泣きます。^^;

ここで「自分の学習姿勢の未熟さ」を思い知らされ、「自分の変革」を促されるわけです。

一見、素晴らしい指導法に思えますが、僕には不合理で信じられない光景でした。

これが入塾した初めての経験でこれから先、本当に「人が違ったような」優等生になるなら、素晴らしいと言えますが、現状はこれが特定の生徒に毎週しかも何か月も続き、結局、受験を諦めてやめてしまう生徒が多かったのです。

これが「カリスマ」の授業?

僕は中学受験生にやたらに話しかけ、色々聞いて本音や情報を集めました。

この教室では中学受験の「お手伝い」程度の仕事しかせず、クラスを持たせてもらった時、やってみたいことを貯めていきました。

その機会はすぐ訪れました。

その教室は練馬区内に何軒もある塾でしたので、2年後、同じ系列の教室に移動があり、そこで初めてクラスを受け持ちました。


僕が2年間学んだことはまず、単元ごとの「習得率」。さらに同じ単元の中の「習得率」。

これを数字に頼ることなく「実感」として自分の五感に叩き込む事。

これが教育的な実務に当たります。

さらに「心」の問題

大人だって「ダメだ、ダメだ」を繰り返され、正解が与えられなければ「禅問答」状態となり、ほとんどの場合、諦めます。

少しでもできた時「そうそう」という回答が得られれば、ヒントとなり、『自信』となり、チャレンジ精神が生まれます。

みんな「未知へのチャレンジ」などと言いますが、夢物語です。

ある程度予測がたち、「先の見通し」ができて初めて「チャレンジ」するのです。

科学的大発見だって、まず、こうなるであろうと予測をたててから実験で実証するではありませんか。(「中間子理論」がいい例です。)

この「できること」を与えることは講師の仕事です。

そこで「ここまでできるのならこれができるはずだ」という課題の与え方をしていれば、必ずスキルアップさせることができるわけです。

理屈は簡単なのです。

この「見通しができる」状態にすること

これで「心」に安定ができ、ひいては根拠のない『自信』につながります。(笑)

「根拠のない」とは「できないのに」自信があるということですが、「できない」子は元々「今はできない」けどいつでも「できる」ようになる事が出来る「自信」で「今は本気を出してない」(笑)という余裕の現れです。

しかし、これは悪いことではありません。

「自信」は根拠があろうがなかろうが「見通しがたつ」ことを意味するわけでむしろ具体的に「できること」をこうすればいいということを与えれば少なくとも「実行できる」姿勢であることは間違いありません。

この「心」は僕は向学心の80%を占めていると今は断言しています。

「できること」は教え方によって一般的に高等であるとされる問題だって「簡単」な問題になったり、簡単な問題も「難解」になったりと多種多様です。

僕はこれをできるだけ細分化し、「わかりやすく」することにこの2年を使ったのです。


この当時の風潮 (今もそうですが…) では僕のような新米は「できない」生徒を受け持ち、ベテランは「できる」クラスを持つというのが一般的でした。

僕は自分の整理したやり方を生徒にぶつけました。

当時の教え方としてはかなりソフトタッチで生ぬるいものでした。

務めた教室はその当時一般的だった「四谷大塚準拠」であり、そのテスト会に準じて「A」「B」「C」「S」さらに「SS」と5クラスあり、僕は当然の如く「A」クラスでした。

小4から小6まで持ちましたが、特に小6ではクラス替えがあれば半数以上が上のクラスと入れ替わるということが起こり、ひどい?時には全員総入れ替えまでありました。

その中で小5のクラスのとても感性の豊かな読書好きの活発な子が居りました。

可愛くて可愛くて…

でも残念ながら?すぐに上のクラスに上がってしまい、さらに上へ上へと…

当然だと思いましたが、小6になり、この子がいきなり最上位クラスから僕のクラスに落ちてきたのです。

全くノートにものを書こうとしないこの子を居残りさせ、落ち着いて内容を教えようとするといきなり
「ぼく、もうできないよ…」
と絞り出すように涙がボロッと頬を流れました。

誰だ! 何がこの子をこんなにしたんだ!

全く「自信」をなくしてしまったボロ屑のようになってしまったこの子の「心」

正直、他の先生を恨みました…と同時に自分を責めました。

ぼくがもう少し厳しくして、厳しい教育にも耐えられるようにしなければならなかったのか?

