家庭教師をやっております徳田 安俊(トクダ ヤストシ)と申します。
まさにブログ的ひとりごとを書いていきたいと思います。
長年、講師をやっていると思考傾向が一般社会人とズレていくのが感じられます。
こうした講師ならではのズレをお知らせすることはお子様の教育環境を作る教師を理解するのに少なからず役立つものと思い、個人的な感覚を公開しようと考えました。
どんどん活用していただきたく存じます。
多くの方に観ていただきたいので、ご紹介のほどよろしくお願い致します。
更新が遅れて申し訳ありません
前号の続きです。
子どもの話は次号以降にするとして、まずは一般的な「他人との付き合いの心構え」についてストレスを軽減し、自己管理をしていく前提とする僕のやり方をお話したいと思います。
「子どもは思い通り行動してくれません」
そもそも子どもならず
他人をどうして思い通り動かそうとするのか?
そこが僕の最初の立ち位置でした。
今でもそういう事は日常茶飯事として自分に襲ってきます。
私は毎日、電車通勤?をしておりますが、通路に足を投げ出している人を見ると、足を蹴っ飛ばしたくなる。(若い子に多いと言いますが、結構、中高年にも多いです。一度、統計を取ろうと思いますが、多分、同数くらいの感じがします。 実は見つけるとわざと足にぶつかるように歩くのですが、皆さん器用に避けてくれます(笑)。 満員電車の中で前で足を組んでいる人の足先に立ち、どんどんにわざと投げ出した足に近づくと曲げ続けてかなり苦しい状態になりますが、それでも接触はありません。(笑) 大体がスマホに熱中している方々です。 女性も結構多いです。)
乗り換えの歩行中のナガラスマホが前に歩いていると頭を小突きたくなる。
この理由はいくらでも付けられます。
社会的に迷惑だから… 俺はやらないのにお前はどうしてやってるんだ…などなど。
しかし、実際そう思って腹が立つのではありません。
生理にも近い不快感です。
昔、血気盛んな頃の「眼(ガン)つける…(=メンチ切ってんじゃねえよ) 肩がぶつかる…(=どこ目ぇつけて歩いてんだ、この野郎) 格好や態度が生意気…(=トッポイカッコしてんじゃねえよ)」等(カッコ内ほとんど死語…^^;)の類です。
しかもこれって同年代に特に顕著に現れます。
いわゆる同類嫌悪に近いものと想像します… 現に殺傷事件は同人種や同国同士や近親者同士つまり親しい仲で起こりやすいことは周知のとおりです。 実際、英語で喧嘩できたら相当の英語力です。
簡単に言うと意志の疎通ができないと喧嘩もできないのです。
What we've got here is failure to communicate.(意思の疎通が欠けているようだ)


そう、「意思の疎通」これがキーワードです。
「意思の疎通」とは言葉が自分の意図通り相手に伝わっているか?が確認できることでしょう。
ではどうやって確認するのか?
それが自分の言葉に対応するはずの相手の行動なのです。
つまり、確認は究極的には相手の行動のみがそれを確認できる証拠となります。
相手が動いてくれなければ、証拠が見られないこととなり、「意思の疎通」が確認できない不安を呼ぶのです。
これがストレスを呼んでしまうという結果を呼び、体に異常を来たし…
こうして自己管理不能状態となるのです。
なぜなら自己管理と言われる「自己」の範囲を超え、蓋然的な他者の動きに左右されてしまうから自分の範囲内ではどうにもならないこととなるからです。
なんで俺の気持ちが分かってくれないんだ?
とは実は
何故、俺の言う通り動いてくれないんだ?
ということなのです。
だから、子ども相手に関わらず、人間同士である限り、(=「意思の疎通」を誰かと取ろうとする限り、)このストレスへの危険は常に潜在化しているのです。
ですから「約束」という名のもとに確約を取りたがるのです。
「約束を破る」やつとは付き合わない、のもこのストレスの回避なのです。
親しくなればなるほど「意思の疎通」が日常的となり、段々、完全なものとなっていくのは諸刃の刃なのです。
他人なら許せるのに恋人や肉親は許せないということは多いでしょう。
肉親が他人以上の他人になってしまうことなど日常茶飯事です。
深い仲にならなければ良い関係でいられたのに…というケースは誰にでもあることでしょう。
これ不思議ですよね?
