陽が沈み、暗くなっていくインドの天地。僕は木のボートでガンジス河にぷかぷか浮いている。舟を漕いでくれる無口な男と2人。インドの旅も折り返しを過ぎ、僕は生と死の街バラナシに滞在していた。
先ほど、隣のボートから乗り移って来た老婆からロウソク付の花を買い、灯を点けて河に流した。灯は僕の手から離れ、間もなく夕闇の水面に消えていった。弔いなのか厄除けなのか
、その行いにどんな意味があるのかはまったくわからなかったが、とりあえず老婆は僕の手から50ルピーを引ったくり、何か2、3言呟いてからもとの船に戻って行った。船の漕ぎ手は始終黙して話さず、僕も特に声を発しない。なんだか夢の中にいるみたいだ。
西の空にはまだ夕焼けの名残が僅かに残っていたが、東の水平線に目をやると暗闇の中雲が薄ぼんやりと発光している。最初それはUFOが雲の後ろに隠れているように見えたが、時が経つと、それが東から昇ってくる月であることに気づくのだった。やがて雲から抜け出して水面を揺らし、夕暮れの街を乳白色の光で満たす満月。あれ程明るい月は見たことがない。それはまさに夜空に浮かぶ夜の太陽だった。
月に見惚れていると、唐突に後ろの河岸で鐘が鳴らされる。人が集まり、数人の坊主が装束を身にまとって念仏を唱え始める。死体を焼いているのだ。ここで焼かれた人間は輪廻から解脱できるという。だから死を前にした人々が、インド中からこの街に集まってくる。財のあるものは飛行機で。無いものは列車の無賃乗車で。インド人は、死に方より死に場所を重要視する。この街で死に、燃やされることは彼らにとって大きな達成であり、望むべき完結なのだ。
西の空も暗くなり、世界は完全に夜になっている。僕が浮かんでいるガンジスの両側、左手に月が昇り、右手で死体が燃えている。片側は何億年も続く宇宙の光。反対側の河岸を埋める街の灯は何万年も続いてきた人間の営みだ。燃える死体は赤く小さく、チラチラと発光し、立ち昇る煙は僕の頭の上を通り、そのまま月に吸い込まれていくようだった。
なんてこった…。
僕はボートの上で仰向けに寝転び目を閉じた。ボートを揺らす水の音。坊主の念仏。シタールの音色…。こんなに美しい世界、見たことが無い。男が河にウンコする傍ら、その水で炊事洗濯、ハミガキまでしてしまうこの街が、今まで見たどんな場所より聖なる土地に見えてしまった。
ここでは人々の営みが自然に直結している。自然の与えたインスピレーションが、ダイレクトに変換されている。藤原新也が「地平線を眺めたり大地を歩くこと、それ自体がヒンドゥー教だ」と言っていたが、なるほど、その言葉の意味が今ではよくわかる。インドに生きる人間はなんて自然なんだろう。きっと、彼らが見ている世界は僕の見ているそれより、遙かにクリアでリアルなのだ。
グレート・インディア。
この風景を見ずして死ねなかった。俺も死ぬ時はインドに来ようかとさえ考えた。聖なる河ガンジスに浮かびながら、僕は宇宙に触れたような気がして、よくわからないけどなんだか泣きそうになった。
②ウルムチ
敦煌近辺の観光が思いのほか効率よく回れてしまう。
2日目に車をチャーターして敦煌西域の遺跡を丸1日で回れてしまったのが大きい。意外と無理なく回れた。関所跡とか、風化した長城とか、すんごい地形のとことか。全部遠くにかたまってるから、1日で行ってしまったほうが効率がいい。車に乗りっぱなしで相当疲れた。走っても走っても地平線。これはなかなか精神的にクる。最初は「おー」とか窓の外を見ているんだけど一向に景色が変化しない。1時間も経つと眠くなってくる。ちょっと寝て目が覚めても窓の外は寝る前と変化が無い。砂だらけの大地。地平線。なかなか疲れた。曇ってたし。
でも、この辺の観光には2日費やす予定だったから、1日で済んでスケジュールに少し余裕が出来る。
この余った時間を有効に活用すべく、別の街に行くことにする。丸1日のプラスによってかなり行動の幅が広がった。
持ってきた「地球の歩き方」を広げ、敦煌から他の街へのアクセスを調べる。