ありとあらゆる原因を考えましたが、それよりもこんなにも優秀な子でさえ「心」がダメになると全てが無になってしまうのか…と本当にショックを受けました。

これが後に中学受験に失敗した子が無気力状態になる一大社会問題の兆しとさえ今になると思っています。

「ぼく、もうできないよ…」

そして

絞り出すような涙…

私は一生忘れません…

(続く…)


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家庭教師 徳田安俊
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東京都杉並区上井草3丁目
勉強のご相談がございましたら、お気軽にご連絡ください。
●教育遍歴4 ―非常勤講師の経験から… 


家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。

これから自分の事や自分の置かれていた社会状況についてお話ししたいと思います。

バブル時代から低成長時代に続く世の中は今では奇異に感じられることが満載でした。

私は全く「終身雇用」に関係のない転職を続けながら天職を続けられたことは恵まれていたと今も思っております。

その中で出会った素晴らしい先生。生徒。全て私の血となり肉となったのです。

この教育経験は決して普遍的なものではありませんが、今の教育と比べていただき、歴史として読んでいただければとは今の教育方針にも必ずや参考になると存じます。

どんどん活用していただきたく存じます。

多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。



実はこの教育経験だけは描くのを止めようと思っておりました。

どうしても「学校」批判になってしまうからです。

以前にも書きましたが、勉強は全て「公教育」が担うべきで、あくまで学習塾は補完物で『必要悪』なのです。

しかし、実情は生徒は学校でちゃんと学んできている生徒があまりにも少ない。^^;

自分の事を思えば、僕は子どもの頃「学習塾」に通っていません。

浪人?時代、(5/30『バーテン時代』を参照)必要上、予備校に通ったのと
敢えて言えば中3の時、友達の付き合いで「個別指導」の先生のお宅に通っていたくらいで正直、先生の所でやったことは「基礎力」にはなりましたが「実践力」はあくまで『自学自習』と学校でやる模擬テストで培ったものです。
一緒に通っていた友達だって家庭の事情で「託児所」的な使い方をしているだけで、その友達のお兄さん (その当時、都立「西高」に通っていました…) や弟もみんなバラバラに生活するという異常な育ち方の友達でした…


流れを言えば、中学の先生に内容を『導入』してもらい、家で問題集で『展開』し、模擬テストで課題をもらう。先生のところではできているかどうかの確認?

正直、個別指導 (家庭教師?) の先生は必要としていませんでした。

ところが今はどうでしょう?

「学校でどこまでやった?」という質問にはっきり応える事の出来る生徒の少ないこと…^^;
ここまで先生の話を聞いていないと逆に才能を感じます。(笑)
僕の時代は「大学」でこの現象が起こっており、テスト問題に先生の写真を載せ、「だれがこの授業の講師か?」という問題が一番正答率の低い問題だったというのもこの頃です。(笑)
今だったら「ワイドショー」ネタだよネ。(笑)
授業を聴いていないなんて犯罪の低年齢化と同じで低年齢化しすぎ…^^;


つまり、これも『タテ社会の崩壊』が生んだ現状なのです。


さて、僕は多大の借金も少なくなってきた頃、再び、「教育」を考え始める余裕が出てきました。

そのひとつに中学の「産休講師」=「非常勤講師」がありました。

都会の「教育」に少々疲れた僕は以前から母から聞いていた「僻地志望」に興味がありました。

学校の教師は23区内と都下を往復するように「配置換え」があるというのです。

それには「志望」を出すわけですが、その特殊な「志望」が「僻地志望」なのです。

東京にも小笠原諸島をはじめとして「島」があります。

夢見るは「二十四の瞳」(笑)

最初に行ったのは「下町」の中学(『金八先生』みたいでしょ?(笑))

しかし、現状はそれほど甘いものではなく、とにかく恰好が酷い^^;

「生徒総会」の書記長席に座っている女の子はサンダル履きにペティキュア^^;

リーゼントの生徒も多く、まるで僕の高校時代を見ているようでした。

しかし、教師同士の連係も良く、ただ「ツッパリ」が「低年齢化」しただけでそれほどやりにくいわけではありませんでした。

ただ気になったのは「教育情報」の少なさ…^^;

一番、情報が必要な先生に教材情報さえ届いていないのです。
(予想では学校教材として認められている教材会社は認可が必要で、限られているような気がしました。
うがった見方をすれば、ここにも「既得権益」があり、役人天国が感じられます…)

僕はこの当時も細々と「学習塾」を続けており、教材知識はどんどん入ってきました。
もし「業界話」ができるとしたら、「どこどこ出版の何々 いけてるよ」的な事でしょう。(笑)
今現在、都内で従弟が中学の教師がおりますが、以前、教材について相談されたことがあります。
その時、「教材が何も入ってこないんだよね」と愚痴を漏らしておりました。
今は知りませんが、彼の勤めている中学は公立中学とはいえ、番町→**→日比谷→東大と言われた名門中学。
そんな中学でさえこのザマです。
「規制緩和」を考えるなら国内からじゃない?