実はここで言う「意思の疎通」とは一方通行なのです。
つまり、自分から相手への方向しか働いていないのです。
これをエゴイズムと言います。
最初から「約束通り」相手が動くと思うと条件が厳しすぎて、もしかしたら違う場面では良い人間関係を築けたかもしれない可能性を失ってしまうことになります。
一期一会の機会を自ら放棄してしまう…
これはもったいない…^^;
「ここまでやってくれれば十分、それ以上やってくれたら有難い」という意識でいれば、「やって当たり前(まだ足りないところはあるが…)」というストレスの切れ端を残す→ストレス0プラスアルファ喜びを得られる のに…
よく「信じて裏切られた」などと他人以上に嫌悪するケースがあります。
まず、「信じたもの」というのは独りよがりではなかったのかを検証する必要があります。
その上で「約束を破った」というのも当然のごとく出てきます。
その「約束」って相手も行動するのが当然の「約束」だったのか?も検証すべきです。
男女の「奥さんや旦那さんと別れて自分と結婚する約束」なんぞ男女ともに無責任極まりない「約束」です。 もともと社会的な契約である「結婚」制度を否定して個別の「約束=契約=法律」を国会でもないのに作っているわけです。 こんな法を勝手に作り、信じるなどありえません。法治国家に生まれた限りは「法を守る」のは当然です。 大体、相手の奥様や旦那さんの権利を阻害するなど許される行為ではありません。 くっついたって結局自分も同じ目にあうのが関の山です。 結構、周りに居るんですよ…^^;
これこそまさに無法の世界です。
信用のない間は法の範囲内で「契約」を結び、「契約」を守ることが必要で、それ以上を望むのは「口約束」の類です。
「口約束」を守れ、というのはあまりにも傲慢な態度でしょう。
「口約束」というのはお互いの主張がぶつかる一番の原因です。
約束したつもりはなくても約束にされてしまうことも少なくありません。
「~というのもできますから」ということを受け取る側は「~はやってくれるものだ」という風に自分の都合で認識してしまいます。
話がどんどん変わっていき、「契約」とは全然違う形になっていく…
これは個人的にも仕事的にもよくあるパターンです。
ある時、サービスとしてやったことが当たり前になっていく…→慣習化される…
サービス競争が起こり、サービス過剰状態が起きる…
身の回りにいくらでもあります。
言葉が1:1対応するという幻想の他にさらに自分から相手への関数(=自分が決まれば(いろいろな言い方を示しても意味することが1つなら)相手が1つ決まる)でもあります。
言葉は生まれ育った環境や育ち方によって変わってきます。
まさに多:多対応で、それをさらに行動として「自分の言動:他人の行動」を「1:1対応」のみならず「多:1」対応させるということ自体、無理があるのです。
では「意思の疎通」は諦めなければならないのでしょうか?
いえいえ、「自然なもの=多:多」を「不自然なもの=多:1」にするのが問題なのです。
自然なものを自然なままに受け入れ処理すれば、なんの問題も起こらないのです。
「他人が受け入れてくれることは蓋然的なのでまずは自分が他人の言葉を受け入れる…
これで相手の言葉の範囲=蓋然性を量ります。
自分の意図の範囲を広く取りながら自分の言葉を投げかけてみる…
自分の許容範囲を超えない行動を相手がとってくれたら、自分を受け入れてもらう…
他人を受け入れ損なったり自分を受け入れてもらえなかったら潔く関係を断つ…」
世の社長さんや上に立つ人はこの許容範囲が広いのです。特に居酒屋の大将の許容範囲の広さには本当にビックリさせられます。「徳ちゃん向いてるよ、やれば?」と言っていただくこともありますが、僕には真似できない…^^; いつも尊敬をもって通わせていただいております…m( _ _ )m
これが僕のやり方です。
常に「意思の疎通」とは相手との共同作業であることを意識していけば、相手を一方的に憎む理由は存在しません。
相手が原因で被害を受けたとしても「被害者意識」は軽減されます。
どんなケースにも当てはまるわけではありませんし、経済的な損害も時には生じます。
しかし、こうした心構えがあれば、経済的な損害の代わりに心理的な損害を軽減できるのです。
経済的な損害はどんなにジタバタしても避けられないことは多いですが、どうせ損害を受けるのなら、気持ちよく心を整えた方が得です。
逆に「気持ちよくなるための必要経費」と考えれば、なんてこともありません。
(=ナンクルナイサー)
心のためならお金を惜しまない
これが僕の信条であり、前提であるわけです…
(続く…)