この時期、飛行機と列車は既に予約が一杯。旅行者と、中国国民の国内移動でチケットはどこも売り切れ。取れたとしても、相当の金を取られる。
とすると、残るは長距離バスになる。結構前日でもチケットが手に入る。しかも安い。
ガイドブックに載っている敦煌発のバスは
●嘉峪関(万里の長城の、西の端っこ)
距離444㌔。所要時間4時間。
●酒泉(よく知らない。泉の伝説があるとかなんとか)
距離465㌔。所要時間4時間
●ハミ(ハミ瓜発祥の地らしい)
距離430㌔。所要時間7時間
などなど。
敦煌のバスターミナルから7、8の街や村にバスが出ている。
そしてリストの一番下に、ずば抜けてる場所を見つける。
●ウルムチ
距離1040㌔。所要時間約18時間。寝台バス。
世界で最も内陸に位置する都市。「世界で最も海から遠い街」として知られる。敦煌より更に西へ1000㌔。ウイグル自治区に入り込み、漢族のほかにウイグル族、カザフ族、モンゴル族などが生活している。それでも一応まだ中国。
よし、ここに行ってみよう。世界で最も海から遠い街」なんてロマンがあるよ。早速バスターミナルに向かい、翌日18時発のチケットを買う。普通に空席ある。186元。約3000円で1000㌔移動できるから驚きだ。しかも寝台バスだから宿代も浮く。
バス移動は楽しすぎて書くこと多すぎたから省略。
いつか別に書きたい。
ウルムチ。
18時に出発し、翌日の昼12時に到着。
ウイグル自治区の県庁所在地的な場所。
人口185万人。45民族が共存するビッグシティ。世界に最も内陸にあるに関わらずビルが立ち並び車がぶんぶん走る。
敦煌から更に1000㌔西にあるため、もはや実質時差は3時間を越える。それでも中国国内で時間を統一しているため、夜9時に夕焼けが見える。
それじゃあんまりだって話で、ココでは中国時間の他に「ウイグル時間」も存在する。中国時間も、どっちも使われてるからすごく紛らわしい。
年間を通じて雨はほとんど降らない。それなのに街には大量に水がある。大きな噴水まである。
これは周囲に万年雪を頂く山脈があるからだとか。雨は降らないけど、1年中周りの山から雪解け水が流れてくるため、水不足とは無縁。それもあってかなり発展したようだ。
水不足で田舎の敦煌とは対照的。
ウルムチは大都市だからとても歩いては回れない。普通にコンクリートジャングル。中心部だけで縦6×横3㌔くらいある。一回歩いて6㌔縦断したけど、熱くて死ぬかと思った。
丸1日歩き回って大体の地図を頭の中に入れたけど、とても完全には把握できない。
そのかわり移動手段になるのがバス。
なにしろウルムチは異常なほどバスが多い。高田馬場ー早稲田間のバスもなかなかのペースだが、誇張抜きにアレの5倍くらいのペースでバス停にバスが止まる。なにしろバス停にとまるために、常にバスが順番待ちしてるからすごい。
これはバスのルートが50パターンくらいあるからで、一つのバス停に5種類くらいのバスが止まるからである。もうバスのピストン輸送である。半端じゃない。ポコポコ来る。
どこを見てもバス。それでも渋滞しないのは、道路が8車線あるからだ。半端じゃない。
バスに乗ればいけないところは無い。バスに書いてある「止まる場所リスト」を見て、頭の中の、だいたいの地図と照らし合わせてどのバスにのるか判断する。どこに行っても一律16円だからおいしい。
観察したところ、ウルムチは、中心部と南に分かれる。
中心部は半端じゃない都会。北京並である。マックだの日本料理屋だの立体交差だの高層ビルだのバスだの。普通に近代都市だ。旅人に冷たい。旅人なんかビジネスに忙しい彼らにとってはよそ者でしかない。ここにはほとんど漢民族しかいない。
でも、少し南に向かうと次第に街はウイグル人の居住区になってくる。ビルが減り、エスニックな工芸品屋が並び、あちこちで絨毯とか民族衣装とかネックレスとかナンとか売ってる。町全体が巨大な「仲屋むげん堂」になってくる。
