誰しも怒りは不要な感情だと思います。そう認識している人が多数派だと思います。

社会でもそうです、怒りは悪しき感情なのでパワハラやカスハラなどが存在しますよね。  

私はすぐイライラしてしまいます。怒りの感情が強いです。

怒りたくて怒っている人はいませんが、私は制御の仕方が人より下手なんです。

生き方が下手な人はそういう傾向にあると思います。

怒りを抑え込む人や私と同じ怒りを顕にする人は理解できないか、嫌悪感が出てくると思います。わかれとは言いません。受け入れろとは言いません。

ただ怒りを愛にどうやって昇華させるか、それが人生にとって大事なのか私は薄々勘づいています。


愛って様々なものがありますが、遊びの愛は低俗な愛です。まぁ比較的誰でも手に入るかと。でもそれって性欲で、厳密には愛じゃないんですよね。浮気とか不倫とか、セフレとかマッチングアプリで遊ぶとか。

娯楽の世界ではそれを愛と呼ぶ習わしがありますが、愛じゃなく性欲でしかないわけです。

愛って結婚して子育てもありますが、あれは私から言えば愛ではなく恋愛なんですよね。婚活とかも結婚自体が愛ではなく恋愛ではないかと。

だって愛がなくても結婚できますから。愛=結婚ではないと思います。個人的には。

愛って、聖女のようなものだと思います。母性愛みたいな。「好き」は誰にでも言えても「愛している」は誰彼構わず言えるものじゃないと思います。

「愛している」って、誰かの存在を受け入れてあげたくなるような、奉仕したくなるような思いじゃないかと。


多分、愛って普通の平凡な環境に置かれたら発揮できないんじゃないですかね。 

生き地獄みたいな落ち方をして這い上がらないと無理なんじゃないかな。

そのためには怒り、憎しみ、嫉妬、不安、恐怖の感情を極限まで感じ切らないと手に入らないのでは。と思いました。


怒りと愛って多分ベクトルは同じだと思います。憎しみと愛は紙一重ってのと同義かと。 

だからといって憎しみや怒りをぶつけていいわけじゃないですけどね。正当化はよくない。

私は怒りたくても感情をぶつける相手がいないので非公開の場所で発散していますが、それでも自分が醜くなったようで嫌です。

でもきっと、薄々はわかっているんです。怒りを極限まで感じ切らないと本当の愛に自分がなれないんじゃないかって。


愛って全然美しくないです。裏側は醜いです。化粧と同じです。見た目は飾っても、素顔は醜いのです。化粧している人の顔じゃないですよ、素顔になったその人の心です。 

化粧は化かすと書くので、偽善者に近いのかな?偽善者は優しさの化粧して自分を飾りますが、素顔は醜いだけの自己愛みたいな。

愛が醜いよりかは、愛になる前までが醜かったって言うのかな?


愛って負の感情もありますから。愛=美しいものは幻想だと思います。完璧を求めていたらそれは愛を求めているわけではありません。

愛は理想とは全くかけ離れています。愛を渇望している人は本当に愛を求めているわけではないかもしれません。

愛って、天国の中にはありません。普通の平凡な生活にもありません。地獄の中で希望を見つけるようなものです。当たり前だったことに感謝するようなものです。

愛は自分が成長しない限り手に入りません。


私は怒りの感情が強く、醜い素顔のままです。化粧しても醜さが露呈している状態です。ヤンキーが化粧するようなものです。

ただ私は同時に醜い中で愛の本質を掴みとろうと必死に藻掻いて抗っている状態なんだなと自負しております。 

怒りが強いから愛を掴み取れるわけじゃないですが、そこから成長できるかが鍵なんじゃないかと。


怒りを顕にする←悪、自分が損するだけ

怒りを抑えつける←愛は手に入らない

怒りを愛に変える←これが必要なのではないかと


愛って醜い自分も受け入れられるってことだと思います。抑えつけるのは醜い自分を晒したくない、醜い自分を認めたくない恐怖感が強い。顕にするのは醜い自分を愛せと傲慢。抑えつけるのは誰も私を愛してくれないし、私から愛す気もない。だから愛とかいらないと回避。顕にするのは自分は愛する気はないが私を愛せよと一方的な要求(ワガママ)。対して愛は私は誰かに愛を与える側に回りたい、愛を受け入れるようにもなりたい。ってことだと思います。


私の亡き母親は怒りを極端に嫌う人でした。何をしても怒りません。自分が怒らないかわりに怒られるのが一番嫌いだそうです。

ただ母親は信頼できる人が欲しいと常々言っており、せん妄になって疑いながらも亡くなりました。

結局誰一人信じられなかったのは、きっと母親も愛が欲しかったからなんじゃないかと。

怒りを恐れるが故に、愛からも恐れていた。でも信頼と言う名の愛を求めていた。

私と母親の感情の強さを足して2で割ればちょうどいいのですが、中々そうもいかないみたいで。


私は今でも怒りが強いです。まだ年齢的にも精神的にも未熟だからだと思います。

でもそれを怒りではなく愛に昇華できれば、本当の意味で愛のある人になれるのかもしれない。

マザーテレサさんのような愛のある人間になりたいです。聖人になりたいです。


私は思います、怒りや憎しみや苦しみや恨みを極限にまで感じきり、逃げないで、でも他人にぶつけたりしないで自分の中で自問自答したりしながら裏側の愛の存在にも気づけて成長しようと努力すれば、そういう風に人生を生き抜いた人は愛を手にする可能性があるんじゃないかって。


生き地獄の中にいた人ほど、それだけ光が待ち受けていると思います。

ただ自分が成長しようと抗えるかが大事ですけど。