正直、公教育は別に教育で悪いことをしているわけではありませんが、ベストではありません

やるからにはベストを尽くせと言うなら、ベストを尽くせる環境が必要でしょう。

さらに規則や規制の多さが教師の自由度を無くしていました。

しかし、これも「都内」の事。

夢見るは「二十四の瞳」(笑)

名残惜しかったのですが、「計画通り」1年後「僻地志望」を校長に提出。

「配置換え」を期待して待っているとまたまた23区内のしかも「山の手」^^;
(どこが「僻地」なんだよ^^; ありえない!^^;)

新聞にも出た有名な?「暴力中学」でそこでの仕事は「問題児指導」
(「下町」のツッパリ指導で評価されたのか、訳わからない^^;
状況も環境も全く違うのに…^^;)


この中学、アゴを割られた暴力教師やら新聞にチクる教師やら不倫している教師やら登校拒否を続ける講師やらどうにもならない。^^;

チームワークなど何もなく、僕などは1年ほとんど同僚との会話はありませんでした。

これが最高学府で勉強し、「教師」を目指した教師なのか?

「鶏と卵」でどちらが先かはわかりませんが、生徒 (「できる生徒」も含めて) は全く教師を教師とも思わず、「タテ社会の崩壊」そのものでした。

「タテ社会」(上下関係) が崩壊するとそれに呼応して「ヨコ社会」も崩壊します。

生徒たちも「信頼」の直後の「裏切り」を繰り返し、「ツッパリ」 が一番頼りにしていたのは「極道」のお兄さんたち^^;
(この当時、ヤクザの「青田刈り」がしきりに行われていた…)

「下町」も「山の手」も貧しい(=家庭収入の少ない)地域であることは共通点ですが、それが原因とは一概には言えません。

現に「下町」の方は生徒と教師の間には多少なりとも「信頼」がありました。

「山の手」の方はある意味、「振興住宅地」に近く地元民も少ないこともあり、「信頼できる先輩」が少なく、「町の教育」が皆無だったのです。

僕が子供の頃「目上への礼儀」を怠ることは「町から疎外」されることを意味し、生活できなくなってしまいます。
(ひどい時にはお前になんて売るものはないと商店主に言われたりすることもあります。^^;)

これが「振興住宅地」と昔からの「住宅地」の差です。
今はお金さえあれば何でも手に入る時代ですから、そういった不自由はありませんが、便利さの反面、「金さえあれば、なんでもできる」という無味乾燥な人間関係を生んでしまいましたが…
逆にお金が無ければ何もできないということもあります。
お金などというものは単に「信用」であって、落ち着いて考えれば「紙っ切れと石っころ」です。(実質的な価値のないものが価値あるものに変化することを哲学用語で「物神崇拝」と言います。)


「信用」さえあれば「食える」のです。

この「信用」の大切さを社会に生かしたいですが、それは政治とやらに任せることにして(笑)、私は少なくともこれを僕の会った人だけには伝えていくつもりです。

「タテ社会の崩壊」はさらに「ヨコ社会」の希薄さを生み、お互いが疑心暗鬼となって
「騙されない」
ことに常に気を使うつまらない社会になってしまったのです。

この「タテ社会の崩壊」は容赦なく教育にも波及し、特に学校の先生の「信用」は地に落ちました。^^;
それは塾の講師も同じで、「金を払っているんだから要望のようにせよ」と指導方法にまで口を出す「にわかプロ講師」としてのご父兄がおられます。^^;
これだって「モンスターペアレント」とあまり変わりません。
これからお話しする「中学受験」指導だって、私も書いておりますが、「何々中学」合格実績を書かなければ、成り立たないようになっています。
合格実績があるからといって「必ず何々中学に合格する」保障などどこにもありません。
経験である程度「合否判定」ができるにすぎないのです。



僕は2年弱の「公教育」でしたが、逃げました。

自分ひとりの無力感をこの時ほど思い知らされたことはありません。

その代わり、これから大半を占めるであろう「中学受験」指導に邁進して、本当の「必要悪」を演じてやろうと決心したのです。

それを決心させたのはこの後に来る「中学受験」指導でした…

(「教育遍歴4」だけ続く…)


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