ウイグル人はマリオ、あるいはルイージみたいな顔をしている。中国語がほとんど話せない。ウイグル帽をかぶっている。ノリがいい。トラックの荷台に5人くらい乗り、太鼓をポコポコ敲きながら移動していく。どこに行っても羊を焼いている。料理がおいしい。写真を向けると逃げる。そのくせたまに撮ると「見せて見せて」と集まってくる。警察が来ると、何故かみんなで無表情に注目する。あちこちで5人くらいのグループを作って「この前絹の納入が遅れてさあ」「あれはカミラの息子がしくじったからだよ」「まったく成長しねえなあ。おかげでその日休めたけどさあ。ははは」みたいな話をしてる(想像)彼らはエスニックな雑貨、料理、服などを売って生活してるので、結構旅人に優しい。お互い片言の中国語で仲良くなれる。
広いし、色んな顔を持ってて、散歩してても飽きない街だった。公園や緑も多くて和める。
紅山公園からの眺めはすばらしい。2回行った。
ウルムチはこんな感じ。ユースホステルに2泊した。
敦煌近辺の観光が思いのほか効率よく回れてしまう。
2日目に車をチャーターして敦煌西域の遺跡を丸1日で回れてしまったのが大きい。意外と無理なく回れた。関所跡とか、風化した長城とか、すんごい地形のとことか。全部遠くにかたまってるから、1日で行ってしまったほうが効率がいい。車に乗りっぱなしで相当疲れた。走っても走っても地平線。これはなかなか精神的にクる。最初は「おー」とか窓の外を見ているんだけど一向に景色が変化しない。1時間も経つと眠くなってくる。ちょっと寝て目が覚めても窓の外は寝る前と変化が無い。砂だらけの大地。地平線。なかなか疲れた。曇ってたし。
でも、この辺の観光には2日費やす予定だったから、1日で済んでスケジュールに少し余裕が出来る。
この余った時間を有効に活用すべく、別の街に行くことにする。丸1日のプラスによってかなり行動の幅が広がった。
持ってきた「地球の歩き方」を広げ、敦煌から他の街へのアクセスを調べる。
この時期、飛行機と列車は既に予約が一杯。旅行者と、中国国民の国内移動でチケットはどこも売り切れ。取れたとしても、相当の金を取られる。
とすると、残るは長距離バスになる。結構前日でもチケットが手に入る。しかも安い。
ガイドブックに載っている敦煌発のバスは
●嘉峪関(万里の長城の、西の端っこ)
距離444㌔。所要時間4時間。
●酒泉(よく知らない。泉の伝説があるとかなんとか)
距離465㌔。所要時間4時間
●ハミ(ハミ瓜発祥の地らしい)
距離430㌔。所要時間7時間
などなど。
敦煌のバスターミナルから7、8の街や村にバスが出ている。
そしてリストの一番下に、ずば抜けてる場所を見つける。
●ウルムチ
距離1040㌔。所要時間約18時間。寝台バス。
世界で最も内陸に位置する都市。「世界で最も海から遠い街」として知られる。敦煌より更に西へ1000㌔。ウイグル自治区に入り込み、漢族のほかにウイグル族、カザフ族、モンゴル族などが生活している。それでも一応まだ中国。
よし、ここに行ってみよう。世界で最も海から遠い街」なんてロマンがあるよ。早速バスターミナルに向かい、翌日18時発のチケットを買う。普通に空席ある。186元。約3000円で1000㌔移動できるから驚きだ。しかも寝台バスだから宿代も浮く。
バス移動は楽しすぎて書くこと多すぎたから省略。
いつか別に書きたい。
ウルムチ。
18時に出発し、翌日の昼12時に到着。
ウイグル自治区の県庁所在地的な場所。
人口185万人。45民族が共存するビッグシティ。世界に最も内陸にあるに関わらずビルが立ち並び車がぶんぶん走る。
敦煌から更に1000㌔西にあるため、もはや実質時差は3時間を越える。それでも中国国内で時間を統一しているため、夜9時に夕焼けが見える。
それじゃあんまりだって話で、ココでは中国時間の他に「ウイグル時間」も存在する。中国時間も、どっちも使われてるからすごく紛らわしい。
年間を通じて雨はほとんど降らない。それなのに街には大量に水がある。大きな噴水まである。
これは周囲に万年雪を頂く山脈があるからだとか。雨は降らないけど、1年中周りの山から雪解け水が流れてくるため、水不足とは無縁。それもあってかなり発展したようだ。
水不足で田舎の敦煌とは対照的。
ウルムチは大都市だからとても歩いては回れない。普通にコンクリートジャングル。中心部だけで縦6×横3㌔くらいある。一回歩いて6㌔縦断したけど、熱くて死ぬかと思った。
丸1日歩き回って大体の地図を頭の中に入れたけど、とても完全には把握できない。
そのかわり移動手段になるのがバス。
なにしろウルムチは異常なほどバスが多い。高田馬場ー早稲田間のバスもなかなかのペースだが、誇張抜きにアレの5倍くらいのペースでバス停にバスが止まる。なにしろバス停にとまるために、常にバスが順番待ちしてるからすごい。
これはバスのルートが50パターンくらいあるからで、一つのバス停に5種類くらいのバスが止まるからである。もうバスのピストン輸送である。半端じゃない。ポコポコ来る。
どこを見てもバス。それでも渋滞しないのは、道路が8車線あるからだ。半端じゃない。
バスに乗ればいけないところは無い。バスに書いてある「止まる場所リスト」を見て、頭の中の、だいたいの地図と照らし合わせてどのバスにのるか判断する。どこに行っても一律16円だからおいしい。
観察したところ、ウルムチは、中心部と南に分かれる。
中心部は半端じゃない都会。北京並である。マックだの日本料理屋だの立体交差だの高層ビルだのバスだの。普通に近代都市だ。旅人に冷たい。旅人なんかビジネスに忙しい彼らにとってはよそ者でしかない。ここにはほとんど漢民族しかいない。
でも、少し南に向かうと次第に街はウイグル人の居住区になってくる。ビルが減り、エスニックな工芸品屋が並び、あちこちで絨毯とか民族衣装とかネックレスとかナンとか売ってる。町全体が巨大な「仲屋むげん堂」になってくる。
ウイグル人はマリオ、あるいはルイージみたいな顔をしている。中国語がほとんど話せない。ウイグル帽をかぶっている。ノリがいい。トラックの荷台に5人くらい乗り、太鼓をポコポコ敲きながら移動していく。どこに行っても羊を焼いている。料理がおいしい。写真を向けると逃げる。そのくせたまに撮ると「見せて見せて」と集まってくる。警察が来ると、何故かみんなで無表情に注目する。あちこちで5人くらいのグループを作って「この前絹の納入が遅れてさあ」「あれはカミラの息子がしくじったからだよ」「まったく成長しねえなあ。おかげでその日休めたけどさあ。ははは」みたいな話をしてる(想像)彼らはエスニックな雑貨、料理、服などを売って生活してるので、結構旅人に優しい。お互い片言の中国語で仲良くなれる。
広いし、色んな顔を持ってて、散歩してても飽きない街だった。公園や緑も多くて和める。
紅山公園からの眺めはすばらしい。2回行った。
ウルムチはこんな感じ。ユースホステルに2泊した。
敦煌
今回は「とりあえず中国で地平線を見にいこうじゃないか」という単純な動機から思いついた旅だった。何故中国かと言うと、当時北京に父親が単身赴任しており、そこまでの交通費は出して貰えたからである。ありがたい話だ。何しろ日本を出る金が一番高いから…。
中国で地平線となると、目的地は砂漠( シルクロード周辺)か草原(内モンゴルとか)のどちらかということになる。
まあそれでどちらかというと砂漠のほうが珍しかったから砂漠にした。草原の乗馬も捨てがたいけど、中学校の修学旅行で行ったことあったし、砂漠でラクダに乗ったほうが楽しそうだった。草原には機会があればまた行きたいけど、なかなか難しそうだ。
思いついてから一週間「地球の歩き方」を見たりなんだり。Air Chinaで北京国内便の飛行機を予約。大学の期末テストの渦中、気分転換という名目で、虎ノ門駅にある東京支店までわざわざ航空券を取りに行った。
往復で65000円。
8月17日、北京ー敦煌
8月25日、敦煌ー北京。
15日、サークル合宿の疲れが残ったまま北京に飛び、北京で一日遊んで、17日敦煌に飛ぶ。北京では日本人学校時代の友人、遥樹と翔が遊んでくれた。燕京ビール飲んでたら、立ち上がった瞬間急激に気分悪くなってトイレ行き、エゲツない汚れの飛び散った暗い便所にひざまづいてゲロを吐いた。向こうの酒は得体が知れない。未知の酔い方だった。味は良かったけど。飲みやすいけど酔いやすい。あと値段がやすい。瓶一本3元とか。50円しない。場合によってはミネラルウォーターより安かったりする。 とにかく昼間からゲロ吐いた。
さて、北京ではみんな遊んでくれるけど、敦煌からは1人。もう通訳してくれる友達もいない。1週間、1人で生きていかなきゃなんない。
敦煌。
ガイドブックによると、敦煌は人口14万人。北にゴビ砂漠、西にツァイダム盆地(なにそれ)東西にうんぬんかんぬん。要するに砂漠とか乾いた土地に囲まれたオアシスである。
シルクロードは敦煌から北ルートと南ルートの二手に分かれる。つまりこの街はY字路の股の部分だから、昔から重要都市だった。遺跡とか、文化的資料とか、大量に残っている。従って現在は有名な観光都市ということになる。世界各国からツアー客やらバックパッカーやらが押しかける。
北京からはだいぶ西に位置するにも関わらず、時間は中国国内で統一されている。
実質時差は3時間弱。従って、夜の20時半時に夕方という奇妙な現象が当然の如く起こる。18時なんて普通に真昼間である。だいぶ調子狂った。現地の人にとってはそれが当たり前なんだろうけど。
最初空港からタクシーで街に入ったときは、北京から来たギャップもあり、ものすごく田舎に見えた。
まず建物が小さい。中心部の一番大きなホテルでも早稲田大学の22号館程度の大きさしかない。そして道がやたら広くて単純。曲がり角は全て直角。メインストリートが縦横に2本。あとはそれを直角に結ぶ路地。地図を見るとあみだくじみたいになっている。とてもわかりやすい。
町全体も狭い。メインストリートといっても200メートルちょいしかないんだから。街の重要部分は自転車で20分もあれば一回りできる( レンタサイクルがある)。なにせ道が単純だから四角く回るように走れば街を一周できる。簡単だ。歩いても回れる。
これは大変なところに来てしまった。こんなところに1週間いるのか。1日目で飽きかねない。困ったなどと最初はだいぶうんざりした。
でも、歩き回ってると、これは中々面白い街である。
まず雰囲気が良い。歩いてる人達がのんびりしている。
北京だと①金持ちっぽい人②普通の人③出稼ぎの人、と大きく分けて3パターンくらいの人がいる。
出稼ぎの人が道端で顔真っ黒にしながらタイルを削って、その横をスーツ着た金持ちが足早に通りすぎたりする。
でも敦煌の街は住人のほとんどが②である。もちろん見ただけだからホントのところはわからないけど、見たところ普通の人が、気楽に、楽しそうに生活してる。街が狭い分知り合いが多いのか、あっちこっちで「やあやあ」「元気か」「この前さあ」なんて会話が聞こえる。なんだか大学のキャンパスみたいな雰囲気の街だ。
あと子どもが多い。あっちからこっちから、次から次に子どもが飛び出してくる。遊んだり泣いたり叱られたりしてる。たまに話しかけてくる。カメラを向けると逃げる。退屈しない。母親は大抵2人子どもをつれて楽しそうに歩いている。適当だけど、7歳から10歳くらいの子どもがやたら多い。そして何故か11~18才の人がほとんどいない。謎である。11~18年前になにか良からぬことがあったのかもしれない。
そしてこの街の人たちは外国人にも、日本人にも優しい。
北京ではたまに日本人というと嫌な顔をされたりしたけど(たまにだけど)こちらはまったくそーゆうのはない。「日本人かい。あらあら。中国語はなせるの?」とか、ニコニコ話しかけてくる。人懐っこい。とても居心地がいい。
まあ多分これはこの街が観光都市だからだ。日本人やその他外国人の扱いに慣れている感があるし、彼らの生活は観光客によって支えられている。だからみんな旅人には優しいし、多くの旅人が買い物するから、この街は割と景気がいい。街は旅行者用の店で溢れている。結果、飲食店の人も、スーパーの店員も、果物屋さんも、ホテルの従業員もみんな楽しそうに生活してる。んだと思う。
みんな親切だし、旅行者にとってはいい街である。
今回止まったホテルの従業員さんは、チェックアウト後にどーしてもデジカメの充電をしたいと頼んだら、快くフロントのコンセントを3時間貸してくれた。「ジューデン!ジューデン!」と喚いたら「アー、チューディェン」と得心してくれたのである。発音が似てて良かった。後に行った病院でも、警備員さんが付きっ切りで病院を親切に案内してくれた。ほんとにありがたい。
単純だと思ってた街も、メインストリート以外の路地を散策すると意外と奥が深い。屋台が多い通り、果物屋が多い通り、肉屋通り、お土産や通りなど、しっかり道ごとに個性がある。
単純な道は散歩には結構ちょうどいい。レンタサイクルで街をすいすい走れる。中心部にある琵琶像が綺麗。
そして21時から24時くらいまで、毎日メインストリートがまるまる一本夜市と化す。みんなそれまで何もなかった大通りの真ん中にぞろぞろ集まりだし、品物を並べて工芸品やら羊肉やら果物やら売り始める。値切ったりちょっと会話したりがすごく楽しい。欲しくないものまで買ってしまう。またむこうの観光業が潤う。夜市に関しては別にまた何か書きたいな。
毎日24時くらいまで、寝る時間までずっとうろついてた。つっても実質時差あるから感覚としては9時くらいまでなんだけど(紛らわしい)。
食べ物もおいしかったし、申し分ない感じだった。飽きなかった。
ここには計4泊した。
今回は「とりあえず中国で地平線を見にいこうじゃないか」という単純な動機から思いついた旅だった。何故中国かと言うと、当時北京に父親が単身赴任しており、そこまでの交通費は出して貰えたからである。ありがたい話だ。何しろ日本を出る金が一番高いから…。
中国で地平線となると、目的地は砂漠( シルクロード周辺)か草原(内モンゴルとか)のどちらかということになる。
まあそれでどちらかというと砂漠のほうが珍しかったから砂漠にした。草原の乗馬も捨てがたいけど、中学校の修学旅行で行ったことあったし、砂漠でラクダに乗ったほうが楽しそうだった。草原には機会があればまた行きたいけど、なかなか難しそうだ。
思いついてから一週間「地球の歩き方」を見たりなんだり。Air Chinaで北京国内便の飛行機を予約。大学の期末テストの渦中、気分転換という名目で、虎ノ門駅にある東京支店までわざわざ航空券を取りに行った。
往復で65000円。
8月17日、北京ー敦煌
8月25日、敦煌ー北京。
15日、サークル合宿の疲れが残ったまま北京に飛び、北京で一日遊んで、17日敦煌に飛ぶ。北京では日本人学校時代の友人、遥樹と翔が遊んでくれた。燕京ビール飲んでたら、立ち上がった瞬間急激に気分悪くなってトイレ行き、エゲツない汚れの飛び散った暗い便所にひざまづいてゲロを吐いた。向こうの酒は得体が知れない。未知の酔い方だった。味は良かったけど。飲みやすいけど酔いやすい。あと値段がやすい。瓶一本3元とか。50円しない。場合によってはミネラルウォーターより安かったりする。 とにかく昼間からゲロ吐いた。
さて、北京ではみんな遊んでくれるけど、敦煌からは1人。もう通訳してくれる友達もいない。1週間、1人で生きていかなきゃなんない。
敦煌。
ガイドブックによると、敦煌は人口14万人。北にゴビ砂漠、西にツァイダム盆地(なにそれ)東西にうんぬんかんぬん。要するに砂漠とか乾いた土地に囲まれたオアシスである。
シルクロードは敦煌から北ルートと南ルートの二手に分かれる。つまりこの街はY字路の股の部分だから、昔から重要都市だった。遺跡とか、文化的資料とか、大量に残っている。従って現在は有名な観光都市ということになる。世界各国からツアー客やらバックパッカーやらが押しかける。
北京からはだいぶ西に位置するにも関わらず、時間は中国国内で統一されている。
実質時差は3時間弱。従って、夜の20時半時に夕方という奇妙な現象が当然の如く起こる。18時なんて普通に真昼間である。だいぶ調子狂った。現地の人にとってはそれが当たり前なんだろうけど。
最初空港からタクシーで街に入ったときは、北京から来たギャップもあり、ものすごく田舎に見えた。
まず建物が小さい。中心部の一番大きなホテルでも早稲田大学の22号館程度の大きさしかない。そして道がやたら広くて単純。曲がり角は全て直角。メインストリートが縦横に2本。あとはそれを直角に結ぶ路地。地図を見るとあみだくじみたいになっている。とてもわかりやすい。
町全体も狭い。メインストリートといっても200メートルちょいしかないんだから。街の重要部分は自転車で20分もあれば一回りできる( レンタサイクルがある)。なにせ道が単純だから四角く回るように走れば街を一周できる。簡単だ。歩いても回れる。
これは大変なところに来てしまった。こんなところに1週間いるのか。1日目で飽きかねない。困ったなどと最初はだいぶうんざりした。
でも、歩き回ってると、これは中々面白い街である。
まず雰囲気が良い。歩いてる人達がのんびりしている。
北京だと①金持ちっぽい人②普通の人③出稼ぎの人、と大きく分けて3パターンくらいの人がいる。
出稼ぎの人が道端で顔真っ黒にしながらタイルを削って、その横をスーツ着た金持ちが足早に通りすぎたりする。
でも敦煌の街は住人のほとんどが②である。もちろん見ただけだからホントのところはわからないけど、見たところ普通の人が、気楽に、楽しそうに生活してる。街が狭い分知り合いが多いのか、あっちこっちで「やあやあ」「元気か」「この前さあ」なんて会話が聞こえる。なんだか大学のキャンパスみたいな雰囲気の街だ。
あと子どもが多い。あっちからこっちから、次から次に子どもが飛び出してくる。遊んだり泣いたり叱られたりしてる。たまに話しかけてくる。カメラを向けると逃げる。退屈しない。母親は大抵2人子どもをつれて楽しそうに歩いている。適当だけど、7歳から10歳くらいの子どもがやたら多い。そして何故か11~18才の人がほとんどいない。謎である。11~18年前になにか良からぬことがあったのかもしれない。
そしてこの街の人たちは外国人にも、日本人にも優しい。
北京ではたまに日本人というと嫌な顔をされたりしたけど(たまにだけど)こちらはまったくそーゆうのはない。「日本人かい。あらあら。中国語はなせるの?」とか、ニコニコ話しかけてくる。人懐っこい。とても居心地がいい。
まあ多分これはこの街が観光都市だからだ。日本人やその他外国人の扱いに慣れている感があるし、彼らの生活は観光客によって支えられている。だからみんな旅人には優しいし、多くの旅人が買い物するから、この街は割と景気がいい。街は旅行者用の店で溢れている。結果、飲食店の人も、スーパーの店員も、果物屋さんも、ホテルの従業員もみんな楽しそうに生活してる。んだと思う。
みんな親切だし、旅行者にとってはいい街である。
今回止まったホテルの従業員さんは、チェックアウト後にどーしてもデジカメの充電をしたいと頼んだら、快くフロントのコンセントを3時間貸してくれた。「ジューデン!ジューデン!」と喚いたら「アー、チューディェン」と得心してくれたのである。発音が似てて良かった。後に行った病院でも、警備員さんが付きっ切りで病院を親切に案内してくれた。ほんとにありがたい。
単純だと思ってた街も、メインストリート以外の路地を散策すると意外と奥が深い。屋台が多い通り、果物屋が多い通り、肉屋通り、お土産や通りなど、しっかり道ごとに個性がある。
単純な道は散歩には結構ちょうどいい。レンタサイクルで街をすいすい走れる。中心部にある琵琶像が綺麗。
そして21時から24時くらいまで、毎日メインストリートがまるまる一本夜市と化す。みんなそれまで何もなかった大通りの真ん中にぞろぞろ集まりだし、品物を並べて工芸品やら羊肉やら果物やら売り始める。値切ったりちょっと会話したりがすごく楽しい。欲しくないものまで買ってしまう。またむこうの観光業が潤う。夜市に関しては別にまた何か書きたいな。
毎日24時くらいまで、寝る時間までずっとうろついてた。つっても実質時差あるから感覚としては9時くらいまでなんだけど(紛らわしい)。
食べ物もおいしかったし、申し分ない感じだった。飽きなかった。
ここには計4泊した。
